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1993年にカンタス航空会社の機内誌「Spirit」にフリーランスで「素顔のオーストラリア」と銘打った連載インタビュー記事を執筆。
「Spirit」 In-Flight Publications Pty Ltd. 連載は長続きしなかったが、ある面、仕方ない。なにしろ観光産業とあればゴージャスでファビュラスでラグジャリアスでヤングでフレンドリーでリッチでブロンディでビューディなオーストラリアを紹介しなけりゃならんわけだが、あたしゃそんなもんにはいっさい縁がない。しばらくでも書かせてもらえただけでも感謝せんといかんのかと思う。
ブルーマウンテンという観光地のカトゥンーバという町で、教会の前のベンチに座っていたおっちゃんに、「兄ちゃん、2ドル恵んでくれへんか」と言われて、おっちゃんのポケットにタバコの箱を見つけたから、「タバコ一本くれたら2ドルやる」と言うたら、おっちゃん、ほんまにタバコ1本くれた。ぼくも約束通り2ドル渡したが、物乞いの人から物もうたいうのはぼくの交友範囲でもそんなにおらんはず。
そういうことを書かしてくれる航空会社機内誌があったら話題にはことかかんのやけどなあ。

目次

パーク・レンジャー (1992年11月/12月号)
異色の探検家 ルードウィッヒ・ライカート (1992年11月/12月号)
オペラハウス衣装係 (1993年1月/2月号)
ハーバーブリッジを支える81人 (1993年3月/4月号)
ストックルートを行く (1993年5月/6月号)
牧場の郵便屋さん
(1993年7月/8月号)
オーストラリアの心を歌う テッド・イーガン (1993年11月/12月号)
税関局沿岸監視部 (1993年11月/12月号)
目指すはアイアン・ウーマン (1994年1月/2月号)
水上生活一筋19年 (1994年5月/6月)


パーク・レンジャー

国立公園の存在を知らない人はいないだろうが、国立公園のパーク・レンジャーの任務を知る人は少ない。彼らの仕事は公園の整備にとどまらず、自然と人をむすぶほとんどすべての分野にわたっており、その勤務は日夜時間を問わない。オーストラリア全土に540以上ある国立公園のうち、ウルル (エアーズロック)、 グレート・バリア・リーフなど少数は連邦国立公園局、その他は州政府の管轄となっている。ニューサウスウェールズ国立公園野生保護局レンジャーの一日を通して彼らの努力を追ってみよう。
コル・デビッドソンは、ロイヤル国立公園事務所に出勤して来るとまず机の上の書類に目を通し、片づけた。彼は、北はロイヤル国立公園から南はウロンゴン、西はブルー・マウンテンまでの南首都圏地区を管轄する8人のレンジャーの主任を務めている。
この公園事務所には70人ほどの人が働いており、その内訳は自然学教師、事務員、別棟のワークショップで作業する車両・ボートの修理員や大工、キオスクの従業員など広範囲にわたっている。彼らとの打ち合わせもレンジャーの重要な任務である。ロイヤル国立公園だけで150平方キロあり、地区内の公園、自然保護指定地は総計900平方キロ以上、大阪府の約半分の広さである。
「レンジャーはそれぞれの方面の学位を持っているが、ここでは何でも屋でなければ務まらないよ」と、自然人らしい風貌のコルは言う。彼自身、かつては高校の地学教師だったのが、何度か公園の自然学習に生徒を引率するうちにレンジャーになってしまった。環境意識の盛り上がり始めた70年代のことである。
10時きっかりに10人ほどの若い男女の警察官が事務所を訪れ、ブリーフィングが始まった。所長とコルが彼らに公園規則の説明をする。
「彼らは地区の新任警官だ。ここはシティに近いので不心得者が入り込んで来ることがあり、警察との打ち合わせも仕事のうち。それにレンジャーは警察権の一部も持たされている。保護動物の密猟、密輸取り締まりでは警察なみの仕事もしなきゃいけないのだから」
前日はブッシュ・ファイア (山火事) 消防局との打ち合わせがあった。2、3年に一度、大規模なブッシュ・ファイアが起きるが、そのほとんどは放火である。
バンクシアなど種類によっては7年から10年に一度、ブッシュ・ファイアの熱で種がはじけて新しい世代が生まれるものがある。ところが成熟する前に火事があるとその植物は途絶えてしまう。
「動植物の生態を調べるのもレンジャーの重要な仕事。以前、シドニー北部のブッシュ・ファイアがあった林では今でも新しい植相の調査が続けられている」
公園に隣接したヘレンズバーグの町で宅地開発申請が出されている。レンジャーが何か月かかけて野生動物の生態調査をしたところ、開発予定地区の一部が夜行動物の通り道になっていることが分かった。その結果、地区割りの変更を町役場に指示した。
動物の調査は2、3年に一度、数週間かけて広い範囲で行われる。夜行動物が多いため、その間は夜通しで観察作業が続く。植物の場合は数十か所のサンプル地点で地質、日照、温度など自然条件との関係を調べる。野生化した犬、猫、狐の駆除は保護動物に被害が出ないよう、生態を観察しながら進める。
他にも公園の森では今でもアボリジナルのロック・ペインティングや彫刻が見つかる。これらのデータはすべてコンピュータに入力される。
「アボリジナル遺跡の保護もレンジャーの任務の一つ。この場合は地元アボリジナル・コミュニティと相談します。彼らが承知すれば公開し、聖地として秘密を望めばいっさい触れない」
コルは昼食前にワークショップに出かけ、大工と、ピクニック場の新しい案内板の打ち合わせをした。
私たちは遊歩道に入った。花の咲き具合や遊歩道のチェックである。コルは草むらに落ちているプラスチックの瓶を拾い上げた。
「昨日はヘリコプターでキャンプ場のゴミを運び出した。公園全体のゴミの処理代が年間20万ドルにもなる。ビジターの一人一人が自分のゴミを持ち帰れば、この20万ドルがどんなに有益に使えることか」
林からホワイト・コカトゥーが飛び立った。向こうの木では頭に黄色い羽冠を載せたコカトゥーが木の実をかじっている。{あれはサルファー・クレストだ。自然がいっぱいに見えるだろうが、ここも確実に都市化の影響を受けている。サルファー・クレストは元々ここにはいない鳥だ。市街地化が進んだ結果、住み家を追われた鳥や獣が入り込んできている。歓迎はできないが、食い止めることもできない。都市化を責めることもできない。最大限の努力をするだけだな」
午後に入って、州鉄道局の代表が訪れた。工事や鉄道が運ぶ雑草の対策を話し合うためである。
「国立公園を横切る送電網について電力局と話し合い、野生動物の密輸対策について税関局と話し合い、日照りで家畜の被害が出れば牧場主と話し合いといった調子で全く普通の役所と変わらないよ」
その合間にイルカが浜辺に打ち上げられればレンジャーを送り、猟期になればライセンスの発行と猟場の監視もしなければならない。昨年の猟期には数人のハンターを、保護鳥を撃ち落とした疑いで起訴している。
様々な仕事をわずか8人で担当しなければならない。自然が好きだと言うだけでは務まらないが、希望者が多くかなり厳しい審査を通らなければなれないのがレンジャーの職だ。
コルに望みは何かと尋ねた。
「もう少し自然に触れる時間が欲しいのと、この貴重な自然をいつまでも未来の人たちのために残せるよう努力することだ」と言った。


