ハースト峠
Haast Pass
汝、タニファの餌食とならん
サムナー湖での鹿狩りから戻ってしばらくクライストチャーチにいた。その間にフェリーミード交通博物館へ出かけ、復元したばかりのブリズベンの市電に乗った。
クリス・ウィリアムズに電話してブロンズの予定を聞いた。大晦日には西海岸のブラックボールでみんな集まって大騒ぎするからどうだ。「行く」と答えた。
……フランスは、ニュージーランドがレインボウ・ウォリアーズ爆破犯人を国内で裁判する報復として子羊の脳の缶詰の輸入をキャンセルした。
……日本でもキウィ・ワインを造るらしい、とコラム。キウィ・ワインはニュージーランドの数少ない発明品のひとつである。相変わらずの日本の真似ぶりだと論評していた。
「キウィ・ワインくらいニュージーランドに残しておけばいいのに」と、ぼく。
「日本は他人が成功すると何でも自分でやりだすんだな」とロッドが呆れた。
再び旅の支度を始めた。
これがいつも大変なのである。バイク旅行に具合のいいパックがなかなか見つからない。
バイクに積んでしっかりしていて、担ぎやすくて、荷物の出し入れがしやすくて、丈夫で、そこそこ耐水性があって、見た目がよくて、安ければそれ以上なんの贅沢も言わない。友達に言わせると、それ以上の賛沢はないらしい。
結局、条件に合うものはないことが分かってからは山登り用の安物のバックパックを使っている。絶対なければ困るというものはそんなにないのである。けれど、なければないで済むものもあるばかりに気になるというのが旅の荷物の常なのだ。
西海岸を南へ下った。ホキティカ、ロス、ハリハリと過ぎた。
オカリト国有林の三叉路から標識に従って森の道を走ればオカリトである。10キロの砂利道を走り、林が途切れたところからオカリト・ラグーンが草地の向こうに眺められる。国道を外れてからここまで1台の車にも出会わなかった。潟に架かった小さな橋を渡って、大通りは左折している。
ドノバンの店は閉まっている。大通りに人の姿はない。数えられる程度の人家と空き地が交互している。右手の褐色のオベリスクの向かいにクリーム色の垣根に囲まれたクリーム色の小さな家。垣根の内側にフラックスの株が葉を繁らせていた。
垣根に凭れて自転車が停まっている。なんだか日本人のサイクリストのものであるような気がした。
赤と黒の三角板にYHAの文字の入ったドアを押して入った。
テーブルで本を読んでいた若い日本人の男が顔を上げた。窓際のベッドにはバックパックと衣類と寝袋が山になっていた。山がもぞもぞと動き、若い女が顔を出した。男はヒロシと名乗り、女はカレンといった。カレンは、
「コンニチハ」と言った。日本語であった。オークランド大学で日本語を専攻しているのだという。
「ぼくはケンジ、ケンジ・タナカ」
「カレン・フィッシュ・オシェイ」
「アイリッシュ?」
「少しアイリッシュ、少しイングリッシュ。少しマオリ。名前はアイリッシュだけど、心はマオリ」
「フィッシュは本名?」と、ぼく。
「本当はメアリー。嫌いだからフィッシュにしたの」
浩はここに2目で、カレンは4日目。オカリトはひとをぐうたらにする、と言う。三角点の展望台へ歩いた帰り道に釘を踏み抜いて歩けなくなったらしい。
「破傷風は心配ないのか? 友達はそれで死んだ」外傷からの細菌性の病気。下手すると顎が強張り、呼吸神経が麻痺して窒息死する。
「ああ、ロック・ジョウね。あたしの友達がそれで死んでからは予防注射をしているの」
カレンは寝袋から下着だけの姿で抜け出して、その格好で歩き回った。
浩は、管理人のボブは漁に出ているから、家にはいないだろうと言った。北西に面した窓の下に一段のベッドがふたつ、反対側の壁に二段ベッドが棚になっている。汚れたテーブルと汚れてばねの飛び出したソファが部屋の中央を占めていた。玄関側の窓の下に沿った長机に煤だらけのビリー、スプーン、フォーク、ナイフがまとめられていた。短くなった蟻燭も放り込んであった。天井からは、糸につないだ貝殻や流木やなんだか分からない動物の顎の骨のモビールが人の気配に合わせて回っていた。
浩が煙草をねだった。残り少ない。
「バイクでフランツ・ジョセフまで行ってこようか?」
「そこまでするほどじゃないよ」と浩が言った。
