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セントラル・オタゴ
Central Otago

キャベツの木の下で

甲高いエンジンの音が遠くを移動している。建物や、レースウェイを縁どる雑木林の具合で微妙に音調が変わる。牧草の上すれすれにライダーの色とりどりのヘルメットだけが滑らかにすべっていく。音は次第に小さくなり、一瞬、静寂があたりを襲う。草葉のそよぎさえ聞こえそうだった。こんなところで何をしているんだ? というように。
アスファルトの外側をすすきに似た丈高いトイトイ草が取りまいている。突然、その草叢越しにピッチを上げたうなりが爆発する。プレートナンバー2の赤いマッキントッシュを先頭に数台のバイクが大きなコーナーを回ってくる。フライング・ドクター・ロジャー・フリースは1985年ニュージーランド・フォーミュラ・チャンピオン、バイクはオークランドの若いエンジニア、ケン・マッキントッシュのアルミフレームにスズキのエンジンを積んでいる。
路肩の白線から草地までは30センチほど。ライダーは内側の膝をほとんど草地に擦りつけて小さなコーナーを去っていく。それに遅れていくつかの群れが走り去ると再び静寂が訪れる。はるかに遅れて調子の悪いエンジンが何台かのろのろと過ぎていく。
南緯4630分、南極点まで4600キロのインバカーギルの夏だった。
クィーンズタウンからラムズデンへと南下し、そこからはセントラル・オタゴを離れ、サウスランドに入った。彼らはディープ・サウスと呼んでいる。ワカティプ湖の南に発したオレティ川は常に右手を流れている。
牧場の肥料が川に流れ込みつづけ、季節の氾濫は河川敷に栄養を蓄え、潅木の繁る河原に変えてしまった。
その間をオレティ川はサウスランド平原目指して下った。たまたまサウスランドの中心都市インバカーギルでニュージーランド・ロードレース・チャンピオンシップスのラウンドがあるというのでやってきたのだった。

市内の記念碑の立つ交差点で西に折れ、長い、キャベッジ・トゥリーの並木の延びる沼地の間の道を走る。オレティ川の河口は広大な、驚くほど広大な沼地だった。
埋立地の草原から巨大な水鳥のようにジュラルミンの機体が空を目指して飛び立っていく。
市の西郊、オレティ海岸の、草地に変えられた砂浜にテレトンガ・パークがあった。簡単な木造りのアーチをくぐると、芝生に半ば埋もれたアスファルトのコース。道はコースを横切っている。だだっぴろい敷地を白ペンキの柵が取り囲んでいる。田舎の飛行場にあるようなコントロールタワーひとつがコースに沿って西方に窓を開いている。南隅の最終コーナー外側に高いタワーが見通せる。数人の男が明日のレースの準備をしていた。
自己紹介をした。長身の若い男はジムと名乗った。彼が写真にいい場所を教えてくれた。コースの長さは三キロ足らず。その内側を走り回るだけでも大変である。ジムはそこをバイクで移動してもいい、と言った。コントロールタワー正面のひび割れたアスファルトにグリッドがかすれていた。日が落ちると南からの冷たい風が吹き寄せた。
表の砂浜への道の傍らにトレイルバイク・サーキットの看板があったが、ゲートで閉ざされていた。砂浜への舗装が切れるところに速度制限標識のポールが砂に埋もれていた。
砂浜の白い砂は遮るもののない強い南の風に吹かれて土手の草地を越えて走り、後背地にじわじわとその領土を回復していた。波打ち際で子供を遊ばせていた父親が浜から草を拾い上げ、風に飛ばしていた。
「面白いだろう? カイクーヤというんだ」彼は強い風に向かって顔をしかめて言った。
直径20センチから30センチばかり、一本の茎の先から葉ともつかない細長い無数の針を八方四方に突き出した草は、身のないウニか、針坊主のような姿をしている。
「枯れると根から離れて風に転がっていくんだ。止まったところで種を増やすんだろうな」
子供がぼく達のところに寄ってきて、風に飛ばされたカイクーヤを追いかけた。草は地吹雪のような砂の中をいくつも転がっていた。後背地の向こうにはキャベッジ・トゥリーが疎らに生えていた。ぼくも子供のようにいくつもいくつも転がしていた。