異色の探検家 ルードウィッヒ・ライカート

アーネムランド北端コバーグ半島のポート・エッシントンから約2か月の長旅を終えたヒロイン号がシドニー・コーブに入ってきたのは1846年3月29日。町のあちこちに歓迎ののぼりや肖像が飾られ、湾内の軍艦、砲台から一斉に礼砲が轟いた。迎えられるのはプロシア人ルードウィッヒ・ライカートだった。7か月分の食糧を携えてライカート探検隊が出発してからすでに1年半を経過、市民はとっくに彼らが大陸のいずこかに消えたと思いこんでいた。その彼が生きて帰ってきたのだ。
ルードウィッヒ・ライカートは1813年にプロシア (現在のドイツ) のベルリン近郊トレバチの町に生まれている。ベルリンで科学を学んだ後ロンドン、パリでも学び、スポンサーを得て1842年にオーストラリアに渡ってきた彼は科学者の眼と詩人の魂でオーストラリアの広漠たる自然を眺めた。
1840年のオーストラリアでは現代と同じようにアジアとの交易が盛んに唱えられ、そのためにアジアにもっとも近いポート・エッシントンとシドニーを結ぶ陸路発見の先陣争いが探検家と市民の関心の的だった。ここにライカートが名乗りを上げたのだ。
探検に途方もなく金がかかることは昔も今も変わりがない。現代では企業がスポンサーになって資金援助を行っているが、当時は国や個人の金持ちに頼るのがほとんどで、そのためにはコネがものを言った。当時の探検家は測量長官トーマス・ミッチェルなどのような植民地技術官僚、軍人、英国の学閥出身が主流だったが、ライカートはいずれにもあてはまらない。
そもそも探検という言葉には一種のロマンが漂っているが、当時の探検はビジネスであり、探検家は事業家であった。出資者となる国や個人は陸路、新しい植民地、資源を求め、探検家は功名と地位と金を求めた。いつの時代でも崇高な言葉をしゃべりすぎる事業家は下心を疑われるものである。ライカートがそうだった。ミッチェルが彼を評した「外国人の風来坊」という言葉や「寄食者」「澄まし屋」という言葉が世間の評価をよく示している。
どいうにか何人かの出資者を得たライカートは1844年8月13日にシドニーを発ち、ブリスベン河口モートン湾に向かっている。一行の船旅はハンター・リバー汽船会社が無料提供した。ダーリング・ダウンズのキャンベル牧場に落ち着くとここで一月かけて装備、牛馬を準備している。ここでも地元の牧場主らが資材を提供している。
1844年10月1日、2人のアボリジニ、1人のアフリカ黒人コックを含む10人のライカート探検隊はジンバーの村を出発、コンダマイン川を下っていった。装備は牛16頭、馬17頭と小麦粉、塩、砂糖、干し肉などの食料と装備一式、銃弾薬、4頭の犬となっている。一行で奥地経験のあるのは英国人のジョン・ギルバートだけだった。出発間もなくコックを含む二人がジンバーに引き返している。ライカートが二人のアボリジニを伴ったのは、頼みの綱としてオーストラリアの大地で生き抜いてきた彼らの知恵を信頼したからだ。しかし、同時に二人は災厄の原因にもなった。
ライカートは大陸分水嶺東側をケープ・ヨークまで北上、そこからカーペンタリア湾に沿って進み、アーネムランドを横断してコバーグ半島に到着する計画を立てた。このルートではオーストラリア探検の難関である水補給の心配がいらないが、別の問題が起きた。クィーンズランド北部のうっそうとした熱帯雨林が一行の進路を遮り、岩肌や繁みは装備を引き裂き、そのために探検隊は貴重な食糧の8分の1を失ってしまった。しかもライカートとギルバートの自然調査がさらに歩みを遅らせ、一行が現在のロックハンプトン内陸部にたどり着いた頃にはすでに4か月が過ぎていた。ジンバーから700キロ、前途にはまだ4000キロの未知の大地が横たわっていた。食料は残り少なくなっており、早くも隊員の間には不満がくすぶっていた。ほとんどの隊員はボランティアだったため、ライカートの指揮権はきわめて危うかった。
ライカートは、人間の使命、悠久の大地、澄んだ空気、輝く星空などの哲学的な考察を焚き火の明かりを頼りに書き残しているが、現実はそれどころではなかったはずである。彼らは疲れと飢えに悩まされ、目的地にたどり着けるのかどうかさえ怪しかった。進むより他になかっただけである。一行はイグアナ、ポッサム、カンガルーなど捕らえられる物なら何でも食べた。ライカートは日記の別の箇所で、「どれほど簡単に人間が贅沢を忘れ、その欲求が生存に最低限必要なレベルにまで落ちるかは見事なほどだ」と感想を記しているが、他の隊員の記録によれば、この落ち着き払った言葉とは裏腹に彼の狷介さと奇妙な意地悪さが不愉快の的だったようだ。
出発以来8か月が過ぎ、ヨーク半島に入り込んだ一行は、初めて北上する川に出会った。カーペンタリア湾に流れ込む水を発見したのだ。分水嶺を越え、旅程も半ばを過ぎている。乾期のカーペンタリア湾に沿って進めば水もあり、旅足も速い。しかし、一行は食糧不足と長旅で疲れ切っていた。そうでなければ、キャンプの警戒を怠ることはなかっただろう。
6月28日夜半、彼らのテントに突然無数の槍が降り注いだ。アボリジニは理由もなく襲う人達ではないが、一行の二人のアボリジニが地元の女性にちょっかいを出したのが原因だと言われている。襲撃グループが闇の中に消えた後には胸に槍を受けたギルバートと二人の負傷者が残された。
135年後、歴史家、地元民、陸軍の調査隊がギルバートの墓を発見したのは1985年10月のこと、犠牲者の名をいただいた川のほとりであった。
カーペンタリア湾に沿って、ライカートをマングローブの沼沢地を避け、やや内陸部を進んでいる。しかし、無数の川を越えなければならないことに変わりはなかった。ここで4か月が経過した。
1845年10月に一行は広い川の岸に立った。アーネムランドの入り口、ローバー川である。人を怖れない水鳥が群をなして水面にたわむれていた。7人は53羽の雁を射ち落とし、一日でそれを平らげたそうだ。同時にそれだけ早く弾薬を使い果たすことにもなった。アーネムランドで一行はフライング・フォックスと呼ばれる大型のコウモリを捕らえて食べている。これを食べると身体中の汗腺から悪臭がしみ出てくると言われているが、ウィルダネスで臭いに構っている贅沢は彼らには許されなかった。
このアーネムランドの切り立った砂岩の台地とそれを深く刻み込む網の目のような水系は今でも踏破困難な土地である。疲れ切った一行の牛馬にしてみるとなおさらであった。川渡りで一度に4頭の馬を失った時もあった。倒れた牛馬を切り裂き、干し肉にもしたが、干し肉が増えるほどにそれを担ぐ牛馬は減っていった。
地元のアボリジニに案内された一行がようやくポート・エッシントンにたどり着いたのは1845年12月17日のことである。出発以来1年2か月が過ぎていた。白人が一度も入ったことのない5000キロを踏破したのだ。彼らが文明社会に生還して狂喜したのも無理はない。オーストラリア北部とシドニーを結ぶ陸路が征服されたのだ。意気揚々とシドニーに凱旋したライカートは旅行記の執筆と各地での講演で日々を送りながら次の探検の計画を練っていた。スポンサーの獲得ははるかに楽だった。
しかし、歴史はことごとく皮肉である。ポート・エッシントンは、ライカート探検隊が到着する前後には疫病で倒れる者が続出、アジアとの交易もはかばかしくなかった。そしてこの熱帯の密林は寒く乾いた気候に慣れたヨーロッパ人には不向きであることを、この港町のマッカーサー司令官が英本国に報告、ライカートが到着した4年後にポート・エッシントンは完全に放棄されている。しかし、ライカートがそれを知ることはなかった。1848年、インド洋までの大陸横断探検に旅立ったライカートは、彼を深く魅了したこの大陸のいずこかに消息を絶ち、ついに戻ることはなかったのだから。


