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1977年から78年にかけて、「るっく」に連載した書評的エッセー
「るっく」は函館の地方誌 (当時)。
発行人及び発行所 小崎隆、函館市五稜郭町32-1 喫茶店「チボリ」内 (当時)。

目  次
「風邪ひき男十日旅」
「戦後社会の性と家族」芹沢俊介
「原色の蛾」西村寿行
「筑豊炭坑絵巻 上下 ヤマの仕事」山本作兵衛
「第三の性」森崎和江
今月の推薦図書なし
「おっとせいは中央線に乗って」友部正人
「石垣りん詩集」石垣りん
「偉大なる祖国アメリカ」佐木隆三
「暗黒告知」小林久三
「天使」三好徹


 
「風邪ひき男十日旅」
「今月の唄」1 月刊「るっく」1977年5月号 通巻21号
同号に金井勝、田川律、小崎隆が執筆。
 
列車が村上市を通過する辺りで眼がさめた。するとなんと、鼻と喉が痛いのだ。寝なおす。酒田で再び目覚めると、村上あたりよりはましになっていたが爽快というわけにはいかないのだ。鳥海山の雪を見ていると、桜の散った大阪に戻りたくなって来た。が、良心が許さない。いやな予感があたった時の気の重さと心の軽さの両天秤で海峡ラーメンを食った。トンチャンの塩ラーメンの味がした。
大阪からきっちり24時間と18分で札幌に到着、ミルクの前田君ちに泊まり、翌日早朝北見へ向かう。白滝あたりは雪が降って新しい。元来雨男の僕が春先に来ると雪男になるらしい。北見では「昨日迄いい天気で暖かかったんですけどね」となぐさめ顔で言ってくれたが、ちっともなぐさめにならない。風邪の不安におびえつつ、北見、旭川の仕事を終えて、小樽経由で室蘭に行ったのが19日。
後で、お客さんのひとりが「いい詞ですね」と誉めてくれたが「いい歌ですね」とは言わなかった。そんな考えが直ぐに頭に浮かぶのも、根性がひねくれているせいだと反省。彼さらに言う。「どうして、わいせつにこだわるんですか?」 僕もきいてみたかった質問だ。しかし答える。「世間が逆向きにこだわるからです」 いい答だと思う。
ストだったので、車で八雲へ、それから札幌へ。
ミルクで5人の客と20人分の椅子に向かって歌った後、直ぐ帰るつもりでエルフィンランドに行く。どう間違ってもエルフィンには見えないマスターと、中川五郎夫妻がいた。
五郎君と京都の古川豪君と僕の3人をまとめて、わいせつ3人組という人がいるそうだが、はなはだ迷惑だ。去年、大阪でこの3人のコンサートをやった時、ポスターには3人の名前だけをローマ字でやろうと主張したことがある。GORO! GO! KENJI!
これで、入場料5000円とっても2万人は集まると主張したのだが、僕の提案、それもごくささやかな提案が退けられたので、2万人どころか、30人くらいしか集まらなかった。その五郎君、寒さに震え、あの陰毛ヒゲもさえなかった。これはエルフィンランドでの話。
彼の「25年目のおっぱい」は「家族」をテーマにしているそうだが、「家族」をあのように歌える彼を、かねがねうらやましく思っている。僕にとっては、「家族」というものは、肉親ゆえの葛藤や、ややもすれば崩れそうになる家族を必死につなぎ止めようとする人間を通して、その姿を見せてきたのだ。
一対の男女の愛、子供に対する愛、そのようなものを僕が歌えるようになるのはまだまだ先かも知れないし、もうそんな時は来ないかも知れない。が、ともかく、うらやましがっていても仕方がないので剣菱のコップ酒を、らっきょうのつまみで飲んだ。甘く、酸っぱく、苦かった。
小樽では、主催してくれた人たちの多くが外から流れてきた人や、一度外に出て帰ってきた人で、その人たちはまた他の人たちと「運河を守る会」をつくって、小樽運河の埋め立てに反対している。その土地にとどまって何かをやっている人たちに対して僕はいつも引け目を感じてしまう。僕がそうじゃないからだ。
僕は、好きで歌って旅しているけれど、本当の放浪者っていうのは旅するしか生きようのない人だと思うし、そんな人は旅するのが本当はいやでたまらないんじゃないんだと思う。だから僕は放浪者じゃないと思うけれど、いつか、僕自身と、放浪者と、そして、小樽や、それ以外の土地で会った人たちを見通す場所にたどりつければいい。そしたらこの喉の痛みも鼻のグスグスもなんでもない、と、るっくの小崎君の部屋で考えていた。零時40分には船が出る。
1977年4月25日
 
 
「戦後社会の性と家族」芹沢俊介
月刊「るっく」1977年7月号 通巻23号
同号には、金井勝、田川律、豊田勇造が執筆。
 
先日、若い友人と酒を飲んでいた。そこで何かの行きがかりで彼がつぶやいたのだが、「才能のある者はな、自分の意見を表現して生活してゆけるけどな、俺らみたいな者は大したことでけんと暮らしてゆく他ないねん」 僕はうんざりすると同時にやりきれない気持ちになった。うんざりしたのは、彼の言った言葉を、僕も彼の年頃には言ったり考えたりしたからだし、やりきれない気持ちになったのは、未だにそう考えられるのが当たり前の状況だからだ。愚痴は言うまい、こぼすまい。多かれ少なかれ、それは僕の中ではカタのついた問題であり、言うなら、どんな人間も選びようのない生き方を生きており、その限りでは何をして食っていこうと自由であり、「才能」のある者が「意見」を「表現」することを認めるなら、「才能」のない者が「意見」を「表現」しないことを先ず認めよ、そして「大したことでけんと暮らしてゆく他ない」人間をその視野に持たない「意見」(や思想)はダメなんじゃないか、ということだ。
ああ、心配しなさんな、ライヒだって結婚したんだから、君がどうやって生きようと許されていい。
 