「いや、ぼくが欲しい」
バッグから食料とキヤンピングストーブ、食器を取り出して料理を始めていると、カレンが見ている。ぼくの顔に見とれているわけでもない。
水は裏の天水桶から蛇口で受けた。
「オー、ファンタステイーク」カレンはドイツ訛りでそう叫んで、浩と笑い転げた。
「日本人はなんでも持って走るの?」カレンが続けた。
どうも、浩も同様らしい。
確かにこの土地で出会った外国人のライダーやサイクリストは荷物が少ない。荷物の量で日本人と分かるといわれるほどである。
黒パンにピーナツ・バターを山盛り塗っていると、またもやカレンが、
「これは、ETAのハニー・ピーナツ・バター? ヤック(オエッ)! よくこんなものが食べられるわね」ピーナツ・バターの甘いのは邪道らしい。
「おいしいのはサニタリウムのピーナツ・バター。サニタリウムのピーナツ・バターには、スムーズとクランチーとあって、スムーズのハニー入りと、スムーズのハニーなしとあって、クランチーはハニーなし。クランチーの方がおいしくて、アメリカのピーナツ・バターは最低。ヤック!」ヤック、ヤック、ヤケティヤック。うるさい女だ。
カレンに黒パンを勧めた。
「ター(アンガト)」彼女はハニー入りのETAのピーナツ・バターを避けて、バターを選んだ。
日本じゃバターは、1ポンドが7ドルすると言うと、驚いていた。
「じゃ、パンには何を塗るの?」
「マーガリン、安いから」
「ニュージーランドじゃマーガリンの方が高いけど金持ちは健康に気を使ってマーガリンを使うわ」
「日本では金持ちがバターを使う。貧乏人はマーガリンを使う。健康に気を使う金持ちがどちらを選ぶかは知らない。健康に気を使う貧乏人は確実にマーガリンを使う」
「バカニホンジン」日本語だった。
ぼくは「バカ」の同義語を10ばかり、英語訳をつけて教えてやった。
英語という言語は驚くほど「罵り語」の豊かな言葉である。それでも歳月と共に罵り具合が薄れるのでイングランドの国語審議会では新しい「罵り語」を考案しなければならない、と噂に聞いた。保証はしない。
しかも英語の構造としてたいがいの単語の頭にその罵り語をつけることができる。例えば、彼らの会話を直訳するとこんな具合である。
「俺と俺のダチ公とそいつのおまんこなXエイトで血塗れの大きい煙にしょんべんしてよ、血塗れのへべれけでしょんべんしてたらよ、おまんこなおんどりが来てよ、俺達におまんこにチーズするんで、燃えるイエス様、そいつのおまんこな肛門を蹴り入れてやったぜ」
日本語だとせいぜい以下の通りである。
「俺よお、ダチの外車、東京まで走らせてよお、バーで気分よくやってるところへヒヤクショーが釆てごちゃごちゃ言うから、このヤローつて、けつっべた蹴飛ばしてやったぜ」
日本語のなんと美しいことか。
「オチコボレニホンジン」またもやカレン。
「えっ、どうして知ってるの?」考えてみれば、彼女が日本でのぼくの評判を知っているわけがなかった。
日が暮れると、部屋は薄暗く、また寒くなった。燃え残りの蝋燭をテーブルに立て、暖炉にも流木を投げ込んだ。乾いた流木はよく燃え、蝋燭よりも暖かく部屋を照らした。モビールの影が天井に揺らめいていた。ぼくと浩はしけもくを根元まで吸う。
こういういやしいことをすると金のなかった昔を思い出す。
会話の間もファンタステイークを繰り返して、カレンが浩と笑い転げる。
昨日、ここにはアメリカ人とオーストラリア人とドイツ人が泊まった。そのドイツ人がアルフレッドという名で、なにかというと、
「ファンタステイーク」を連発した。
「アルフレッドと浩が言い争ってね。アルフレッドは、ニュージーランドには文化がないと言ったの。浩はしばらく考え込んでいたわ」
「ある。ニュージーランドにも文化がある」と、浩。
「なんだ?」アルフレッドが尋ねた。
「ベジマイト!」ベジマイトは野菜のエキスで造ったチョコレート・ペーストのように見えるが味はほど遠い代物で、苦く、塩辛い。パンに薄く塗って食べる。薄く塗るのは、厚く塗ると食べられないからである。
考え込んだのは、アルフレッドだった。そのときカレンが横から口を出した。
「ベジマイトはオーストラリア産よ」
浩が考え込んだ。
