カースト、カンタベリー
Cust, Canterbury
エニー・オールド・タイム
遠い丘を背景に一台のバイクとライダーが黒い影になって次第に大きくなる。緑の木立ちと牧草がピンクの路面を縁どっている。影が近づくにしたがって砂埃のカーテンが視界に広がる。影がサンクン橋の白い欄干の向こうで一度沈む。それは獲物を狙った猫科の跳躍前の身構えを思い出させる。
次の瞬間、がくんと橋の上で跳ねる。
すさまじい爆音の中でいくつもの影がカーテンを突き破って膨れ上がる。
熱く焼けた金属のダイキャストの中であらゆる部品がきしみを立て、ねじれ、振動し、揺すぶられる。すべての動きは疾駆に向けて集中されていた。
バイクとライダーが視界から消え去ると、あたりは変哲もないカンタベリー平原北部の牧場地帯。日差しの中に草の匂いが漂い、サンクン橋の欄干の下に豊かな水が音をたてて流れている。疾走していったのは幻のバイクとライダー達だった。
クライストチャーチから20キロばかり北、ラニョラ・ディストリクトに属するカーストの町。国道72号線に沿ったカースト・ホテルとコミュニティ・センター、その周囲に分散する田園。その外れで1986年3月イースターの月曜日、カースト・グランプリ50周年記念レースがクラシック・モーターサイクル・レース登録会と地域のコミュニティ・センター建設委員会との協同で開催された。
登録会は1936年から63年まで開催されたカースト・グランプリの50年記念レースを実現させたかった。カーストではコミュニティ・センター改築資金を必要としていた。入場料をその資金に充てることでレースは開かれた。
バイクに乗る人達の大部分は中年後半から老年にさしかかった男達だった。
エントリー・リストにはモーリス・ワイヤ、マーティ・ラッシュ、ロン・ベリー、ケン・マドフォードなどが名を連ねる。全く無名の彼らは、しかし、かつてのレースの英雄達であり、ある意味ではニュージーランドの古き良き時代の象徴だった。
1929年にウォール街に始まった世界恐慌はこの南太平洋の小国をも巻き込んだ。人々は配給スタンプ片手に行列に並んだ。その不況が鎮静の兆しを見せはじめた30年代後半、力強いバイクの姿と轟音は多くの人達の未来へ投じる心情を象徴していた。それ以後の30年間はこの若い国にとってようやくたどり着いた繁栄の時代である。その時代の空気を呼吸して彼ら多くのライダーが駆け抜けた。
コースにあてられた63年当時のままの4マイル半の砂利道は、昔の英雄達にとっては彼らの青春の再現であり、若いライダー達には少年時代の英雄達と競うチャンスであった。誰が人生にそんな出来事を期待できようか。
リストの一人は60年代初頭にヨーロッパで世界チャンピオンとなった、やや若いヒュー・アンダーソン。ヒューは当時、フミオ・イトウ、マイク・ザ・バイク・ヘイルウッドとスピードを競った一人である。彼がヨーロッパで世界チャンピオンを獲得した年にカースト・グランプリはその幕を閉じ、彼が出場することはなかった。
26年ぶりに再会した男達は肩を叩きあい、抱擁しあい、昔話を語りあった。日に焼け、皺の刻まれた顔の中で数多くの瞳が少年のように輝いた。彼らはお互いの表情に、生涯を通して生き抜いてきた少年を発見した。彼らは多かれ少なかれこの社会の成功者達であった。
ぼくはその感動的な場にいて傍観者だった。胸のどこかにトゲのように刺さって離れないものを意識した。
レースはセッションごとに、ショットガンの号砲でスタートした。
「2発の弾丸が込められている。1発はスタートの合図、1発はとち狂ったライダーを射つため」言い古された彼らのジョークである。
大勢のライダー達がゴールに向かって、そして終わりない道へと駆けていった。
英雄の多くはリタイヤした。筋肉は衰え、息切れは激しく、バイクもまたそうであった。
若手は容赦なく彼らを追い抜いていった。それだけが少年時代の英雄達への挙手の礼であると知っていたから。
観客が散った後の車検場でジョージ・ペグが参加者に挨拶した。
「カースト・グランプリ50周年記念レースは、コミュニティ・センター委員会、地元の牧場、多くの協力者そして君達参加者の協力なしでは実現しなかっただろう」
「かつてのレースで走った人達も当時まだ子供だった人達も共に走った。今日のレースには勝者もなければ、敗者もない。参加者全員が今日のレースの勝利者だ」
「このレースにヒュー・アンダーソンが参加した。彼は奇妙なことにグランプリには一度も出場しなかった。彼が世界チャンピオンになった年、レースは終わった」
「しかし、今日彼はフロント前の直線路で時速170マイルを記録した。これはカースト・グランプリの最高記録である。彼こそ世界チャンピオンになった後で草の根レベルに帰ってきた唯一の男なのだ」
人々は再び、それぞれの生活を目指して散っていった。冷たい夕暮れの空気があたりを包みはじめ、牧場は静けさを取り戻した。
「君の手紙を受け取ったところ
もう一度戻って、やり直したいんだって?