ずっと昔、父と話したことがあった。父はいわゆるポツダム伍長で、それまで、あの有名な38連隊かどこかに属しつつ教師として教えていたそうだ。僕が、「どうして戦争に反対しなかったのか?」と聞くと、父は、「家族を養うのに精一杯で、戦争反対なんてとてもじゃなかった」と言うようなことを答え、話がそれ以上に進むことはお互いに決してなかった。
両方がそれぞれに根拠を持ち、かつ、正面からぶつかることのない話題を、僕は二度とむし返さなかった。
ただ、思ったのは、この二つを同時にすくい上げる道を見つけない限り、いつか、僕らも息子や娘に同じ問いをつきつけられ、僕らは父が答えた返事を返すだろう、そして、その息子や娘も...なぜなら、この二つの論理を同時にすくい上げる道を見つけられない限り、問題は常に個人の勇気や心構えにすり替えられてゆくからだし、勇気や心構えで来られたら、「大したこともでけんと暮らしてゆく他ない」人間には、立つどころか、浮かぶ瀬だってないのだ。
困ったことに、実に真面目な調子になってしまった。選んだ本がいけない。第一高くてとても勧められる本じゃない。それに、人生か運動の指針にしようとしている人に対しても、結論なんか出してないし、著者自身、あとがきで「いっさいはまだ、端緒についたばかりである」 また、「本書から、読者はどんな解放感も示唆も受け取れないかも知れないが」と書いている。しかし、読んでみるなら、世の中には、分かりやすく砕いて書いてあるにもかかわらず、「大したこともでけんと暮らしてゆく他ない」人間を見ない「意見」もあれば、分かりやすくはないがそのような人間をしっかりと視野に収めた「意見」もあるのだということが分かる。
僕をこの本に近づけたのは、おそらく、先に書いた二つの出来事への僕の「思い」だろう。関心のある人は、二回ほど飲むのをよしたつもりで。どうせ買ったその足で飲みに行くだろうけど。
1977年6月20日
 
 
「原色の蛾」西村寿行
月刊「るっく」1977年8月号 通巻24号
同号には、金井勝、田川律、佐藤重臣、中川イサト、小崎隆が執筆。
 
今日 (7月17日) は、昼間、京大西部講堂でアンジェイ・ワイダの「灰とダイアモンド」と「地下水道」の2つの映画を見てきた。僕が映画を見るのは非常に珍しいのだけれど、それは映画が嫌いなのではなくて、眼か三半規管の神経の出来が悪いばっかりに、映画館の大きなスクリーンで画面にちらちら動かれたり、真っ赤な血が噴き出したり、ラブシーンをやられたり、爆弾が威勢良く破裂したりすると半時間ほどで船酔い症状になってしまうからなのだ。この話は誰でも笑うばかりで決して同情してくれない。だから僕も他人の病には同情しない、が、笑いもしない。
その僕が、黒田喜夫の「灰とダイアモンド」の批評文を読んだばかりに映画を見る気になったのだ。映画は「灰とダイアモンド」が先で「地下水道」が後だったけれど、時代は逆で、「地下水道」が戦中、「灰とダイアモンド」が終戦時で、その順序で見た方が分かりやすかったと思う。
どちらも素直に言えばやりきれない映画だった。「地下水道」では、ワルシャワの町でドイツ占領軍に対して蜂起した兵隊たち (正しくは市民たち) が追いつめられ、司令部から退却を命ぜられる。すでに二十数人しか残っていない小隊並の一個中隊は、ワルシャワの町の下、暗闇と汚物の中を這い回り、音楽家である一人の隊員は耐えきれず発狂、オカリナを吹きつつ「地下水道」をさまよってゆく。また、負傷した隊員とその恋人は川への排水口にたどり着くが、そこには頑丈な鉄格子がはめられ、キラキラと輝く水面と対岸の町並みが見えるだけ。しかも隊員は負傷がもとで発病、眼も見えなくなっている。他の十数人はやっと出口にたどり着き、マンホールから陽の下に出てみれば、そこはドイツ軍陣地の中、向こうの壁には処刑された死体が山積みになっている。残る中隊長と二人の隊員のうち一人はマンホールに仕掛けられた手榴弾を取り除く時誤って爆死、もう一人も地上でいさかいから中隊長に射殺され、中隊長は、はぐれた隊員たちを探してもう一度マンホールにもぐってゆく。
僕は、昔、小学生の頃、川から水を引くために造られた背も立たない真っ暗闇の暗渠を100メートルもくぐった経験などを思い出しながらやりきれない気持ちで見た。
僕のした冒険は禁止されていたが、それゆえに魅力的でもあった。暗闇の先には太陽の光が保証されていた。
ヨーロッパの都市の下には今でもあのような暗渠が縦横に張り巡らされているのだろうか? そして、この国の都市の下にも?
 