6号線に沿ったユースホステルに荷物を置いて、何ブロックか離れたパブに出かけた。ユースホステルは敷地内の飲酒を禁じているが酔っ払いを禁じているわけではない。
インバカーギルはこの国の酔っ払いの歴史で大きな転回点をもたらした土地である。
開拓時代にはアルコール販売には何の規制もなかった。お定まりのアル中、借金、家庭の悲劇に対して敢然として立ち上がったゼッタイキンシュシュギシャはプロテスタンティズムの後ろ盾を得て1881年にアルコール販売「許可法」を通過させた。酒飲みの受難の時代が始まる。
酔っ払いは彼らを「ワウザー」と呼んで抵抗した。「ワウザー」は今では「とんでもなく非常に全く厳格に度し難いほどピューリタン的な性格、またはそのような人物」を指して一般に流布している。例えば、この国のユースホステルの管理人の幾人かはワウザーである。
ひとたび地歩を取ったワウザー達は何と呼ばれようと平気の平左で破竹の進撃を続けた。
1893年には選挙区ごとの住民投票により、60パーセントを超える賛成でその地区を「ドライ(禁酒)」地区とすることに変わった。ひとたび、領土を譲ると後は敵の思うまま、という歴史的教訓がここでも繰り返された。禁酒十字軍「ワウザー」達は1910年には、3年ごとの総選挙での国民投票への切り換えに成功した。
すべての有権者は三つの選択肢を与えられた。1、現状のまま。2、酒類製造を国営化する。3、完全に禁止する。1919年は酔っ払いにとって最大の危機の訪れであった。第三の選択肢は投票数の60パーセントに3263票欠けるだけだったのである。結論は持ち越された。
ニュージーランドの酔っ払いを救ったのは第一次世界大戦の復員兵達であった。彼らに禁酒を説くのは猫に菜食主義を説くよりも畏れ多いことであった。
1908年以来「ドライ」地区だったインバカーギルは1943年に禁酒を解く交換条件として、「許可信託(ライセンシング・トラスト)」を設立し、それまでの個々の販売許可からトラストによる酒類販売に切り換えた。そこからの収益が地区に還元されたので一時期はかなり盛んになった。
ちなみにアルコール消費量は14歳以上の上戸も下戸も含めて一人あたり年間、ビール208本、ワイン25本で、ビールの消費量だけでも一人あたり日本の2倍を超える。
つまりぼくはそのパブで1943年のインバカーギル市民の英断に乾杯した。

「ワントゥエンティファイヴ、ダミー・グリッド、プリーズ(125ccクラス、ダミー・グリッドに集まってください)」ラウド・スピーカーから割れた声が届いてきた。
しばらくしてエンジンが一斉に甲高い爆音を轟かせる。それからいちばん遠いコーナーに向かって音は小さくなっていく。
コーナーの外側だけが盛土になっていて、その盛土に立てかけたグリルからバーベキューの煙が上がっていた。トラックでやってきて荷台に椅子を並べて観戦している者もいる。日が高くなるにしたがって気温も上がり、女達はブラウスを脱ぎはじめた。彼女達はちゃんとその下にビキニを着けていた。なんとも用意のいいことである。
125ccの軽い音が次第に大きくなってくる。23台のグループが草叢から現われてきた。観客は友達のレースだけ見て、後はソーセージにかぶりついているか、ビールを飲んでいるか、寝っころがっているか、それともそれらを全部一度にやっているかである。
太陽がじりじりと肌を焼く頃になると女達は鼻の頭に日焼け止めクリームを塗りはじめた。
ピットではサイドカーがエンジンの調整中であった。彼らはほとんど一日中調整していた。4セッションのレースを除いてはずっと調整していたし、リタイヤして調整し、レース前に調整し、であったからいつ走るのかが不思議である。
女性のパッセンジャーが左に身を乗り出し、右へはライダーに覆いかぶさり、時速百数十キロで後方へ飛びすさるアスファルトに数センチのところまでヘルメットを下げる。
レースに出場していたグレアムとアリスのペイン達は夫婦であった。20代半ばのグレアムは溶接工、自分の技術を生かしてフレームは自家製でまかなった。既製品がないから誰でもが多かれ少なかれ自分で造るか、知り合いの溶接工に頼むかしている。エンジンはカワサキの1000ccクラスのバイクのものを流用し、友人に頼んだFRPのカウリングも黄緑にした。
アリスは長い栗色の髪を無造作に束ねている。レースのとき以外は皮つなぎの上をはだけ、顔をしかめて「暑い」と言った。彼らは結局三位に終わった。6台出場で全レース完走3台の三位である。
彼らは真冬のコールドキウィ・ラリーに出かける以外は北島のレースに出ることはない、それでも自分達の好きな生き方に満足している、と言った。
インフィールドにフィッシュアンドチップスの屋台が出ている。それを狙って鴎が押し寄せていた。
レースごとにマーシャルカーがコースを走る。そのあとをトラックがついていく。レーサーが落としていったバイクのゴミを集める。時には完全に動かなくなったバイクが担ぎ揚げられる。縫いぐるみを着たオフィシャルが退屈した子供達に愛敬を振りまいた。