「マーマイトがある」 マーマイトはベジマイトにそっくりだがイーストのエキスだと言われている。
「それはイギリス産」 カレンが言った。
ニュージーランドの文化について浩の思いつくものは他になかった。
暖炉の脇の壁にオカリトの手描き地図が貼ってある。
水泳場と、流砂と潮流の速い区域が記入してある。
マッスル(イガイ)とコックル(トリガイ)の採れる浜もある。地図の余白に、
「マッスルとコックルの殻はラグーンに捨てるべし、さもなくば、汝、タニファの餌食とならん」
カレンが、タニファはマオリの民話に出てくる、水に住む怪物だと教えてくれた。
「授業で教わったんだけれど、昔の日本政府がキリスト教徒を死刑にしたんだって?」
「封建時代の話か?」
「そう、だからあたしはね、日本がやったただひとつのよい行ないだと思うのよね」
彼女にとってはキリスト教は侵略者のヨーロッパ人がマオリの文化を破壊し、屈服させるための精神的な道具だった。
彼女も白人がニュージーランドから出て行くことを望んでいるわけではなかった。ただ、白人は自分達の文明が唯一絶対のもので、マオリ文明を正しい文明から外れたものとして考えている、とカレンは言った。
土地私有の観念を持たないマオリは村の外れに共同で彼らがクマラと呼ぶ甘藷を栽培した。
彼らにとって土地とは使うものであった。ヨーロッパ人はこの島国に土地私有を持ち込み、マオリから土地を奪っていった、マオリ文明から見れば、使いもしない土地を持ち、他人を暴力で追い払うのは不自然で異常な行ないだった。パケハ(白人)はそれを理解できない。
カレンはそう言った。
マオリの食人の習慣、と言われるものもマオリを貶めるためにパケハがでっち上げたのだ、と言う。
「食人の習慣があったのにそれを否定するとすれば、それこそパケハ文明への屈服ではないか? マオリの掟では敵の勇士の死体の肉を食べることが正しかった、と言えばいい」
「絶対にそんなことはなかった」と彼女は主張した。
いずれにしろ、ぼくにはそれ以上の判断をするだけの裏付けがなかった。
小便のために表に出た。月はなく、恐ろしいばかりの数の星が輝き、暗がりにかすかに草の露がきらめいた。
蟻燭を吹き消し、暗闇の中で寝袋に身体を押し込み、明け方、大通りを行く羊の群れの声で眠が覚めるまでよく眠った。
朝、ボブ・ミネハンがトラックにカレンを乗せて国道まで送っていき、ぼくは紅茶をもう一杯、浩と飲んでから出かけた。彼とはクライストチャーチで会う約束をした。
国道6号線の三叉路で、カレンがまだバスを待っていた。ほどなくやってきたバスの荷物室に彼女の荷物を投げ込んだ。
カレンはぼくのノートにオークランドの電話番号を書き残し、バスは北へ、バイクは南を目指した。
R・I・P(安らかに眠る)
いくつかの丘陵を過ぎて、国道はマタケタケ連山からの数多くのクリークと、ハースト川、アラワタ川が形成した西海岸最南端の平野に下っていった。真新しい橋がハースト川を渡っている。左岸で折れ、まっすぐに広い道を行けばハースト峠を越えてレーク・カントリー。海に沿って南下すればハーストからアラワタ川を渡ってジヤクスン湾への道。この三叉路のペトロール・ステーションはハースト峠越えの最後の燃料補給所である。あとは、マカロラまでの100キロにひとつの人家さえない。
店番の若い男に、
「レギュラー」と頼んで店に入った。
冷たいミートパイがケースに並んでいて、カウンターの後にはマイクロウェーブ・オーブンがあった。先客と話し込んでいる女に注文した。
「ミートパイひとつ、温めてくれ」
バイクを敷地の隅に寄せ、シートの上で熱い脂のしみた紙袋を破った。ミートパイは悪くなかったばかりか、冷たい潮風を受けて強ばった身体に温もりを与えてくれた。
先ほどの先客が同じくミートパイの紙包みを持って、停めてあったキャンパー・バンに乗り込み、そのままハースト峠の方向へ走り去った。
脂のしみた紙をまるめてポケットに突っ込み、どちらへ行こうかと考えた。ジヤクスン湾とハースト峠。結局キャンパー・バンの去った方角、ハースト峠に向かうことにした。
風が西から、背後から吹きはじめていたし、それは西海岸に雨を運んでくる前兆だった。