先月、あんまり高い本のことを書いて以来一月心を痛めていたので、埋め合わせに今月はうんと安い本を選んだ。別にブックガイドを書くために本を探しているわけでもなく、たまたまその月に読んだ何冊かから取り上げるのでたいそう偏ってしまうのだ。
この人の本は、文庫本になった4册しか読んでいないが、「君よ憤怒の河を渉れ」の作者だとは、うかつにも気がつかなかった。
この中・短編集に出てくる人物もほとんどが暗くやりきれないような心を抱き続けている。自分の妻を殺され、15年間犯人を追い続ける「刑事」の刑事とか、ウサギコウモリとだけひっそりと暮らす「闇に描いた絵」の女とか。小説では結末があっても登場人物には決して終わりのない暗いやりきれなさだ。
それから、この人の小説ではよく動物が出てくる。「瀬戸内殺人海流」のクマタカと山犬の争いとか、「屍海峡」の冷水塊に襲われるタコや魚の群など。この本でも山蛾やウサギコウモリが鍵になっているが、その描かれ方は鍵以上のものであり、他の小説に出てくる動物たちと同様に凄絶でさえある。
この本だけがいい本だという訳ではないが、関心のある人はどうぞ。安い本なので。
1977年7月17日
 
「筑豊炭坑絵巻 上下 ヤマの仕事」山本作兵衛
月刊「るっく」1977年9月号 通巻25号
同号には、金井勝、田川律、佐藤重臣、小崎隆、古川壬生が執筆。
 
76年の秋に、豊田勇造のコンサート・ツアーに同行した。福岡での仕事の後、北九州市へ走り、一泊。翌くる日飯塚市へ行く道を筑豊のボタ山をはるか両側に望む、トラックの行き交う国道何号線だったかに選んだ。
自然の山に沿って積み上げられた巨大なボタ山は予想に反して、台地であった。聞けば「陥落」を埋めるために削り取ったのだそうだ。飯塚に昼過ぎに着いてそのまま、車を走らせていたマネージャ格の「発見の会」の人たちと、市の南にいくつもそびえるボタ山に行くことにした。不案内な道を、川を遡り、刈り取られた田んぼの間を走り、11月とは云え、この辺りは未だぬくみを残していた。
集落に囲まれたボタ山は近づくほどにその影が大きくなり、そこへ至る道も見つけられなかった。狭い道を軒をひっかけそうになりながら、ボタ山から等距離で迂回し、半ば崩れた炭住を見た。棟割り長屋のようなその一部屋にも未だ人が住んでいることを、表のプロパンガス・ボンベで気づいた。気づいて、なんだかうしろめたい気持ちになってしまった。そして、そのうしろめたさに気づいて狼狽した。
筑豊炭田のことはいくつも読んでいた。それは、井上光晴や野坂昭如の小説だったり、結城昌治の小説を映画化したものでフランキー堺が刑事に扮した、その映画の風景だったり、森崎和江の評論だったり、大正炭坑闘争史だったり、また、安部慎一が「ガロ」に描いた汚らしい画だったりした。それらから、未だ見ぬ土地として惹かれたし、それらを読んでどうにもつかめない分からなさを自分なりに埋めたいとも思っていた。その分からなさとは、この炭鉱地帯に住んだ人たちがその共同の世界から生み出してきた精神史であるようだ。
それがそのボタ山を訪れるだけで分かるとはもちろん考えられないし、おそらくとっかかりを見つけることだってむずかしいと思う。それでも一度は見ておきたかった。そのような不安定さが、その狼狽で顕れたのではないか。
煉瓦の構造物を過ぎて昇っていくと真新しい建て売りのような住宅が並んでいた。その裏手、湿地のような溝を渡ると、つる草や枯れすすきの下をボタが傾斜をつくっていた。そこを歩いて登っていくとすぐに草地を過ぎ、コンクリートの丸い塔から頂上へと杭と枕木が真っ直ぐに伸びていた。どこからともなく油煙の臭いが漂ってきた。中腹あたりまでたどって分かった。山肌に亀裂が走り、そこから煙と蒸気が噴き出していたのだ。もう新しいボタが積まれなくなってから20年たつというのにボタが未だに酸素の希薄な地中で燃えているとは。
100メートル足らずの山を登ってゆくうちにすっかり暑くなってシャツ一枚で頂上に立つと平野が見渡せた。裏側は削り取られ、その向こうは「陥落」で沼地になっていた。炭住はいくつか新しい住宅に変わっていた。ここにも昔はもっと人がいただろうし、このあたり一帯の地下には坑道が蟻の巣のようにめぐっているに違いない。
だけど僕には未だどのようにも語れる言葉はない。
「たとえば私をはじめ地上の歴史及び文化だけで養われた者たちは、地下労働者の精神史を感じとる力量に乏しい。それはありったけの想像力を働かしても、せいぜい、近代日本形成のいわば被害の極点的人間の数代を描くほかない。もちろんそれは一面ではまっとうな判断だと、私も思う。
けれども社会的な存在としての客観的な状況にまっとうな判断をもつことと、その存在の人間的内容、あるいはその集団の内的世界の全過程の評価とは同一であってはならない。いや実は、その後者をまっとうに知る方法を開拓することで、その前者を確立すべきだと私は思う。それを私たちはおろそかにして、近代国家形成の中核である権威権力との関係を、いつも類型的にとらえがちなのである」(森崎和江「奈落の神々」)
森崎和江の「まっくら」で絵を添えていた山本作兵衛の画集が安い値段で出た。手に入れたい人は
福岡市中央区舞鶴1丁目4番7号
葦書房へ
 