「トゥーフィフティー、ダミー・グリッド、プリーズ(250ccクラス、ダミー・グリッドに集まってください)」
パドックからぞろぞろとバイクが出ていく。エンジンをかけたままでスタート・フラッグを待つ。
すさまじい白煙と轟音の中を一斉に遠ざかっていった。出遅れた1台はしばらく努力したあげく、ピットに戻った。23周目に左手を高くあげてゆっくりと戻ってくる選手が、出遅れた選手と拳を打ち合った。
フォーミュラ・クラスの最終レースが始まった。終始ロジャー・フリースが先頭を取っている。一直線に並んだ集団がコーナーからコーナーへ切り換える。機械仕掛けの正確さで姿勢を右から左へ移す。チェーンが上下に震える。コーナーを切り抜けたライダーはバイクの正面に姿勢を戻す。後に細い音が尾を引いた。
勝った選手達はオフィシャルの事務所で領収書と引き換えに小切手を受け取る。観客達はコースを横切って、出口へ向かいはじめた。
夕方、明るいうちにレースは終わった。
レースが終わると酒盛りである。カメラとレンズをしまっているぼくに、ジムがクラブハウスに来ないかと誘う。酒の誘いは原則的に断わらない。
レースウェイの隣の牧草地にクラブハウスがある。
クラブハウスのカウンターで飲み物を売っている。たいがいのクラブハウスがこのような独立採算制のカウンターを持っている。スペイツの瓶を注文した。
表でバーベキューが始まった。子供達が群がり、テーブルの黒パンにトマトソースをぶちまけ、カラシをつけすぎている。鉄板の上にクラブの家族らしい中年の女性がチューブの脂肪をひねり落としている。そのたびに煙が吹き上がり、鉄板の上のソーセージが焦げる。ラムチョップが脂をはねながら縮む。分けて貰って頬ばった。指にべっとりと脂が流れた。

「日本のレーサーに比べるとのんびりしているな」ジムに言った。
「そんなものかい?」ジムはぴくっと眉を上げた。その上げ方で彼の表情がおどけた感じになった。
「レースは社交生活だ。強いやつは勝つ。弱いやつは楽しむ。それだけさ」彼は話題を変えた。
「インバカーギルは本当は泥沼の上に建っているんだ。沢山の排水溝で水はけをよくしてやっとできた町さ」
最初のヨーロッパ移民は当時、「地の果て」の意味のムリヒクを不毛の泥沼として捨て、北のダニーデンを選んだ。
「今ではディープサウスで年に700万頭の羊を処理している。ほとんどが船で輸出される。俺達は安い羊を売って高い製品を輸入しなきやいけない。ロンドンで50ドルのラムもこの国の牧場が稼ぐのはたった10ドルだぜ」
クラブハウスの反対側でクラブメンバーがダーツを投げている。時折、歓声があがる。彼らとの間のいくつものテーブルの上に濃密な煙がたちこめていた。
「俺はね、いつかまた、この町が泥沼に沈むんじゃないかと考えることがあるんだ」彼は続けた。
「たいして不満はないんだけれど、将来が大きく変わることもない。うんとよくなることもなければ、悪くなることもない。このまま同じ調子で続くかと思うといてもたってもいられないことがある」
ぼくたちはしばらくあれやこれやの話を続け、スペイツが何本か空になった。ぼくが飲んだのは2本だけだが。
ダーツが終わったらしく、何組かのクラブメンバーがぞろぞろと戸口を出ていく。入れかわりに冷たい夜気が床を伝って流れ込み、戸口から光の届く草地が露できらめいていた。
ぼくも彼に暇ごいした。彼は戸口まで出てきた。
「話ができてよかった。いい旅を。北へ上がるなら92号線を走るといい。俺の言った泥沼がどんなものか分かる。キャベッジ・トゥリーの林があるからすぐに見つかると思う。84年の水害の跡だ」
「ありがとう。いいレースを」
ユースホステルの裏にバイクをしまった。身体がひどく冷えていたので、紅茶を浴びるほど飲んだ。その夜、どんな夢も見なかった。