オペラハウス衣装係

シドニー・オペラハウスでは月に3本ほどのオペラが日替わりでほぼ毎晩演じられている。コーラスも含めると30人、40人にものぼるオペラの衣装はどのようにして造られ、ステージに登場するのか、オーストラリアン・オペラのワークショップを覗いてみた。
ビルの一角を占めるワークショップには縫い手だけで26人、それに靴、防止、宝飾品の職人などが働いている。この衣装部全体を統括しているのがジュリア・バストウさんだ。
演出家と運営部長が新しい作品を決めると、内容や時代考証に合わせて原案を描き、これに出演者の体型を添えて、デザイナーに送る。デザイナーは世界各国のフリーランス達だ。デザイナーから返ってきた型紙に合わせてこのワークショップで縫い上げるのである。ここには20年前からのすべてのオペラの衣装の他、衣装に使った端切れのメーカー、役柄などのデータがきっちりと整理・保存されている。
「大がかりなオペラでは300着、平均して120着程度は造ります。レパートリーが60以上ありますし、毎年5本くらいが新しく加わりますから、1万着を超える衣装がここにあると思ってください」とジュリアさん。
帽子や靴は作品ごとに区分けして保存してある。オーストラリアでもっとも有名なジョーン・サザーランドのコスチュームも数着がラックに掛かっているが、どれもずっしり重そうだ。ホールは音響的な設計をされているし、人間の身体はもともと優れた共鳴胴だから、よく訓練された歌手には普通の人よりもはるかに小さな力ではるかに遠くまで声を届かせることができる。それでもこれを着て動き回り、1時間以上にわたって歌うのはかなりの重労働であるはずだ。
作品の決定から初舞台まで数か月あるが、この衣装部では準備に約2か月をかけ、その途中で俳優と会って寸法直しも行う。できあがった衣装から小物に至るまですべてリストにして各出演者にわたす。衣装、小物は時代、階層、職業などによって様々だし、それらの名前をことごとく把握していないとできない仕事だ。
リハーサルの前には衣装がすべてオペラハウスに運び込まれる。ここには常時2人が待機しており、この人達が衣装を出演者ごとに揃え、繕い、洗濯に回し、百数十着を大きなラックに掛けて、翌日のオペラの衣装・小物と入れ換えるのである。マチネで1日に舞台が二つあると時はその間の時間でこれを済まさなければならない。
「リハーサルの時には必ず私とアシスタントが立ち会い、最終的な手直しをします。コスチュームの早変わりなどがあるときは臨時に人手を借ります。大混乱はありませんが、舞台裏にはそれぞれの持ち場の人達が大勢いますから、整然と進めないと舞台が台無しになりかねません。舞台にかかっている途中で出演者が変わることもよくあります。予備を揃えておくこともあるんですが、その場合は仕立て直しもしますね」
1本が終わると再び衣装はこのワークショップに戻ってくる。すべて洗濯に出し、修理するもの、造り直すものなどに分け、最終的には衣装は風通しの良い倉庫のラックに、小物は袋に詰めて作品の名前を付けて棚にしまう。かつらや帽子は帽子箱に入れてこれも棚にしまっておく。各衣装のデッサン、舞台の写真がファイルに収められる。
「今かかっている『屋根の上のバイオリン弾き』のように人気のある作品は2年ごとぐらい、それほど人気のないもので5年ごとぐらいに上演されます。次回には出演者も変わっていますから、必ず仕立て直しになります。その間に3か月間はメルボルンでも上演しますから、休む暇はありませんね」
帽子、靴、宝飾造りもプロの職人でフェルトや皮の仕入れから行っており、ワークショップの棚には頭型や靴型が所狭しと並んでいる。そこで奇妙な物を見つけた。大きな怪物の足にスキーブーツが乗っかっているのだ。
「『ラインゴールド』のものです。ワグナーのニーベルンゲンの指輪」の一部ですね」と、ジュリアさんはいたずらっぽく笑った。