日本の山道を思い出させるウェストランドの鬱蒼とした森のダート道はゆっくりと上り下りしつつ、やがてハースト川と分かれる。
ほとんど気づかないほどなだらかな峠に石碑がある。「ハースト峠、563メートル」
石碑の真ん中から東がオタゴ、西がウェストランド。
森が疎らな林に変わり、やがてそれも途切れると明るい谷間に出る。それにつれて光も匂いも変わる。見上げればくしゃみの出そうな眩しさである。
国道とは名ばかりの、交通の疎らな砂利道を走ると心が浮き立つ。車輪が砂利を拾って細かく揺れるのさえ気持ちがいい。振り返れば森がぼくの走り抜けた谷間を覆っていた。
道端の草地に足を置くと軟らかく沈む泥炭地である。ところどころに水が淀み、湿地にマカロラ川がのったりと流れていた。
川が道から離れて次第に高度を下げ、コーナーを重ねるごとに渓谷の底に真っ青な水を湛えるワナカ湖が姿を現わしはじめ、荒々しい岩のハリス山脈の影を映していた。
クルーサ川はここからサウスランドの町、バルクルーサのすぐ南で太平洋に注ぐまで二百数十キロを流れる。マカロラ川を含めると322キロ。南島最長、全国でもワイカトに続く長さである。その豊かな水量のためにクルーサ川はいくつものダムによってずたずたにされてしまった。ハウェア、ロクスバーグダムが稼働し、さらに、クライド、ラゲイト、クイーンズベリが予定されているか、建設中である。
バイクはスーパーマーケット横の坂道を下って、俄造りのようなたたずまいのワナカの町に入っていった。
たいして広くもない谷間をカードローナ川に沿って遡る砂利道の89号線から見る山肌はタソックと牧草に覆われ、近くからは若草色に明るく、遠眼には青紫から赤紫へのさまざまの階調を帯びている。
ワナカから28キロの砂利道を走ると、突然現われる丘陵の麓の広場にスキー場の看板と小屋とが人の姿もない夏空の下で乾いている。牧場のトラックが走り過ぎた後に、砂埃がスキー場の入り口の小さな墓地に降り積もる。鋳鉄柵いっぱいに大きな樹が茂り、その根方には樹の成長にしたがって追いつめられたいくつかの墓石がかしいでいた。
そのつい先に扉を開いているホテル・カードローナは、1870年に建てられ、1961年にホテル・ライセンスを失った、今にも崩れそうなレストランである。1862年に近くで砂金が発見された。最盛期には六つのホテルが立ち並び、600人の中国人鉱夫がいたカードローナの町も建物はこれひとつになった。
卵黄色の板壁の「ホテル・カードローナ」の文字が剥げ落ち、その下からかすかに「カードローナ・ホテル」の文字が読める。路肩に立てかけた黒板にレストランのメニューがチョークで手書きされている。開いている扉を入ると、若い女が朝の支度に忙しかった。
「このホテルは昔のままなのか?」
「そうよ。ずっとここにあったわ」娘はテーブルの花挿しを少し動かし、首をかしげて元の位置に戻した。
「なぜ、名前を書き換えたのだろう?」
「さあ、あたしが働きはじめたときからこの名前だったけど」
たいして興味を持ってなさそうだった。
ニュージーランドではダート道を走るのが旅の目的のひとつだった。舗装率が50パーセントに満たないこの国にはいくつもの長大なダートが森林、牧場、とりわけ山岳高地牧場、ゴールドラッシュの遺跡に沿って延びている。カードローナのゴールドラッシュ・トレイルをたどる89号線もそうだった。
できれば人のあまり行かない所を走りたかった。人嫌いというわけではない。ただ同じところに出かけ、同じ思い出話に相槌を打ち合うのはあまりにもわびしい。
大通りに面したみやげ物屋では羊の一枚物の毛皮を何百ドルかで売る。裏側の道を走ればそこには羊一頭が14ドルにしかならない世界がある。
牧場は羊を育てることで金を失っていた。その産業構造が時代の動きに追いつけなくなったことは誰もが知っていたが、それに代わるものはまだ見つけられず、人々は疲れていた。
それら多くのダート道が通過する、無視され忘れられてきた土地はそうであるために自然が奔放に振る舞う。
不毛の地と見ようと豊かな自然と見ようとどっちみち感傷である。感傷は旅人の特権である。特権を利用しよう。