ベンディゴ・ホテル、アレグザンドラ 

ジムの言葉に従って国道92号線をとった。舗装の帯の左右に沼地が点在、牧場の中をいくつもの堀割が横切っていた。堀割は赤土を両側に盛り上げ、真新しく湿っていた。
堀割の底には赤土に染まった水が淀んでいる。牧場のど真ん中の沼地を蒲の穂が縁どり、水が干上がっていた。風を遮る丘陵もない平野である。道端を牧夫が馬を並足で進ませていた。帽子の陰からはみ出した顎が日に焼け、手綱を取る手もショーツ姿のすねもよく焼けている。鐙にかけたブーツが泥にまみれていた。農場の果てにキャベッジ・トウリーが群生している。わずかにねじれた細い幹の梢にアロエに似た剣のような葉が球をつくっていた。
牧草地の縁は傷跡から回復しつつあったが、低地にはまだ水溜りが点々と残り、少し高くなったあたりでさえも根方は砂に埋もれていた。平野は南、海に向かってわずかに傾斜していた。国道92号線は春のようなのどかさの中を傾斜に沿って海岸に達する。南氷洋に面したフォーヴォー海峡を見下ろすその位置からは、スチュアート島につながるティティ諸島は靄の中に隠れて見えなかった。
平野を離れ、丘陵地帯に入ると牧場は狭く、垣根に囲まれた崖の上に古い家が朽ちかけていた。予備知識がなければ気づかないような製材所が牧場の外れに廃墟となっている。谷間を広大な沼地が占め、その真ん中を小川がゆったりと流れている。
緩やかな坂道の小さな牧場の表に「Free Cuppa(紅茶無料)」の看板を見つけた。牧場の納屋を改造した小舎で薄暗い裸電灯の光を受けて、主婦が店番をしていた。
手編みのセーター、縫いぐるみ、陶器、押し花のグリーティングカード、蝋燭、羊の脂の石鹸をひな段に並べて、彼女は縫物をしていた。
「これはあなたが作ったんですか?」
「はい、あたしは縫いぐるみが主ですけど、ご近所の牧場の主婦が作った物をここに並べて売るんですよ」
「近所たって、遠いんでしょ?」紅茶を受け取りながら聞いた。
「ええ、車で10分がいちばん近い牧場なんですよ」
農業協会の婦人部や教会ばかりでなく、生活行事のたびに彼女達は集まる。それなりにゴシップ好きらしい。毎日の手なぐさみを売って何らかの足しにしている。
そこからは深い湿った森が道を覆うキャトリンズ森林公園のまっただ中である。ブナとカヒカテアに潅木が踏み込みようもないほど生い茂っていた。めったにに出会うことのない旅行者の車が長い砂埃を残していく。
長い砂利道がサウスランドのさびれた海岸をたどっていて、ダニーデンに近づく頃には陽が低く傾きはじめ、舗装路の長い影を踏むように走った。
タイエリ流域の平野に、線路の向こうのワイホラ湖が延々と続いている。反対側の農場に、落書きのあるコンクリート壁の納屋が夕日を浴びている。
屋根の抜け落ちたコンクリートの納屋はその中に生えた大木のためにまっぶたつに引き裂かれ、燃え上がろうとしていた。