ハーバー・ブリッジを支える81人

昨年60歳の誕生日を迎えたシドニー・ハーバーブリッジは、弱冠20歳のオペラハウスと並んでシドニーの象徴となっている。ある人はこのハーバーブリッジをシドニーの取っ手と評した。巨人が天から腕を伸ばしてむんずとブリッジをつかみ、シドニーを空に引き上げる光景を想像するとなんとなく楽しい。
両岸のパイロン間が503メートル、アーチの頂上が134メートル、それにデッキが海抜59メートル。ハーバートンネルが開通して交通量を分担するようになったが、1日に20万台車が通行するこの橋の保守を引き受けているのは運輸局のハーバーブリッジ部の81人の職員達である。彼らの事務所はドーズ・ポイントの橋脚の中にある。
ハーバーブリッジは一見すると、南北両岸の石造りの橋脚 (パイロン) に載った橋桁が鉄骨のアーチを支えているように見えるが、実は橋を支えているのはパイロンの水辺側にある4本のヒンジ・ピンと呼ばれる鉄の柱だ。ピンと言っても直径37センチ、長さ4メートル強もあり、このピンの1本ずつがアーチの2万トンの重量を支え、アーチが橋全体を吊り下げているのだ。
ハーバーブリッジの建設工事は1928年に開始され、開通式は1932年3月19日、当時の州首相ラングの手で行われた。連邦として独立してわずか30年、世界大恐慌がこの国にも押し寄せ、失業率が30%を超える年だった。人々のこの橋にかける希望が、反映の時代に完成したオペラハウスをはるかに上回るものだったことは想像に難くない。
ブリッジ保守の日常をフォーマン (監督) のドーン・アラサクマール氏に尋ねた。驚いたことに橋の完成以来、鉄骨の修理は一度も行われておらず、保守はペンキ、アスファルトの塗り替え、鉄道の枕木交換が主な仕事だそうである。では、橋の寿命は? と尋ねると、現在の保守を維持すれば大がかりな工事なしで200年から300年は持つそうだ。
現場の職員が75人、そのうち27人がペンキ塗り職員である。その他の人員は足場組み、ペンキ削りなどのサポートを行っている。彼らの仕事は午前7時8分に始まる。10分で着替え、持ち場につく。アーチの上の移動は4台の巨大な移動クレーンで行うが、現場は入り組んだ鉄骨だ。サンダーで古いペンキを削り、スプレーや刷毛で新しいペンキを塗る作業は地上と変わらないが、足許は100メートル下の海面まで何もないのだ。命綱をつけていても足がすくみ上がるのに、防護具やケーブル、チューブを引きずり回し、しかもペンキの蒸気を吸い込まない用心もしなければならない。危険と困難は地上作業とは比べものにならない
「好きでなければ務まらない仕事ですよ」とフォーマンのドーンは言う。
この環境で2マン5000平方メートルの鉄骨表面を5層に塗る。ペンキの量が25万リットル、塗装工事予算だけで年間400万ドルに達する。75人が1年働いても終わらない仕事だが、橋を一斉に塗り替えることはしない。塗り替えの必要な箇所をチェックし、それに従って工事を進める。このサイクルが20年とのこと。
昼休みは11時半から12時までである。この作業は特に天候に左右される。強風の日は上がらない。雨の日は橋桁の下部分などの塗り替えをする。真夏の日盛りには鉄骨が焼け、ペンキが沸騰するため、日陰部分の工事に移る。
アーチの上に立つと温度の変化で鉄骨がウォーンとうなる声が聞こえると言われている。実際はどうだろうか。
「そう思うえば聞こえるような気もする、と言ったところでしょう」とドーンは笑った。
午後3時45分には仕事からひいき挙げ、10分のアフタヌーン・ティの時間である。仕事の始まりも終わりも早いのは1日の気象変化のためだ。
作業途中で降りてきた一人に尋ねてみた。
「他の仕事に変わりたいかって? ごめんだね。てっぺんに上がってみな。別世界だよ」

 