ところで、大学に籍があった頃、その大学のある町は観光地で若い娘達がガイドブックを手に通りを行き来していた。町中の橋に立てば西も東も彼女達の憧れるような風景であったが、金のない友人達とぼくは夕飯代とかジャズ喫茶のコーヒー代をどう工面するかで考え込み、風景では腹は膨れない、と開き直っていたものだ。ばかばかしいことなのだが、ひとはたいていそんなふうにして人生の一時期を過ごすものらしい。あれ以来、風景とか自然とかの言葉に素直になれなくなった。
89号線のクラウン・サドルは海抜1120メートル、国道ではニュージーランドで最高地点。ワナカ湖が277メートルであるから850メートル登ったことになる。
いつも靄のかかったような日本の空と違い、ニュージーランドの空は雲の一つ一つがくっきりと空に漂っている。雨が降るときでさえ、鮮やかに輪郭を描いた雨雲が走ってき、そのままくっきりと去っていく。すっきりしていて気持ちがいい。
遠くワカティプ湖の向こう側アイヤ山脈の上にかかる雲を除いては天頂の群青から地平線の水色に至るまでひとつのしみもない。リマーカブル連山とクイーンズタウン丘の間からわずかにクイーンズタウンの町が覗いている。その手前にはアロー盆地の沃野が緑をたたえている。クラウン・サドルからのクィーンズタウンはクィーンズタウンそのものに立って見るよりもはるかにきれいだった。
丘の下からミツビシ・トラックがあえぎあえぎ登ってくる。ドライバーはこちらに手を軽く挙げるとギアを一つ上げてコーナーを回っていった。後を追うように長い長い砂埃も坂道を登ってきた。砂埃は髪にも上衣にも積もり、唇を舐めるとざらざらした。
風が木立ちを縫ってアロータウンを吹き過ぎていった。プラタナスの葉陰でベンチにかがんで本を読んでいる旅行者や芝生で寝そべるヒッチハイカーがだだっぴろいドメイン(公園)を占領していた。
センテニアルアベニューからバッキンガムストリートへと入る。その通りと酒落た名のアローレーンは西部劇の舞台のような1860年代の建物を保存している。当時の銀行や監獄が博物館として残っていて、その並びにみやげ物屋、スーパーマーケットが賑わっている。
アロータウンの640人の町民は繁華街を取り巻く閑静な住宅地に生活している。
バッキンガムストリートで日本人の新婚旅行客が記念写真を撮っていた。
「撮りましょうか?」カメラを構えた男に近寄って言った。
「あ、いえ、結構です」男は一瞬カメラを手でかばい、あわてて言った。
この国に住んで長い日本人の言葉を思い出す。
「この土地にいる日本人にも階層があって、いちばん上が外務省の役人。次が日本企業の社員。この二つはオークランドやウェリントンの高級住宅街あたりにかたまって住んでいて、ニュージーランド自体を見下している。それから、この国に住み着いた普通の人。次が金をはたいた観光客、彼らは一日2万円ばらまく。馬鹿にされているけどお金を使うからそれなりの扱いを受ける。いちばん下が一人ものの貧乏旅行者。これはもうほとんど人扱いされないわね」
ウーム、そういうことか。
アロータウンからクィンーズタウンの途中でスキッパーズ・サドルを越える長い渓谷のダート道を走る。道の入り口のスキッパーズ・サドルの看板によれば、この道は「エーヴィス、ハーツのレンタカーの保険はカバーしていない」そうである。ほぼ垂直な崖の下100メートルにショットオーバー川が飛沫を上げていて、道はやがて吊り橋でその流れを跨ぐ。
十数キロの道は吊り橋の先で空き地に出る。空き地の上の緩やかな傾斜地のリムの木立ちの奥にスキッパーズ墓地の赤錆びた鋳鉄柵が死者の眠りを守っている。赤紫の花が咲き、スィート・ブライヤが一本寄り添う墓石には、
「1885年5月13日、フェニックス鉱山の事故で死んだジョンとジェームズ・ミッチェルの思い出のために」の墓碑銘が彫られている。ジョンはそのとき46歳。ジェームズは15歳であった。大理石の砲弾形の石板は長い間の雨に涙のようなしみが垂れている。
もう一つの墓石は一平方メートルばかりのテーブルにマックニコルの名がコンクリートに埋め込んだ小石で書かれ、中央に同じ小石でぶっちがいのつるはしが描かれている。墓碑銘には、1928年4月3日に74歳で死んだコリン・マックニコルと、1918年8月31日に44歳で死んだ、マックニコルの妻、ミニョネット・フロリンべの名が書かれている。この二十歳違いのケルト人とフランス人の夫婦はどんな人生を送ったのだろう。この土地の鉱山が閉鎖されたのは1907年、男が53歳、女が33歳のときである。