ダニーデンのユースホステルには三人組のオーストラリアから来た女の子達がいた。社交室で彼女達の一人がピアノを弾いた。
  「昔、陽気な放浪者が池のほとりにやってきて休んだ
  クーリバの木陰で休んだ
  笑って、歌って、湯の沸くのを待った
  おいで、マチルダを踊ろう」
彼女達はワルツィングマチルダを歌い、彼女達が生まれるずっと前の映画「渚にて」を知らないと言った。
翌日、ダニーデンの町を歩き、走った。オタゴ半島の先まで行ってみたが、曲がりくねった道の果ての灯台下の信天翁コロニーは町中の旅行者センターでの予約が必要であった。雄大な姿で飛ぶ彼らも地上では全く不器用なためにほとんど絶滅の危険にさらされていた。
その鳥は、地上の阿呆どもの所業を歴史にとどめる意味であほうどりと呼ばれるようになった。
ダニーデンに関わったひとりの詩人がいる。アイルランド出身のトーマス・ブラッケンで、新聞社、出版社を経営、国会議員にもなった彼は、ニュージーランド国歌「神はニュージーランドを救い給う」を書いた。
晩年のブラッケンは事業に失敗し、詩も評価されず、自分の詩集を売り歩いて各地をさまよった。昔の友人達が寄金を募って彼に靴を買い与えもしたが、ついに病を得、55歳で世を去った。
ぼくはある日、知り合いのニュージーランドの悪童にその歌をうたってくれ、と頼んだ。
「あれは、俺達が挽歌と呼んでいるんだぜ」 8小節ばかりうたい、それ以上は憶えていない、と言った。
お返しに日本の挽歌をうたってやったが、うたい終わる前に彼は眠ってしまっていた。
まだ陽の高い時刻だったが、ぼくはパブに座り、この国の多くのきらめく個性に乾杯した。
彼らの多くは社会的な成功者でもなければ人生の成功者でもなかった。時には犯罪者でさえあった。思うさま生き抜き、歴史の彼方に消えていった。それはこの国で悪人も善人も生きいきとしていた時代。秩序や規則が人間を堕落させるずっと前のことだった。
生きた彼らとの出会いはぼくを笑わせ、舌打ちさせ、胸の中にひとしずくの苦い涙を落としさえした。ぼくは彼らのためにもう一杯、乾杯した。
それ以上乾杯すると居ずっばりになりそうだったから、町を歩いて少しばかり酔いを醒ますことにした。

ダニーデンの近くから、もうひとつのダート道が始まっている。北の方クラークス・ジャンクションのホテルの先で87号線と分かれるオールド・ダンスタン・ロードである。
砂利道が最初の丘を上っていく。標高700メートルほどの台地は萱草に覆われ、どこまでも視界を遮るものとてない。最初のうちこそ砕石が車輪をとらえるがそれもいつかよく踏み固められた土道に変わった。空はからっと晴れ、風は冷たい。
ラマームア連山からロック・アンド・ピラー連山へ渡り、1000メートルの峠を越えた。
荒涼とした草原と岩山の向こうにはタイエリ川の谷間が緑に溢れ、いくつもの水面が谷間に点在していた。このタイエリは先日、サウスランドからダニーデンに入る間に渡った川である。
源頭から河口まで直線距離でわずか50キロ、その距離を行くために川は大きなS字を描いて流れ、280キロの乾燥地帯を旅しなければならない。
オールド・ダンスタン・ロードはマニオトト平野の深奥部をかすめ、再び1000メートル級の山岳高地ラフ・リッジへ入っていく。ゲートを抜けた道は放牧地を放恣に走り抜ける馬車道であった。
セントラル・オタゴのクィーンズタウンからアレグザンドラに至る一帯で集められた砂金はショットガンとライフルの武装警官に守られて、駅馬車でダニーデンへ運ばれた。クライドの金庫に一晩預けられ、早朝に出発。それでもこの180キロの街道を走破するのに三日かかった。今ではその道もバイクで数時間の道のりである。
アレグザンドラの町の信号のない交差点からターバート・ストリートをベンディゴ・ホテルへ向けた。パブにはいくつものサッカーの賞状。スペイツはほどよく、つまりほとんど冷えていなかった。ホテルのラウンジバーには100年前の写真があった。100年前の大通り、100年前の砂金掘り。初代ホテル経営者ローレンス・カビング・ライヤン。1936127日付のCB・ソレル巡査の捜査報告書はアレグザンドラの酒類販売許可委員会あてであった。ベンティゴ・ホテルの時間外アルコール提供の容疑は濃いが、証拠が見つからない。結局告訴もできない、と報告書は結ばれていた。
6時閉店がこのあたりでは全く無視されていた時代の出来事である。
「朝食の後でビールを出したのよね」ラウンジバーの銀髪の中年女性はオリーブおばさんといった。質素なブラウスにカーディガンを羽織って、彼女は洗ったグラスをカウンターに並べていた。