 
「第三の性」森崎和江
月刊「るっく」1977年10月号 通巻26号
同号には、金井勝、田川律、佐藤重臣、大塚まさじが執筆。
 
先日、二人の友人と酒を飲んだ。その酒飲み話の上ではあったが、世の中にはいろんな立場の女性解放運動があるが、どうして「私は顔が醜いということで差別された」という運動がないのだろう? と言ったところ、ひとりが「それは女性心理の問題である。現実にそのような差別はあるが、女の気持ちとして、そういう風には提起できないのだ。それが美醜による差別が社会運動の対象にならない一つの理由である」と言って、彼女自身の経験を話してくれた。
しかし、僕は、美醜による差別の傷が他の社会運動の対象になる差別による傷よりも浅いなどと思わないし、ただ差別のあり方によって、それに対する批判のあり方も違ってくるだけだと思っていたから、彼女自身、女の側から言われればそうかと納得する。
 
僕自身、顔が悪いというのでいやな思いをしたことは何度もあるし、殊に男女関係で手痛い目にあわされているはずだ。はずだ、と言うのは、本当にそうなのかどうかは分からないし、相手が教えてくれるわけもなく、つまりは推測するしかないからだ。
ここまで書けば誰でも分かるだろうが、僕にはもてた憶えがない。そのことで慰めてくれるありがたい友人もたくさんいるが、慰めの言葉も重なるほど嘘に聞こえてくるのがこのての問題だ。
そして、もてたこともなければ、男女の修羅場に立ったこともなく、ただ他人の色恋沙汰のそば杖を食うことばかりが多かった。不幸にも持ち前の人の良さから、相談を持ちかけられまともに応対してしまい、後で恨まれたりするのだ。僕の周りにもそんな友人が多くて、一人は電気釜を一つ台無しにした。もう一人は一組の布団をパーにした。またもう一人は下宿をたたき出された。
そして、その加害者、つまり男女関係のもつれの当事者のそんな行為は、日頃男女関係についてどんなに進歩的な発言をしているかとはまったく無関係に成り立つのだ。ある「女性解放研究会」の女は、飲み屋で、前夜に寝た男の行為をこと細かに挙げ、罵倒し、居合わせた四、五人の男友達をうんざりさせてくれた。あいにくなことに、その場には、他のことではどんなに馬鹿でも、人前で自分の性体験を吹聴するほど馬鹿な男はいなかったのだ。後で僕らは顔を見合わせて考え込んだ。「どうして彼女たちは男の一番質の悪いところを撃ってくるのだろう?」
残念なことには、おかげで僕ら悪童仲間の、男女関係のトラブルへの憎悪や「女性解放運動家」への不信はすさまじかった。「先ず疑え、後、その為すところを見よ」であった。ひょっとすれば僕らも「女の一番質の悪いところを撃っていた」のかも知れない。他人事ではないが、これは松本にいた頃の話。
今月は疲れているので愚痴ばかり書いた。
今、手許にある一冊の本は新刊ではないが、優れた本ではある。しかも安い。最初に読んだのが四、五年前で、以来何度か読み返したが未だに捉えきれない。女の感覚の内側へ錐のように揉み込むかと思うと、論理の高みへパーッと打ち上げる、その振幅についてゆけない時もあるし、女の感覚へ降りてゆく部分など、男の僕は後追い的に了解する他ない。
この本を読んだことのある女友達に聞いてもむずかしいと言うのだから、男の僕に実感としてつかめないのも当たり前なのかな。ともかく女の一番良質の部分である。
1977年9月21日
 