ストックルートを行く

電話が鳴った。
「ハロー?」
 「ハロー。あたしミーガン。手紙よこしたの、あんた?」 
マルコム・マッケンジーの家族は羊を追って旅をしている。定住地はない。ウェスト・ワイアロング郵便局気付で出した手紙を読んで公衆電話からマルコムの妻がかけてきたのだ。
 「今どこですか?」
「コンドボリンから12マイルほど南よ。ウェスト・ワイアロングから200キロほど離れているわ」
そんないきさつでニューサウスウェールズ州の中心にある小さな町に降り立った。週に2本、インディアン・パシフィック大陸横断鉄道が通過する町である。
家族は町から8キロほど南にいた。夫婦の他に二人の娘、ジェンマとキンバリー、猫1匹、牧羊犬6頭、馬4頭、彼らは5000頭の羊を追って旅を続けているのだ。
摂氏41度の炎天下、動物たちは木陰で休み、家族もキャラバンの中に閉じこもっていた。移動は早朝に済ませ、日中は動かない。
雨、埃、太陽にさらされてぼろぼろのアキューブラ・ハットの下でマルコムは経験談を話し始めた。
15の歳から父親を手伝ってこの仕事を始めた。今年で33年目になるという。
 「当時はこんなキャラバンじゃなくて幌馬車だったよ。道路も降ればぬかるみ、晴れれば砂埃だ」
その父親は旅の途中に肺炎で亡くなった。
 「しばらくは人の下で働いていたが、使われるのにうんざりして独立することを考えた。ドローバーたちは皆青空の下で自由に生きるのが好きでこの仕事をしているんだ」
しかし、この自由は気ままさではない。彼らは牧場主から家畜を預かっている。様々な法規に従い、家畜の健康に注意し、苛酷な気候に対処しなければならない。厳格な自己規律が要求される仕事である。
 「病気や事故で羊の数が減ったり、痩せさせてもドローバーの責任だ。いい加減な仕事ぶりでこの世界にいられなくなった連中もいる」
マルコムの一家は4月までかけて旅をしながら羊を太らせ、ずっと南のワガワガの町の競り市にこの羊の群を届ける。そこで羊は毛を刈られ、食肉用として売られる。そのこの仕事が済むと、今度は北西のバークから州北部の海岸近くまで1000頭の牛を運ぶ仕事が待っている。2000キロを旅することもざらだという。
 ニューサウスウェールズ州一帯にストックルートと呼ばれる道がある。一般公道に沿って草地が延々と続き、一定の間隔でリザーブと呼ばれる空き地が設けられている。ドローバーは許可証を取った上で、このストックルートを利用できる。一昨年の洪水、ひでりには何十万頭もの牛、羊がこのストックルートにあふれた。牧草が食べ尽くされ、あるいは高地に孤立した群もある。被害を免れた地域からトラックやヘリコプターで救援の牧草が運ばれた。
マルコム自身、洪水から逃げる途中で気がつくと周囲は水ばかりという目にも合ったし、何日旅しても池は干上がり、カラカラに乾ききった大地には草一本見つからない時もあった。水を求めて必死になる羊がかわいそうだったという。あるいは野火に巻かれてバタバタと倒れる牛の群を見たこともあるそうだ。災害があると地元だけでなく、遠くからも応援が集まる。苛酷な自然と戦う牧場の人々にはお互いに助け合う気風が強いとマルコムは語る。
いつか定着する気持ちがあるのかと尋ねてみた。
「とんでもない。動物たちを見てみな。彼らには強欲も嘘もない。人間の世界よりはるかに気分がいい。それに彼らと暮らしなれると可愛くてとても足を洗う気にはならない」
でも、子供たちが学校に行く歳になれば?
「通信教育を受けさせるわ。こうやって自然の中で暮らしている方が、都会でこせこせと暮らすよりよっぽどいいんじゃない?」
シドニーに生まれ、結婚して以来8年間、マルコムと一緒に旅暮らしをしているミーガンが言い添えた。

 

牧場の郵便屋さん

街角のポスト、郵便局、郵便配達。あまりにもありふれた風景としてふだん意識することがないが、1通の郵便物をわずかな料金で世界を半周して届けるこのシステムは人々の黙々とした努力に支えられている。人口のまばらなオーストラリア内陸部で互いに何十キロも離れている牧場の家族に手紙を届ける人達の姿を追ってみよう。
人口3500人のコンドブリンの町は南オーストラリア州に注ぐラクラン川のほとりにある。シドニーからインディアン・パシフィック特急で10時間の距離だ。この町は周辺の広大な牧場、農場の物資の集散地になっている。この町の郵便局も果てしなく広がる地域に手紙を配っているのだ。
午前10時に郵便局の裏路地で牧場回りの郵便配達、ロドニー・ドイルに会った。局長の話では陽気なロッドは地元の人気者だそうだ。
「長距離の配達が週に2回、短距離が週に3回出る」
彼もわずか20世帯ほどのために週に数百キロも走るのだ。ちなみにオーストラリアでは1戸あたりに配達される郵便物の数は週平均10通、普通の家族に配達されるのはもっと少ないはずだ。どんなに遠くてもたった1通でも手紙があれば届けなければならない。中央砂漠のような人のまばらな土地では集配に飛行機も使っている。オーストラリア郵便局の郵便業務に携わる4万5000人のうち、8000人がロッドのような人達だ。
トラックが市街を外れるとそこはいきなりユーカリ林の丘陵地帯だった。地元の人しか通らない赤土の道は荒れている。分かれ道には遠い町の名前を記した標識が立っている。「このあたりでは簡単に道に迷う」とロッドが言う。
ロッドは足を傷めるまで、牧場関係の大型機械を動かしていた。彼の息子はシドニーの大学で牧場関係のエンジニアリングを勉強しているそうだ。
およそ10キロごとに車を止め、小径の入り口にある箱に郵便物を投げ込んでは次の家族を目指して走る。牧場がどこにあるのか見当もつかない。ただ、牧場の人達は器用だから、ありあわせの材料で見事な郵便箱を作っている。人をかたどったもの、電気の配電箱、ミルク缶、ゴミ缶などさまざまだ。
「牧場の人達が手紙を出したい時は郵便箱に布切れを結んでおく。それが合図だ。昔は牧場の家まで入って行って届けたものだ。たいていどこの家でもお茶でも飲んでいかないかという具合だったな。天候のこととか、収穫の話だ」
雨とか日照りは?
「このあたりは天候も穏やかで被害は大きくないが、昨年の大雨では町の周囲一帯が水につかった。水が引いた後でひどい目にあった。この赤土ってのがやっかいで、晴れれば土埃、降ればぬかるみだ。水たまりの中でトラックが見事に足を取られてしまったよ。近所の牧場からトラクターが来て引っ張り上げてくれるまで2、3時間も待っていた。で、助けてくれた牧場主が何て言ったと思う? 配達があんまり遅いんで、今日はどこで長話しているんだろうと見に来たらこの有様だったとね。ははっ、次はボブの家だな。今日はいるかも知れない」
トラックは道沿いの牧場の庭に乗り込んだ。ロッドは車を修理していたボブと立ち話を始めた。先週ロッドは病気でフォーブスの病院に行ったらしい。ボブが彼の調子を尋ねている。隣の家の庭先では青年が絵はがきを手にして待っていた。箱に入れておけば済むのだ。友人かあるいはもっと大事な人への便りなのだろう。ここでもロッドは内気らしい青年と話を交わした。
「世界中のどこでも電話で話ができる時代なのに、心のこもった便りになると今でも人は手紙を書くようだ」と車にもどった彼が言う。
おそらくそれはどの国でも変わらない。人々はさまざまな思いで手紙を待ち受けているのだろう。
トラックが町に近づいた頃、箱いっぱいの郵便物が底をついていた。ロッドに郵便配達を引退したら何をするつもりかと尋ねてみた。
「小さな牧場を買った。見捨てられて荒れていた土地だ。今はまだカンガルーや鳥の遊び場になっているが、そこで羊と牛を飼う。そしたら週に3日は郵便配達をからかって過ごすかな」