その日、アレックスのユースホステルには二人のカナダ人がいた。一人はケベック、一人はバンフ出身だった。
「この国でおかしいのは」とケベックが猛烈なフランス訛りで言った。
「車がみんな反対側(ロング・ウェイ)を走ることだ。右側(ライト・ハンド・サイド)を走らないのは変だぜ」
「左側(レフト・ハンド・サイド)通行はニュージーランドだけじゃない。日本もそうだ」
とぼくが言った。
「そりや変だ。は右側を走るものだ」ケベックが言った。
「右側(ライト・ハンド・サイド)を走らないからといって、間違った側(ロング・サイド)とはいえない」バンフがからかった。
「オーストラリアだって、シンガポールだって、グレートブリテンの植民地だったところじゃ左側通行は珍しくないさ」と、バンフ。
「日本はグレートブリテンの植民地だったことはない」ぼくが言った。
「グレートブリテンの植民地じゃなかった国だって左側通行は珍しくない」と、バンフ。
「ところで、どうしてカナダ人はバックパックにカナダの国旗を縫いつけているんだい?」
バンフに尋ねた。
「誰も外国でアメリカ人に間違われたくないのさ。訛りでは分からないからな」
「ぼくの好きな歌手にカナダ出身がいる」と、ぼく。
「誰?」バンフが身を乗り出した。
「ザ・バンド、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、後は忘れた」
「ゴードン・ライトフットもそうだよ。いい歌手はみんなアメリカに行ってしまう」
「どうして?」ぼくが聞いた。
「カナダの音楽業界の力が弱いからだよ。才能があれば、アメリカでの方が有名になれるからな」
「ところで、カナダにも日系市民の収容所があったのを知っているか?」と、バンフ。
「第二次世界大戦のか?」ぼくが聞き返した。
「そう。アメリカは日系市民に謝罪した。カナダ政府は収容所があったことを認めただけで、カナダ市民にも知らない人が大勢いる。恥ずかしいことだ。だが、市民にも日系の収容所の調査を続けているグループがあるんだよ。いつか明らかになると思う」
「カナダに日系市民の収容所があったとは知らなかった。しかし、この世界に恥ずかしくならない国なんてあるだろうか?
「ニール・ヤングも変わってしまった。今じゃ、レーガンを支持している」彼がポツンと言った。

塩漬けのソーセージ

翌る日一日、アレックス周辺からクロムウェル、クィーンズタウン周辺のダート、ゴーストタウンを訪ねて回った。
アレックスからクロムウェルの途中にあるクライド・ダムは地元の住民の反対を押し切って建設が進められている。インバカーギルの南にあるオーストラリア・コマルコ、昭和電工、住友アルミ精錬のアルミ精錬所へ電気を送るためだった。すでにマナプーリにある発電所だけでは足りなくなると予想されたのだが、計画されたのは70年代。15年後、アルミの価格は落ち、日本が縮小の機会を窺っているという噂が流れていた。
クライド・ダムが完成すればクライドからラゲイト、ハウェアに至る肥沃な果樹園地帯が水没する。ダム建設はとどまることなく続けられていた。
クロムウェル北部のロウバーンのウェルカム・ホテルの壁には太いペンキの線が引かれている。ダムができるとここまで水没するという目印であった。
「俺達は自然だけでは生きていけない。ニュージーランドが豊かだったのは昔のことだ。このままでは貧乏になるばかりじゃないか。自然を残して俺達に貧しいままでいろと誰が言うんだ?」
ウェルカム・ホテルのパブで会った若いトレヴァー・スノウはクライド・ダムについて、そう言った。彼はクロムウェルの店で働いていた。その店は高台に新しくできつつある町に移っていた。休みには山を歩くと言った。しかし何が何でも自然を残せと言わんばかりの運動にはついていけない、彼によればそれは自分達は都合の豊かさを楽しんで、バック・カントリーの人間には我慢しろという都合者の身勝手だった。決めるのはそこに住む人達だ。そして、片方ではダムに反対する人達が大勢いる。
「ぼくはこの国が日本のようになってほしくないだけなんだ。この土地の富が住む人から奪われていくようにだけはなってほしくない」
「そうはならないさ。俺もそれは望まない」ぼくもそう願う。
ダムに反対する住民達もそれを懸念して反対したのではなかったか?
日本にとってこの国は小さな貿易相手国だが、この国にとっては日本が一位である。大きく関わっていて、いやなところで日本の名が出てきたりする。立場によってはいい関わり方だと思えるのだろう。
立場とは常にコインのどちらの側かで、側といっても表か裏かじゃない。平らな側か、縁のギザの側かということなのだ。