 
今月の推薦図書なし
月刊「るっく」1977年12月号 通巻28号
同号には、金井勝、田川律が執筆。
 
4日間住んだ払い下げの米軍住宅はすさまじかった。外観は適当に窓を開けたチーズみたいな平屋で、良く管理されておれば快適なのだろうが、そこはそうではなかった。向かい側は広大な芝生と大型外車と、それからここと同じ窓付きチーズが点在し、こことの間を鉄条網が隔てている。この家の両側は同じタイプの家屋で、一晩中クーラーの騒音と熱風を真ん中の家に吹きかけていた。
10月の中旬でも沖縄は泳げるほど暑く、事実海ではメバルや、大阪から飛行機で来た友人が泳いでいた。ともかくそんな建物の病室を思わせるような一室の二段ベッドにただ一人で四日間泊まるとかなり孤独感に苛まれる。どんなに汚いところでも平気だけれど、密閉されたところで寝るのだけは苦痛だ。その四日間の最後の日に友人が大阪からやって来たので人心地がついたのだ。
翌くる日は別のところに泊まることになって荷物とギターを担いで町に出た。なにしろ、晩秋のつもりでいたから、上着やセーターやらの冬着のいっぱい詰まった荷物はTシャツ1枚の肩に痛かった。福島君という大阪から来た友人と二人で、国際通りをちょっと入った道を、教えられたとおりに「OZのまほうつかい」と書かれた看板を探して歩いた。この日の仕事場であることになっていたのだ。入るなり驚いた。店の中は鉋屑と材木と酒瓶とグラスと二人の横たわった女で溢れていた。表に飛び出し、手帳と見比べたが間違いなかった。手帳のスケジュールも表の看板も正しいとしての話だが。
死んでいた二人の女の子を生き返らせて挨拶した。間違ってはいなかったので安心して荷物を預け、市街半分横切って岸壁まで歩いた。昔船乗りになりたかったくらい海と船が好きなのでどこに行ってもすぐ海を見にゆく癖がある。岸壁に座って福島君に「ドック・オブ・ザ・ベイ」を歌わせたが、しまいまで歌いきらないので、「岸壁の母」を頼んだ。風が強く、波は荒く、いつの間にか眼鏡が白く濁ってきたし、冷えて腹具合がおかしくなり出したので町に戻った。
OZのまほうつかいの店の中はまほうつかいがやったようにきれいになっていた。もっともその点にかけては僕の周りは皆まほうつかいだが。早速7時になった。
3年前には国際通りでアナザサイトというロック喫茶をやっていた富原森魚君が今はパン屋さんで、この日はブルースシンガーに化けて、OZのまほうつかいのマスターと称するムジナ君とデュエットした。タヌキとムジナだ。その次に玉村ヒロ君という今夜からの宿主がバンドをバックに歌った。なんと「オハイオの岸辺」に沖縄語の歌詞をつけて歌うのだ。思い入れ方が違うのだろうか、日本標準語の歌詞で歌う時より迫力があった。終わってからみんなで飲んだ。沖縄に来て初めてのドンチャン騒ぎになりそうだった。ジンと泡盛を飲んだ。それから場所を変え、開南の裏、客引き女のいっぱい立つ間を連れていかれた店には、琉球民謡を歌うおばさがいて歌ってくれた。ついでにはやりのカラオケまで持ち出したので早々退散。沖縄ではバスの中でも民謡がかかっているし、船の中でも酔うと誰かが歌い出す。
次にどこか知らない町の飲み屋へ連れて行かれて、ふと気になったので、そこに居合わせた連れ10人の出身地を尋ねた。宮崎の山奥から遊びにきたタカちゃんは徳島で、その連れのフランク・ザッパにそっくりなのは東京で、バスの洗車をやっている吉田君は尼崎、ヤクザの経営するレストランの支配人である佐伯さんは北海道から来て4年目、もうすぐ北海道に帰るそうだ。結局10人のうち沖縄の人は2人しかいなかった。
沖縄は住みやすいと言うし、子供3人と妻がいて、3年前に失業したきりどうやって食べているのか本人にも分からない人の話なんかも聞かされた。あやうく住み着いてしまいそうな気持ちになりかけたら、閉店ですと追い出された。時計を見れば朝の4時だった。それから首里に戻ってまた飲み始めた。順番に戦死してゆき、残ったのは大工の中山君と僕だけになった。中山君は「明日もさぼりだ」と言った。なんのことはない。どこに行ってもやってしまうことをここでもやってしまったのだ。
そんなわけで今月は推薦図書なし。
1977年11月24日
 
 
「おっとせいは中央線に乗って」友部正人
月刊「るっく」1978年1月号 通巻29号
同号には、金井勝、田川律、佐藤重臣、古川壬生、小崎隆が執筆。
 
元来、人をほめるのが苦手でほめられるのが苦手でなおかつ好きな僕には、ほめるというのはたいそう難しい。それが同じ歌歌いであり、相手の方が有名であるとなればなおさらのことだ。けなすとか悪口を言うとかとなれば上手だし好きでもあるのだが。
悪口はなるべく生き生きと辛辣にするのがいい。言われている当人に面識のない人にもその眼に浮かぶような、浮かんでそこらを歩いているかのようなのが。本当に好きな奴の悪口しか言わない方がいい。嫌いな奴の悪口を言うと酒がまずくなる。
で、何故こんなことを書いたかというと、友部の依頼で彼の詩集の折り込みに文を書いたからなのだ。
出来上がって送られてきた本を開いてまず折り込みを見ると、なんと僕以外は皆有名な人が書いていて、おおむね誉めてあるのだ。僕ひとりがキヨホウヘン相半ばして書いたものだから、まるで出版記念パーティに紛れ込んだホイトさんのような姿になってしまった。しかしねえ、友達のことそんなに手放しで誉められないよ、恥ずかしくて。
キリストだって、隣人から見れば、フーテンを集めて大ボラ吹きまくっていた奴だ、と言ったのは誰だっけ。いっそのこと彼のつれ合いの由美さんに書かせればよかったのだ。
先日、東京へ行って、東横線の近くの店で、彼と歌った後、彼と由美さんと彼の息子の一歩君と僕の友人のドクター楊という男と5人でドクター楊の部屋に酒とつまみを買って帰った。ドクター楊は貴妃の子孫だと称しているが、本当は香港警察の楊警部と親戚ではないかと僕は疑っている。
それはともかく、その道すがら、つまみのつもりで買ったトマトを由美さんに抱かれた一歩君に見せたのがまずかった。欲しがるので渡すと二度と返してくれなかった。僕は子供の涙には弱いのだ。
夜も更けて、一歩君と由美さんが戦死すると、三人で歌の話になった。
友部が、
「田中さんは知識欲が旺盛だけど、僕はなまけものなんだな」と言った。
知識欲と呼べるなら、僕のは悪食の部類だが、確かに彼はなまけものだ。彼がいい歌を書けるのも彼が勉強しないからだ、とその時気づいた。これも先日、清水昶のエッセイを読んでいたら、鮎川信夫だか誰かが、田村隆一のことを同じように評していておもしろかった。そう言えば田村隆一の最近の詩なんか、友部の歌に似ている。友部も「下町のモダニスト」だろうな。
ところで、友部の歌で僕の好きなのに「乾杯」というのがある。印税の問題で詩集には載せられなかったのだそうだが、というのは彼の意思にかかわりなく、著作権協会が印税を出版社から取ってゆくからで、あの「乾杯」なんか、マルクスやレーニンを「勉強」したものにはとても書けないだろうと思うし、マルクス主義者や、別の意味で進歩的「同伴者」歌手にも書けないと思う。それらの人たち(おそらく僕も含めて)連合赤軍事件の「事件」の方に強くひき寄せられてしまうからで、彼のように、「事件」をテレビの画面の大きさに縮め、それを、彼の世間を写す鏡にしてしまうことなどなかなかできない。
それができるのは、彼が根っからのなまけもので、自分から少しも離れようとしないからみたいだ。
彼の歌だって、対象に柔道一直線で突っ込むなんてことをしないでその周辺をポケットに手を入れたまま、照れ屋の与太者のようにうろうろして、そのまま終わりまで行く、というようなところがある。
その晩、ずいぶん手厳しいやりとりもあったように思うけれど、以前に彼の歌は絵で、僕の歌は物語りだというようなことで納得し合った憶えがある。
いずれにしろ、この詩集が飛ぶように売れて、彼が一歩君にたくさんのトマトを買ってやれればいい。
1977年師走26日
 