オーストラリアの心を歌う テッド・イーガン

百年以上も昔、クィーンズランド州の木曜島、ノーザン・テリトリーのダーウィン、西オーストラリア州のブルームには大勢の日本人真珠採り達がいた。彼らは和歌山や沖縄出身の漁師町育ちで、潜りは得意だった。すでに彼らもいなくなった今、この歴史に埋もれかけた青年達のことを歌っている歌手がアリス・スプリングスにいる。テッド・イーガンがその人だ。「サヨナラ・ナカムラ」と歌うイーガンの声は包み込むように優しい。
テッド・イーガンはメルボルンのカトリック系アイルランド人の家庭に育った。こう聞くと事情を知った人はうなずく。つまり反骨と音楽と移住だ。16歳で「当然のように」世界旅行に出かけたテッドの最初の目的地はダーウィンだった。ほんの3か月ほどそこで過ごして南アメリカに渡るつもりだったが、気がつくと40年たってもまだアリス・スプリングスにとどまっていた、とアウトバック人の笑顔を見せるテッドだ。
町のシャトー・ホーンズビー・ワイナリーで週に4夜、アウトバック独特のユーモアを織り交ぜながら、カントリー調の自作の歌を披露してゆく。普通ならギターの弾き語りと言いたいところだがそうではない。彼の伴奏楽器はフォスター・ビールの空き箱だ。これを叩いてリズムを取りながら歌う大柄な体格に似合った豊かな声は「人間の体こそ最も優れた楽器だ」という言葉を思い出させる。
ところで、アリス・スプリングスにワイナリーがあるのは意外に思われるかもしれないが、この地域の乾燥した盆地気候は葡萄の栽培に適しているらしく、優れたワインができる。しかも毎年1月1日、世界で最初にワイン葡萄の収穫が始まるのもここなのだそうだ。
イーガンの歌の世界は開拓者、アボリジニ、羊飼い、中国人、ブッシュレンジャーなどオーストラリアの歴史の彼なりの解釈だ。社会的なテーマを歌いながら、60年代のプロテスト・ソングのように誰かを名指しで批判するというものではない。もっと暖かく、包容力に満ちている。どのような立場にあろうと人間一人一人はその環境の中で精いっぱい生きている存在だということを知っている、いわば「大人」の歌だ。
テッドはアボリジニ問題省の役人を務めた後で歌手に転向したという変わり種だが、これまでに30枚近いアルバムを出し、3枚はゴールド・ディスクを受けている。声高には語られることのない人だがオーストラリアでも生まれ育った人なら誰でも知っている。歌を歌うかたわら、テレビの自然番組「グレート・アウトドア」のレギュラー・プレゼンターだし、アボリジニ民族和解委員会の委員でもある。
なぜ、アボリジニの人達に関わることになったのか尋ねた。
保守的な白人中産階級の町メルボルンから来たテッド少年にとってダーウィンは別世界だった。通りはコスモポリタンの雰囲気に溢れ、しかもオーストラリア国内で16年間生活しながら一度も見たことのないアボリジニ達に出会ったのだ。技術も高等教育も受けていないテッド青年は手に入る仕事なら何でもした。牧場で働き、真珠養殖場で働き、暇があるとアボリジニの青年を集めて、得意のOG・ルール・フットボールに熱中した。その頃にノーザン・テリトリー北部のティウィ・グループの老人がパブで一言一言アボリジニの言葉を教えてくれたそうだ。同じ時期にテッドは教育を受け直すことを決心した。牧場で働きながら夜は石油ランプの下で勉強し、キャンベラの大学のオーストラリア歴史講座を13年かけて卒業した。おおらかな人柄からは想像もつかない徹底した粘り強さだが、当時アボリジニの言葉を話せ、公務員資格のある白人はほとんどいなかった。テッドはアボリジニ問題省に入り、ノーザン・テリトリー各地のアボリジニ集落を転任する。しかし、アボリジニの問題はアボリジニに任せるべきだと考えたテッドは、アボリジニの資格者に席を譲り、アリス・スプリングスに落ち着いた。
テッドはアリス・スプリングスの外れで、これもアウトバックのユーモアを感じさせるシンカティニー・ダウンズと名付けた粘土作りの家にウェールズ系の女性、ネリスと暮らし、4人の子供と7人の孫がメルボルンなどにいる。
「サヨナラ・ナカムラ」はオーストラリア史のひとこまとして彼が長い間あたためていたテーマだが、彼の歌声を聞いた日本人は誰もが感動し、時には起立する人もいるとテッドは語っている。