キングストンの給油所ではガソリンは駄目だという。何が駄目なんだ? 店番の男は肩をすくめた。停電なんだ。
昨夜、クィーンズタウンに降った雨の後、気温は恐ろしく下がり、夏用グラヴの指先がかじかんでいた。棟続きのカフェテラスに入って紅茶とサンドイッチを選んだ。太陽はまだ6号線の向こう、リマーカブル連山の陰、ぼくが今日走る予定にしているネーヴィス渓谷の上に照っていた。そこからアレグザンドラに戻り、マニオトト平野からデンジズ・パス・ロード、さらにハカタラメア・パス・ロードを走ればこのあたりの主だったダートはほぼカバーすることになる。
そのネービス・ロードが80キロ、それに昨夜の雨である。もし、ネーヴィスの終わり近くでフォードが増水していれば戻りの燃料はぎりぎり足りるかどうか。ぼくは腰を上げた。
駄目ならもっと南の給油所をあたってみよう。
ネーヴィスへの入り口のワイヌイ牧場の近く、ガーストンのガレージでは、奥で板金を打っていた男が出てきた。
「済まないな、停電でポンプが動かないんだ」鉛管服の脇で指のグリースをぬぐった。
「ぼくはこれからネービス・ロードを走る。もし途中で引き返すことにでもなれば燃料が足りなくなる。ぼくはこの国のバックカントリーを走りたくて日本からやってきたんだ。なんとかならないだろうか」こうなればこっちだって必死である。まず、共感を買う、駄目なら同情を引く、それが駄目なら慈悲にすがる。それが駄目から……。
「少し待ってな」共感を買わないうちから彼はあっさりと承知した。拍子抜けすることはなはだしい。ポンプのパネルを外し、ハンドル棒を小さな穴に差し込んで回しはじめた。
「ちゃんと受けてろよ」男がこちらを見上げて言った。今日の今日までこんな仕掛けがあるなんて知らなかった。
「ありがとう。なんと礼を言っていいか」3ドル45セントの表示分を払った。
「いいってことよ。いい旅をな」彼がパネルを戻すより早く、もう2台の乗用車がポンプに横付けした。
白い板切れに「ネービス川、フライ・オンリ」と書かれたワイヌイ牧場のゲートを開き、ジグザグのダートをたどって峠に立った。萱草の峠はひどく寒かった。
峠から山腹を道はゆっくりと下りている。V字渓谷の向こうに丸みを帯びた山肌がこの季節にすでに白い。ネーヴィス川はそこからは見えない。反対側、国道の向こうはこちらとは対照的に緑濃い田園と森林の山地であった。
凍える指先、痛むつま先、垂れる鼻水をこらえて谷間の道を下る。
ご存知のように寒い日のバイクはこれらが三位一体でやってくる。今まで十分暖かかったものがここに来ていきなりグッと冷えた。なんだか騙されたような気持ちである。
谷底で道はネービスに注ぐいくつもの小川を渡っていた。ひとつ、ふたつと、ゲートが現われ、20ほどのフォードを数えたときにはすっかり身体は強ばっていた。
前方のゆるやかな傾斜地に60年代型の乗用車を見つけ、道を外れてその水色のフォードに近づくと、先ほどは見えなかった小屋が眼に入った。小さな小屋にはペンキで可愛らしい模様が描かれている。
車を何枚か写真に撮った後、バイクの排気管に手をかざして煙草を吸っていると、小屋の扉が開き、テリアが鳴きながら走り寄ってきた。作業服姿の老人が犬の後をついてくる。
「こんにちは。寒いですね」
「どちらから来なすったかね?」老人が口を開いた。灰色の髪は額のずっと後へ退いていた。
「クィーンズタウンからガーストンの峠を越えて」
「どうだ、冷えただろう、お茶でも飲んでいかないかね」有難かった。
その小さな小屋には電気がなかった。

白髪のおばあさんが、四角い鋳鉄のストーブでトーストを焼いていた。部屋中にソーセージの焦げるいい香りがした。
「今、お茶を淹れるからね。ほら、もっとストーブの近くに座ったら?」
椅子をずらして腰かけると、テリアは膝の上によじのぼろうとした。
「おやあ、変だね」おばあさんが犬を見て言った。
「この子は初めての人にはなれないんだよ」おばあさんは小さかった。
「ぼくが犬みたいに臭うんだろうな」
テーブルの用意を手伝った。よく焼けたトーストとよく焦げたソーセージが並べられた。
「ソーセージ、塩漬けにしといたんだけどすこし塩辛かったかしら?」電気がないから冷蔵庫もなかった。
「おじいさん、牛乳取ってくださらない?」老人が窓際の棚に手を伸ばした。南側のその棚が部屋でいちばん冷たいところだ、と言う。
犬はぼくの足もとにうずくまって物思いにふけっていた。