さらに小さな大理石板の墓石が草叢に傾いていた。眼を惹くのは墓碑の漢字である。
「HOY YOW」のアルファベットの下に「増邑」。その下に縦書きで「沙村海有○(曜の旁)公之墓」とあった。仲間の手で故郷に葬られようとしながらついに果たせなかった中国人鉱夫の墓である。
戻り道の外れにスキッパーズのゴーストタウンが草に埋もれている。数軒の石造り、木の壁、波鉄板の屋根はそんなに古くない。
アーサーズ・ポイントでショットオーバー川を渡るゴージロードに乗ってクィーンズタウンに入ると、田園地帯から新しいガレージ、商業地区の雑然とした町並みを経て、いきなり別荘地の町である。
ロッドとドクター・サリーとでミルフォード・トラックへの途中に立ち寄ったクィーンズタウンは相変わらず美しい町であった。町並みがなかったとしても、ワカティプの湖水に映るアイヤ山脈の鋸歯に似た山巓やリマーカブル連山のU字の山壁が南へ延びる様は十分美しい。かつては旅行好きのニュージーランド人が休暇を過ごすために押し寄せた町、今ではニュージーランド人達の所得水準も昔ほど高くなく、外国からの観光客で占領される町。
観光客はこの町に来て観光客向けの施設と観光客向けの商店でこの町の美しさを楽しむことができる。少し自由になる金があれば蒸気船「アーンズロー」で湖上からの風景を楽しめる。ポモガル・スキー・ゴンドラで400メートルばかりのボブズ・ピークに上がればシャレー・レストランでバイキング・スタイルのスモガスボードを味わうことができる。そこからの鳥瞰を楽しむことができる。食べ馴れた料理が欲しければ中華料理店もある。うんと金があればここに別荘を持つこともできる。金がなくとも歩き回ることができる。沢山の観光客の眺めを楽しむことができる。
暇であればバスから降りてくる20組の若い日本人の新婚旅行団体客を見ることもできる。
その多くがペアルックの少年少女に見える。ほとんどが肩を落とし前かがみで身体を不安定に揺らして歩き、疲れきったうつ向き加減の表情で、この世に楽しいことなんか何もない、といいたげである。その様は奇妙な病人の群れである。
何度かニュージーランド人にからかわれた。
「日本人は15、6で結婚するのかと思ってたけど、あのハネムーナー達、みんな、二十歳は過ぎてるんだってな」彼らは続ける。
「新婦旅行ってふたりきりになりたいものじゃないのかね? それに彼らはとてもハネムーナーには見えない。みんなどこか具合が悪いみたいだ」
「そりやそうさ、人生の墓場に足を突っ込んで、これからの生活を考えると暗澹とした気分になっても不思議じゃない」と、ぼく。
日本の雑踏にいて気づかないことをここで気づかされる。
クィーンズタウンの町はいい町である。
ゴンドラ駅への道の脇にクィーンズタウン墓地の道がある。
墓碑がいくつも立ち並ぶ。死者の名と家族の思いが刻まれている。多くはR・I・P(安らかに眠る)とある。
――ウォルターピータ牧場のヒユー・マッケンジーの愛されし息子、
ウィリアムの愛しい思い出のために。彼は1908年8月…日の昼頃、
彼の家の見えるところで雪崩に巻き込まれて命を落とした。
21歳と3か月であった。
そして、1915年8月9日、カリポリの作戦で死んだオタゴ歩兵大隊
ウォルター・マッケンジー中尉の聖なる思い出のために。
彼は敵に顔を向けて死んだ。
「おお、消え失せる手の感触のために、静かなる声の響きのために」
ヒュー・マッケンジー
1847年10月18日、スコットランド、アードモアに生まれ、
1933年5月6日死去。
偉大な男の死ぬとき……
その後の文字はかすれて読み取れなかった。
ヒューの妻、フローラが死んだのが1947年12月17日。88歳。
大きな大理石の墓石に家族の歴史が彫られている。翼を畳んだ嘆きの天使が墓石に凭れ、涙を流している。墓碑銘はなによりも生き残った者達のためであった。
セメトリーロードを戻った。ゴンドラから降りてくる人々で賑わっている。夏の、暑くも寒くもない澄んだ風が湖水を吹き渡っていった。
Back | Next