 
「石垣りん詩集」石垣りん
月刊「るっく」1978年2月号 通巻30号
同号には、金井勝、田川律、佐藤重臣、古川壬生、小崎隆が執筆。
 
今月は、引っ越しや風邪のおかげで原稿が遅れてしまった、などと弁解すると、小崎氏が「では、あなたは毎月引っ越しして、毎月風邪をひくのですか?」と、男おいどん風眼鏡で言う、その姿を想像しておかしかった。ゴメン。
居候のような格好で転げ込んで荷物もやっと片づいた夜、もらい物のウィスキーを、テレビをさかなに飲んでいた。だしものは座談会で、テーマは何だったか結婚して姓を変えるのが是か非かという内容だった。
この手の番組では、出演者全員、知的なことをおっしゃるのでよく見るのだが、「男性一般はけしからん、だけどあたしの亭主はかわゆい、つれあいは非常に理解がありますのでわたくしもこうやってテレビに出られますのですよ」風の女が出てくると、その「理解ある」亭主が夜な夜な、女の寝首をいつかいてやろうかと思案している図を考えてしまう。
その時も、考えつく意見はだいたい出た。
「どちらかの姓に変えることを法律で強制するのはけしからん」
「家を継ぐという制度はおかしい」
勿論、おかしいし、けしからん。
それで? 問題はそれからだ。
別の男が発言した。
「だんだんと家の観念が薄れてきてるんですよね。それを、結婚して姓を変えることが、男に自覚を持たせるんですよ」 それくらいで持ったり持たなかったりするんだから、大した自覚でもないと思うが、了解できる通念ではある。しかし、注目したのは「家の観念がうすれつつある」という部分だった。「家の観念がうすれつつある」のは、とりもなおさず、「家」の実体が大部分解体してしまっているからだ。
 
僕の父は、河内の農家の末っ子として生まれ、教師になった。教師というのは「中の中」階層であることを法律で決められている。そして、結婚して母の姓を名乗った。給料の使い道は母が決め、親類とのつきあいも少なく、わずかに戸籍で世帯主として筆頭になるくらいで、受け継ぐべき財産も残す財産もほとんど持っていない。
そんな家に育った僕は、幸か不幸か「家父長制」や「家督制度」といったものの実体に直接触れることはなかった。これは多分、ほとんどの給料生活者の家庭について言えることだ思う。
 
その座談会では、改姓に賛成する者が、「家の観念」がうすれつつあることに、残念そうに触れ、反対する者の意見が、「法律」や「制度」に集中してゆくのが、僕には奇妙に思えた。生活から法律や制度に昇ってゆき、今度は生活の下に降りてくる。僕としては、その部分が聞きたかった。
女詩人として好きなのは、昔の茨木のり子と石垣りんで、日常生活から政治を撃ち、また生活に戻っていくその強さはすごい。
石垣りんの詩では、「表札」とか「崖」が有名だけれど、一つ無断で載せる。
 
言えに一つのちいさなきんかくし
その下に匂うものよ
父と義母があんまり仲が良いので
鼻をつまみたくなるのだ
きたなさが身に沁みるのだ
弟ふたりを加えて一家五人
そこにひとつのきんかくし
私はこのごろ
その上にこごむことを恥じるのだ
いやだ、いやだ、この家はいやだ。
(きんかくし)
 
今読み返してみると昔ほどのリアリティーはないけれど、切実さの裏になんとないおかしさを感じたりする。
僕の持っている本は71年の版で320円だけど値上がりしているから520円になっていると思う。他に「表札など」や「ユーモアの鎖国」という本も出ている。
1978年1月24日
 