「あたしはね、クロムウェルで教師をしていたの。その仕事をやめてからはネービス・ロードの金鉱の歴史を書いてたんだけど、出版社に持っていったら、分厚すぎるって。それに地元の人しか読まないだろって、地元の人っていったって三人しか住んじゃいないし。今、書き直しているところなの。昔はここも大勢の鉱夫がいたわ。それに牧場ももっとあったし。中国人の鉱夫も大勢いたわね。この土地で死んでった人も多いのよ。でも日本人はひとりも来なかったね」
「一度、子供達がここへ会いに来てくれたことがあってね。冬になると2フィートぐらい雪が積もるの。馬の背に男の子が二人乗って、サドルバッグに女の子が二人入って、一日がかりでバノックバーンから峠を越えてね。おかしかったわ、その子達の格好ったら」彼女は遠くを見つめるような眼をした。
食事が終わった。皿を片づけていると、
「そうそう、あなたカメラを持ってるわね。あたしのが壊れているのよ。分かるかしら」ケースに入ったリコーのプラスチックカメラ。ぼくのカメラの電池と交換してみたが駄目だった。
「冬の間はミルトンの息子の家にいるんだけど、ダニーデンに持っていこうかしらね」彼女は続けた。
「毎年クリスマスになると町から訪ねてくる男がいるのよ。去年も姪がいるときに来たわ。ぐでんぐでんに酔っ払ってね。写真を撮れってきかないのよ。で、カメラが壊れてるって言ったらかんかんに怒ってナイフを手にしたのよ。ナイフを振り回して、姪はストーブの陰に隠れて」彼女はその恐ろしい話を続けた。
「姪はそのストーブの陰に隠れて震えていたわ。あたしはなんとかなだめようとした。次のクリスマスにはきっと修理しとくからって。きっとだぞって言ったわ。それでやっとナイフを預かって。姪は泣きやまなかったしね。今度のクリスマスまでに直しとかないとなにするか分からないでしょ。いいわ、ダニーデンに持っていく」
「去年の冬に主人が見つけた砂金はね、きれいな涙の粒みたいな形だったの。1インチほどもあって。鎖を付けたんだけどあたしには大きすぎるから娘のところに預けてあるわ」
彼女は金箔を貼ったノートを持ち出してきた。
「息子がずっと昔にくれたのよ」
そのノートにはこの道を通りがかった旅行者のメッセージと名前が記してあり、日本人の名は見つからなかった。
「おや、英語が書けるんだね」彼女はぼくの手元をのぞき込んで言った。
二人はマクリーン夫妻と、名乗った。
ぼくは暇ごいをした。彼らは写真を撮ることを許してくれた。そればかりか、彼が砂金を採っている現場に案内してくれる、と言うのだった。
三枚ばかり撮ってカメラをしまうと、おばあさんはおじいさんの腕をとり、そっと凭れかかった。その仕草にぼくは驚いたが、どうにか狼狽をうまく隠すことはできた。
カメラをしまったことが残念だったが、それでよかったのかもしれない。どれだけのものを彼らが与えてくれたとしても他人が侵すべきでない領分というものがある。
「これからどこへ行くの?」彼女が尋ねた。
「まだしばらく走って日本に帰ります。でも、この道を再び通るときは必ずこのドアを叩きますから」
「そうよ、必ず寄りなさいね」
おばあさんは戸口に立っていつまでも手を振っていた。バイクが道を曲がり、見えなくなるまで。
老人の車の後について走った。石造りの廃屋があり、栗石の積もる崖に向かってノズルが空を見上げていた。
「このずっと上に溜め池を造ってあるんだ。そこからこのパイプで水を引いてきて、崩れた土砂をこのリッフルで受けると砂金だけが樋に残るんだよ」老人は実際に水を出してみせてくれた。眼を近づけてみたが、砂金は見つからなかった。
道に出たところで老人の車は引き返していった。

ぼくは北のダフィーズ・サドルからクロムウェルを目指し、再びいくつかのフォードとゲートを越えた。
最初の下りにさしかかった位置から青紫に浮かぶダンスタン山脈とピサ連山の雄大な山地に挟まれた緑の沃野は息をのむばかりの光景だった。
南の峠から数十キロ隔てるだけでダフィーズ・サドルは真夏の気温である。
バイクを停めて振り返れば、もうネービスの谷間は見えず、片岩の露頭がいくつもいくつも影を落として&