税関局沿岸監視部

オーストラリア大陸の海岸線は延長3万7000キロ、赤道をほぼ一周する距離だ。しかも、その大部分は無人の地域であり、同時に周辺に広大な漁業水域を抱えている。この地域・水域での密漁、葺き・麻薬の密輸、密入出国を監視しているのは、オーストラリアへの旅行者が必ず通過する空港税関と同じ税関局のコースト・ウォッチ (沿岸監視部) だ。今回はこのコースト・ウォッチの日常の仕事を見てみよう。
コースト・ウォッチの基地はケアンズ、トーレス海峡の木曜島、ダーウィン、ブルームなど、大陸北部に集中配置されている。海峡を挟んでインドネシア、パプアニューギニアなど外国と接していることを考えればこれは当然だ。ケアンズの基地には管区本部長を含めた係官6人が詰めている。この6人がカーペンタリア湾のクィーンズランド、ノーザンテリトリー州境からニューサウスウェールズ州沿岸までをカバーするのだ。わずか6人という気がするが、プロペラ機のシュライクからジェット機のシースキャンまで、コースト・ウォッチ所属の19機とその乗員はすべて民間の委託で、フライト・パターンとチェック項目をコースト・ウォッチが指示する。シュライクで週に9回程度、シースキャンで週に4回程度、指定のパターンで約5時間ほど飛ぶ。一度に与えられる任務は平均12項目にも及ぶ。係官は飛行時間の15%に同乗する規則になっている。警備艇や哨戒機が年中昼も夜もなくパトロールするような方法は、ケアンズのグレッグ・バーク本部長によれば「経費のわりに効果がない」のだそうである。
月に一度、キャンベラで開かれるOPACと呼ばれる会議で税関局、検疫局、水産庁、国立公園野生保護局などの担当が集まる。モンスーンの季節が過ぎたからグレート・バリア・リーフ海域にボートが増えるとか、この海域が漁期に入るとか、インドネシア当局から難民を乗せた船が南に向かっていると連絡が入ったなどという内容をここで協議する。そこでなるべく多くの任務を相乗りさせたプログラムが組まれる。管区ではキャンベラから送られたスケジュールに従い、1週間ごとのフライト・プログラムに組み直す。それが12項目にもなるのだ。グレート・バリア・リーフ海洋公園局も参加しているのは、観光客になじみ深いこの海域の海洋汚染、密漁、違法使用のチェックもコースト・ウォッチの任務に含まれているからだ。管区本部でブリーフィングを受けた乗員は昼夜を問わず、それぞれの飛行機で飛び立つ。目視飛行のシュライクで3人、計器飛行が可能なシースキャンデは4人が乗り込み、哨戒にあたる。陸地から200カイリ以内の漁業水域を300メートルから600メートルの高度で飛ぶ間、見えるものは空と海ばかりだ。レーダー、赤外線望遠鏡、ビデオ・レコーダー、目標追跡通信システム、コンピュータ・システムなど先端技術機器が狭い機内にびっしりと組み込まれている。乗員の一人がフライト・プログラムを管理し、パイロットへの指示、12項目の監視項目をこなしていく。パイロットは外が見えるが、機器の観測を担当する乗員は数時間の間、窓どころか足を伸ばす隙間もないような機内でいくつも並んだレーダーやモニターを見つめっぱなしだ。
「危険な任務などは?」と尋ねたところ、バーク部長は「活劇のようなものはいっさいありません」とこちらの無知を見透かしたように答えた。不審な動きを見つけた場合、無線で本部に連絡。本部はそれをコンピュータに記録、1時間以内に海軍や海洋公園局に連絡が入るシステムになっており、パトロールの乗員は情報を集めるだけで、違法行為に干渉しないように指示されている。天候は本部で常時監視しており、哨戒する航空機からも急な気象現象を見張り、天候が悪化する前にパトロールを中止する。機上で一番大変なのは、手洗いが最後尾にあるため、用を足したい乗員は機器を観測している同僚の足許をはいつくばって行かなければならないことだそうだ。
もっとも熟練を要求されるのは機器のデータを読み取ることと肉眼での確認だという。不審な船舶を見つけると飛行機は高度を落とし、水面から30メートルの高さでシュライクだと時速170キロ、シースキャンだと時速300キロの速度で目標の船をかすめるように飛ぶ。その一瞬の間に船名、乗員数、装備、方向、速度など可能な限りの情報を読み取る。新幹線の車内から沿線の看板や家を読み取るようなものだ。ここでは肉眼しか役に立たない。
5時間の飛行を終えて基地に帰投してもそれで任務が終わったわけではない。集めた情報はすべてコンピュータのデータベースに入力し、データはOPACの各省庁に送られる。与えられた監視項目すべてをこなせるわけではないから、その報告もある。写真フィルムを現像に回し、ビデオ・フィルムは詳細を添えて仕分けする。バーク部長によれば「1億ドルの予算で1997年には到達距離2000キロのOTH (超水平) レーダー・システムが完成する」そうだ。クィーンズランド州北部トーレス海峡では北の隣人パプア・ニューギニアとの陸地間の距離はわずか20キロしかない。
このようなコースト・ウォッチのパトロールが直接関わる武器や麻薬、密入出国などの件数はそれほど多くない。ほとんどが密漁や海洋汚染など一般に犯罪意識の薄い違反だ。たとえば、年間50隻程度の密漁船が拿捕され、罰金、船舶の没収などの処分を受けている。
ボート・ピープルのような、ある意味で同情できる状況の事件の場合、コースト・ウォッチの係官たちはどのように感じているのだろうか? ある係官は個人的意見とした上で、「広大な国土を持つオーストラリアは人道的な立場で難民をもっと受け入れることができると思う。ただ、他の大勢の人達のように正規の手続きを踏んで入国してほしい。私たちがいちばん警戒しているのは不法入国者が持ち込む伝染病だ」と答えている。


目指すはアイアン・ウーマン

オーストラリアの夏と言えば太陽の照りつけるビーチ、それに日焼けしたたくましいライフセーバー達。このライフセーバーはオーストラリアの季語と言っていい存在になっている。そのライフセーバーの現場を訪ね、最近では珍しくなくなったとはいえまだ少数派の女性ライフセーバーの一人、ステーシー・ガートレルさんにインタビューした。

ワンダ・ビーチ・サーフ・ライフセービング・クラブはシドニー南郊クロヌラに近い浜辺に建っている。この日は風が強く、波も荒かったが捨てーシーは午前中のレースで泳いだばかりだそうだ。結果は? 「まあまあって言うところね」
弱冠16歳の捨てーシーは本来クラブではジュニアなのだが、テストに合格してオープンの資格を持っている。それもそのはず、幼いうちから泳ぎ始め、水泳選手を志したのが11歳。昨年8月に神戸で開かれたパンパシフィックではオーストラリア代表選手団の一員として自由形200メートルから1500メートルまでに出場、銀メダルを獲得している。このクラブ以外にもトリニティ・グラマー・スイミング・チームに所属しているのだ。
信じられないことだが、オーストラリアでは20世紀の初めまで「午前6時から午後8時までの公衆の眼の届く範囲での水浴びはまかりならぬ」という法律があった。この法律が廃止されるまで人々は囲いや屋根のあるプールでのみ泳ぐことができたのだ。法律の廃止後も男性でさえ、ワンピースの水着でなければ泳ぐことができなかった。ビーチでトップレスの女性が日光浴している風景も珍しくない現代とは隔世の感がある。
1906年、この「悪法」に反対して立ち上がった人々がボンダイに「サーフ・ベイザーズ・ライフ・セイビング・クラブ」を設立したのがライフセーバーの始まりである。現在では全国で約3万人のメンバーが10月から4月までのシーズン中、浜辺の安全を守っている。
観光客に人気のあるサーフ・カーニバルはマンリー・ビーチで始まり、1966年からはアイアン・(ウー) マン・チャンピオンシップが加わった。