 
「偉大なる祖国アメリカ」佐木隆三
月刊「るっく」1978年3月号 通巻31号
同号には、金井勝、田川律、佐藤重臣、古川壬生、有山淳司が執筆。
 
引っ越して来てから一月半ほどたってどうやらなれてきた。家は二階建てで、正面から見ると田形に四世帯あって、その二階の一部屋からは間にマンションさえなければ大阪城が眺められる。近くには、こんな市内にと驚くところに畑があって、はねつるべがその真ん中にたわんでいる。
家の前には、川を埋め立てたという幅5メートル、長さ200メートルの公園があり、その下流あたりに鯰江公設市場が建っている。近くにスーパーマーケットもあるが、距離と好みの点でもっぱら市場に通っている。
一緒に住み始めた女の帰りが遅いのでほとんど買い物も料理も僕がやる。これは、どんな理念からでもなく、どんな趣味でもなく、生活の必要上からなので、いくらおいしくとも高くつくものや手間のかかるものはやらない。そのような料理を男がつくろうと女がつくろうと、職業的料理人の料理とも、一般的主婦が毎日つくる料理とも同日には論じられないのは当たり前の話だ。
ところで、料理の本というものはどうしても買う気がしない。
だから、市場で野菜や肉を買うついでに、料理の仕方、分量を店のおばさんから聞く。料理のコツまで親切に教えてくれる。
スーパーマーケットではこんな風にはゆかない。
 
料理していて、無意識のうちに小さい時から食べなれた母親の味を真似ようとしていることに気づいて驚くことがある。
料理しながら、三十年四十年、朝晩料理をつくることが喜びでも苦痛でもない女たちのことを考える。ちょうど、その男たちが毎日勤めに行く、そのことが自体が喜びでも苦痛でもないように。
 
話はがらっと変わる。
先日、一緒に住んでいる女が「性格の本」という本を買って帰った。
「こんなくだらない本、買うな」と僕が言った。
「あんたみたいな人にはこの気持ち分からへんでしょう」と彼女が言った。
分からないのではない。僕も二十歳頃、自分自身を持て余し、心理学や精神分析の本を読みあさったことがある。その後でも自分に対する不安はなくならなかった。それは今でも変わらない。
「性格の本」は、種々の学派の、種々の性格分類から、およそ性格あてとしか言えなようなものまでをデパート風に並べた本で、もっともらしい処世訓めいたものも付けてある。
人の、自分の心の未知の部分に対する不安、その不安につけ込んで金銭をかすめるやり方と、そこに感じられるこびが許せないと思う。
 
先日、友人宅で、「新しい女のための雑誌」なる英文のタイトルのついた本を見つけた。パラパラと読むうちに、中程にあったのは星占いだった。思わず取り乱してしまった。あれがアンアンのおしまいのページであれば笑って済ませられたのにと僕が思ったのは買いかぶりだった。しょせん商業雑誌ではないか。
しかし、星占いにせよ、他のどんな占いとも同じく、人の心の暗がりにつけ込んでいることに変わりはない。
心の未開の部分を温存することで成り立っていて、それに対する不安を解決するものでは決してない。僕が見聞きして、女性とか人間の解放を唱える運動が占いを許容している様子はいやなものである。占いや宗教まがいのものをもてあそぶ限り、女も男も解放できるわけがない。
先ず、不安を不安として認め、心の暗がりを陽の下にあからさまにすることだ。
今月の本は無関係に。
1978年2月20日
 
 
「暗黒告知」小林久三
月刊「るっく」1978年4月号 通巻32号
同号には、金井勝、田川律、古川壬生が執筆。
 
3月16日夕刻、友部君と由美さん、僕の3人は神戸港を発ち、丸一日のうんざりするような航海の後、奄美大島の名瀬に着いた。予め連絡してあったけれど、一時間も遅れた船を、迎えに来た唯吉君という人は待っていてくれた。雨が降っていたせいもあって、思ったより寒かった。
車でライブの予定の「乃亜」というジャズ喫茶に行った。去年歌ってから半年も経たないのに雰囲気が違っていた。どう変わったと言えばいいか、前に奄美語が巾を利かしていたのに、今回はなんとなく東京風が吹いているのだ。
座るなり、他の席から友部君や僕に声がかかってきた。まぎれもなく東京訛りだった。
「某はどうしている?」
「友部君とは吉祥寺であったことがあるよ」
「Aは元気か? Bは? Cは?」
某や、A、B、Cに音楽やマンガの有名人を任意にあてはめさえすればいい。どこでもそのような手合いを見つけることはやさしい。
唯吉君が、友部君に、
「あのヒゲの男、知っているか?」と聞く。友部君は。
「いや、知らないよ」と答える。
「でも、あいつ、友部とは知り合いだって言ってたよ」と唯吉君。
 
どこの土地にも、こちらの有名さ程度に応じて態度を変える人たちがいる。この芸能界というものがそんなところなんだと言えば言える。僕はいまだにそれに慣れることができない。それは勿論ぼくが有名でもなく無名でもないという位置にいるからかもしれない。ただ、「乃亜」での会話から、京都の友人の言葉を思い出した。
「音楽のまわりにいる人間なんて信用できない」
それがたとえいき過ぎたきめつけであろうと、僕が、音楽のまわりにいるにんげんを代表して弁解する義理なんてないから当然弁解しなかった。僕が「義理」を感じるとすれば、僕の歌を聞いてくれる人たちと、僕の歌を認めて、歌う場を提供してくれたり、働いてくれる人たちに対してだけだ。
 