初めは、おととい来な、って言おうかと思った
けれど、思い出のなかにぼくのものだった君がいる
いつだって、帰ってきたいんだろう
もう、うろつくのはやめたって
もう一度ゲームをやり直すチャンスをあげよう
いつだって、帰っておいで……」
ラウドスピーカーからジミー・ロジャースの 「エニー・オールド・タイム」が流れた。
ぼくは友人になった人達ひとりひとりに別れを告げた。
また会おう。手紙を書けよな。元気で。走り続けるんだぞ。あんたもいつまでも若く!
ひとりカーストを後にした。眼の奥ではいまだに彼らは駆け続けていた。
終わりは遠く、結末はまだやってこない。けれど、この国はぼくの中で確実にその座標をずらした。そして、ぼくにはやり直すことはできない。
そんなことは誰にだってできやしない。
あとがき
窓の外の小さな鉢に、今年の春に蒔いたタイムが何株か育っている。
1986年夏、ニュージーランド南島中央オタゴ地方の山岳高地牧場を縫う荒れ地の道を走った。周囲の低い草が一面紫色の細かい花をつけていた。ヘルメットを脱ぎ、足を踏み入れるとこの紫蘇科の多年草の甘い香りが熱を帯びて漂っていた。
標高千メートルのそのあたりは夏には国中でもっとも乾燥した暑さ、冬には深い雪と凍てつく寒さにさらされる土地である。無人の荒野の匂いの中にいて一瞬、涙の出そうな懐かしさを感じた。ニュージーランドを旅する間、その懐かしさは何度もぼくにつきまとっては、見つめようとすると逃げ去ってしまった感覚である。
1988年3月、同じ土地にいた。今回は同行者がいて、日本人女性4人、キウィのライダー達3人、バイクと4WDでゴールドラッシュ・トレイルをたどった。
再び訪れた見覚えのある風景にはあの懐かしさの感覚はもうやっては来なかった。それがひどくさびしかった。
いくつかのダート道を走り、いくつかの町を抜けた500キロばかりの旅程の最後にぼくたちはゴーストタウンでキャンプした。そこは日本人もよく訪ねる観光地クィーンズタウンからいくらも離れていないが、訪ねる人は僅かで、十数キロの峻険な断崖と20箇所ばかりの渡渉の終わりにポプラやオークの木立に固まれた芝草のメイスタウン跡があった。
メインストリートは2本の轍、二筋の石を並べたパークドライブ。長方形の石積みは家屋跡、一軒だけが今も残っている。夜更けまでぼくたちは崖の上のキャンプ地で焚火を囲み、歌ったり話したりしていた。眼下にアロウ川が流れ、周囲の丘陵は紫の闇の中に昏く沈んでいた。時折、モアポークの低い声が木立を縫ってくる。
誰かの「おお」という叫びで振り返った。
丘陵の稜線が銀色の光を自ら放っていた。驚きで見つめるまもなく針先ほどの光が頂に現われ、点は面に広がり、丸くなった。月が高く昇るに従って稜線の萱草は輝きを失い、メインタウンもそれを取り巻く景色も昼間のようにくっきりと青く照らされ始めた。
しばらくは誰も声が出なかった。丘の斜面を大勢の金鉱夫達がしめやかに足音もなく行進し、木立が彼等に長い影を投げる。アロウ川は沸き立つ油のようにきらめいた。ぼくたちは崖の上に黙って立っていた。
その一瞬、あのおなじみの感覚がふいにやってきた。涙の流れそうな懐かしさが視野の隅を横切った。それは横切り、そして、去っていった。
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