ステーシーは現在ペンスハースト女子高在学中である。好きな学科は生物学と古代史だそうだが、早朝に海で一泳ぎしてから登校し、放課後も二泳ぎするという日課で遊ぶ暇もない。同級生にはクラブ・メンバーは一人もいない。ひとりぼっちにならないのだろうか? 「私にも友人グループがあるし、一緒にパーティに行ったりしますよ。皆、よく分かっているからうれしいと思うことはあります」
泳ぎ始めた頃から、5歳から13歳までのニッパーズ・クラブに出入りし、やがて当然のようにカデット、ジュニア、オープンと昇級した。その度に厳しいテストをくぐり抜けなければならない。テストでは、水泳、救助、人工呼吸など様々な技術を問われる。
他の男性メンバーに混じって、ボートを漕いだり、リールで救助ロープを巻いたりもするのだろうか? 「必ずしもする必要はありません。やりたい人はできますけど」
性差別を禁止する法律のおかげでライフ・セービング・クラブでも女性のメンバーが増えた。ワンダ・ビーチクラブの前のクラブ長は最初の女性メンバーだった。
女性であるためのいやがらせを体験することは? 「ほとんどありません。たまに酔っぱらった男から野卑な言葉をかけられることはありますが、それくらいのものですね」
シーズン中は週末の午前中にビーチのパトロールをする。夏休みには毎日来るが、水泳やパドル・ボード、サーフ・ボードの練習も欠かせない。ランニングも日課に含まれている。
水泳場を抱える自治体では専門のライフ・セーバーも雇っているが、クラブのメンバーは伝統的にボランティアで、両者は協力してビーチの安全を守っている。メンバーに選ばれることは名誉であり、それゆえにボランティアでなければならない、という発想は今では薄れつつあるイギリス貴族主義の名残りのように感じられる。
「幸いなことに水難事故はほとんどありません。天候、波、潮流に気を配り、いけない水泳客にちょっと注意したり、軽いケガや故障の処置が大部分です」
将来の夢は? 「もちろん、オリンピック。出場できればいいけど。その他にはアイアン・ウーマン・コンテストとハワイで開かれるサーフィンのチャンピオンシップかな」
では、将来の人生計画は? 「多分高校を出たらTAFE (職業専門学校) に入ってビジネス・コースを取ると思うけど、その時になってみないと分からない」と語るステーシーはごく普通の女子高生である。


水上生活一筋19年
シドニー・ハーバーの風景に欠かせない緑とクリーム色のハーバー・フェリー。日本ではすっかりさびれてしまった水上交通だが、シドニーではまだ健在だ。そのフェリーの船長に話を聞こうとパラマッタ線に同乗した。

サーキュラ・キーの5番埠頭に新造カタマラン、マージョリー・ジャクソン号が停まっていた。マージョリーは1952年ヘルシンキ・オリンピックでオーストラリア女性として初めて金メダルを獲得した陸上選手だ。定員230人の船は20余キロ上流のパラマッタを目指して出航、キャビンに上がってフェリー・マスターのグレッグ・プレスランドに会った。19年を水上で過ごしてきたというベテランである。この船のキャビンには舵輪がない。左右のプロペラを操作するハンドルが3組あり、スイッチや計器類とレーダー・スクリーンが並ぶ様は飛行機のコックピットのようだ。
「最初は甲板夫から入ったんだよ。テクニカル・カレッジに入ってエンジニアの資格を取ったのが1984年、それからマスター (船長) の資格を取った。エンジニアは機関を担当するけど、この船の場合は両方の資格を持ってないと操作できない」
様々な船に乗った。ランチ、はしけ、給油船、タグボート、海軍の小型艇にも乗った。シドニー・フェリーは全路線を走り、はーばーの水路を知り尽くしている。マージョリー・ジャクソン号のデザインはドイツのライン川フェリーと同様のもので、喫水の幅1メートル、深さ1.4メートルで河川航行に適している。二つのプロペラは向きを360度変えられ、微妙な操作であらゆる動きが可能だ。
シドニー/パラマッタ間を船便が走ったのは1789年、第一次移民船団が到着した翌年だ。当時は往復に1週間もかかった。1930年代、ハーバー・ブリッジが完成する直前には年間400万人がフェリーを利用していたが、翌年からは100万人に激減した。現在は45人のマスターと28隻のフェリーが、30の埠頭から年間200万人の乗客を運んでいる。
パラマッタ川を上るこの路線は風景がめまぐるしく変化してゆく。2000年のオリンピック用地になるホームブッシュ・ベイあたりからは水辺がマングローブに覆われ始める。次第に川幅は狭くなり、淀んだ水と両岸の原生林が熱帯の川のような風景を作っている。大都会からわずか20キロとは思えない。唯一現実に引き戻してくれるのは左右10メートルほどの幅で一定間隔に並ぶ、太陽電池駆動の緑と赤のみおつくしだ。
「この幅だけが十分な深さの水路になっている」 船のスピードを極端に落としてグレッグは言った。二つの船胴が薄いのは、波を立てて両岸のマングローブの生態系をかき乱すのを防ぐ配慮だそうだ。川が市内に入り、岸辺の公園から人々が手を振っている。
「あの車いすの人は昨日このフェリーに乗っていたよ」とグレッグが手を振り返す。
終点のチャールズ・ストリートには大勢の人がフェリーを待っていた。20余キロを走るのに1時間。ジャクソン号を降りる時に、陸で働いたことはあるかと尋ねた。
「2度だけ。1度はダム現場で。次は21歳の時、ファースト・フードの店でコックをやった。驚くほど安い給料だったから1週間で辞めた。それ以来水上暮らしさ」

 
   

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最終更新: 19-09-2005

 

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