大島で買った本は2册、そのうちの1册が小林久三の「暗黒告知」だった。足尾鉱山の鉱毒を浴びた谷中村が舞台になっている。
殺人事件の謎解きそのものは大して面白いとも思えなかったが、川俣橋事件をはさんで、谷中村の滅亡までの過程に事件を織り込んでゆくやり方は楽しめた。
あと書きにもあったが、海渡英祐の「伯林-1888年」も、留学中の森林太郎 (鴎外) や北里柴三郎が登場して事件を推理する。おまけにビスマルクまで現れたりして、ホラ話のおかしさがあった。
この「暗黒告知」も主役に田中正造が登場したり、木下尚江も名前だけ引っ張り出されている。ただ、「伯林-1888年」のようなおかしみは少ない。もう少し深刻である。それは、「私」である地方新聞社の社主兼記者の、鉱毒事件に対する態度の変化や、農民側内部の葛藤や、運動内部に送り込まれたスパイの動きやその心理過程が殺人事件に比して、かなり大きいスペースをさかれているからだろう。
小説の迫真性が、描写の細かさや事実へのもたれ具合にあるのではなく、読む側の内部に根拠があるとするなら、それが作者の観念上の虚構であろうとなかろうと、登場人物の動作や言葉について、読む者は、その登場人物を、実在の人間の動作や言葉について語るように語っていいと思う。それは、読む側の内部に向かって語ることになるだろうからだ。
 
この小説で僕が関心を持ったのは運動内部に送り込まれた権力のスパイの心理過程の方だったが、その方は少し物足りなかった。
1978年3月25日
 
 
「天使」三好徹
月刊「るっく」1978年5, 6月号 通巻33号
同号には、金井勝、田川律、佐藤重臣が執筆。
 
先月、京都大学西部講堂という寒く、だだっ広く、かつ埃っぽい建物で、水俣病の映画を何本か見た。場所的な条件の悪さの上に、映画を娯楽以上のものとして観る修練を経なかった僕には、小さな、よくぶれる、荒削りに投げ出されたような画面は、それなりのリアリティを超えて、疲れた。
こんな物の言い方をしたからといって、水俣病患者や水俣闘争を担っている人たちに対して不謹慎だと言わないでいただきたい。病を生きることやその闘争と、それを映画に表現することとは別の次元に属するのだから。
ところで、その映画の一つに、「不知火海」というのがあった。海に生きる人々と海の汚染を暑かった映画だが、それが一番記憶に残った。
というのは、何本かのうちそれだけがカラーで、海の色の鮮やかさが衝撃だったからのみではない。たとえば、映画の一場面で、一人の漁師の、「魚が私たちを生かしてくれたのだから、私たちも魚たちを生かしてやりたい」という言葉は、思わず涙ぐんでしまいそうなくらい感動的だった。
この感動は何だろうか?
 
もとより、それは僕の言葉ではないし、僕がそんなことを言うはずもない。また、直観的に言えば、「人と自然の触れ合い」とか「生命の根源的な...」というような神懸かり的な修飾句も嘘である。それに対しては、漁師の言葉を、「漁を生産=生活様式とする人間の生活意識の表現である」と言うこともできる。
ところで、漁師のその言葉の向こうには、たとえば、勝本で千頭以上のイルカを殺す姿が浮かんでくる。「魚を生かしてやりたい」という漁師の姿と、イルカを殺す漁師の姿は必ず重なっている。あっちは感動的だがこっちは残酷だ、とは誰にも言えない。もろともに否定するか、認めるかだ。
そうでない、あっちは良いが、こっちの行為は悪い、というような発言があれば、そこには、のっぺらぼうの亡霊のように「人間的」とは称するが、決して個人の貌を持たないヒューマニズムか、それとも別の利害関係が表れてくる。
 
あの漁師の言葉が僕の言葉でありえないのは、生産と生活の様式の違いによる生活意識の違いであり、都市に生活する僕が、それにもかかわらず感動するのは、彼女の言葉が、僕の中から失われつつある個体前史的な意識を惜しませるからではないのか。
漁師である彼女の生活意識から発せられた言葉は、その生活意識をまるまる生きる彼女自身には感動的でも何でもないはずだ。
 
工業化への生産と生活の様式の意識にずっと遅れて、都市的な生活意識化が日本中にとどめようもなく進行している。たとえば農家で長男が田畑を継ぐことが特権ではなくなっている。生産様式の変化も、それに伴う意識の変化も、それら自体は良くも悪くもない非可逆的変化であり、都市的な生活意識から、農漁村のそれを古いと攻撃することも、あるいは愛惜することもナンセンスだ。
都市に住もうと農漁村に住もうと、いずれもその気になりさえすれば決して居心地の悪くない地獄と言える。
 
また話は変わる。
ロス・マクドナルドの「ウィチャーリー家の女」や「人の死にゆく道」や、結城昌治の真木探偵シリーズではなぜ娘の家出から話が始まるのか。
都市的な様式の小説であるハードボイルド派がなぜ家庭問題を取り上げなければならなかったか。本当はもっと長く書きたいが、ここで冗談めかして言えば、現代の都市でもっともハードボイルドなのは、個々の家庭ではないか、ということだ。
今月の泣かせる本は、シリーズで全6册、2000円足らず。
1978年4月20日

 
     

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最終更新: 20-09-2005

 

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