サムナー森林公園
Lake Sumner Forest Park
レイク・サムナー
土曜日の朝早く、富裕地区フェンダルトンはホワイトバーン・テラスの路肩にバイクを停めた。すでにイアンと息子のジャスティンが店名入りのホールデン・トラックにXL100Sを積み込んでいる。2台のバイクをタイダウンで結び合わせ、準備が終わると紅茶が出た。ホルズウェルで飲んできたばかりであるが、紅茶を何杯も飲むのは苦痛ではない。イアン・ホワイティングの奥さんは相変わらずにこやかで、ハドソンのジンジャー・ビスケットを添えてくれた。
朝っぱらからそこかしこで芝刈機が騒がしいフェンダルトンの通りを抜け、北行バイパスに入った。荷物を足元に移し、脚の間に挟んだ長い皮袋の尖った先から顔をそらせた。弾丸が入っていないとはいえ、銃口の前に顔をさらすのは気分のいいものではない。
国道l号線は午前の光の中にあったがグレイ山からオクク連山には雲がかかっている。
ジャスティンは、「西風は必ず晴れる」と、断言した。
吹き込む風の中で紙巻きタバコのドラムの葉が紙からこぼれて散ってしまう。ジャスティンはポケットから葉を詰めたコーンパイプを取り出し、口にくわえた。
「いつも紙を巻くのか? ぼくは、山に行くときはパイプだ。紙巻よりは健康にいい。それに吸い殻を出さない」ジャスティンは一口吸ったパイプをダッシュボードの灰皿に置いた。
背後でバイクがきしんだ。
「その鼻はどうしたんだ?」とジャスティン。
「タッドマー・サドルで蜜蜂に刺されたんだ」この間のがまだ腫れたままである。
「痛むか?」
「全然。それどころか痒(かゆ)くてたまらない」
「よくなってきているんだ」
ワイパラの交差点で左折し、国道7号線に入ってすぐに横切るクライストチャーチとピクトンを結ぶ鉄道の踏切は開いていた。
ホールデンは軽くスピードを落として踏切を渡った。
「夜10時より朝7時まで、ベルは鳴りません」
斜めの十字の縞模様の下にそう書かれている。
「鹿狩りはよくするのか?」
車はワイパラの町外れのパブホテルの前で折れ、萱草の丘陵を駆けた。
「昔はよく出かけたものだ。最近は暇がとれなくて」
周囲の丘の上に滑らかに浸食された灰色の石灰岩がドルメンに似た姿をさらしていた。ウェカ・クリークの対岸の線路が、狭まっていく谷に沿って、こちらに次第に近づいてきた。
サンドハースト、ブッチャーズ・キャスルの牧場の家々が木立ちの向こうに、しっとりとした雰囲気を漂わせている。ウェカ峠を越える道は草地に伸び立つ石灰岩の柱が虫歯のようなウロを開き、マオリ壁画の案内標識があった。
「ウェカがいるのかどうか知らない。だけど、このあたりの湿地では今でもモアの骨が見つかるんだ。何百年か前に絶滅してしまった烏だ。生き残っていれば世界最大の鳥なんだが。モアハンターが狩り尽くしてしまったと信じられているけれど、モアハンターについてはよく分かってない。高さ3メートルのモアとキウィの骨の数が同じだなんて信じられるかい?」
車は石灰岩の丘を巻くと、さびれた石灰工場の前を過ぎた。広場の窯もトタン張りの本屋も錆びついて、何年も使われていないようである。そこからは坂道を下ってワイキリの町に入る。ワイキリはカフェテリア、ガレージ、ヘアドレッサー、金物屋、その向かいにパブホテルがあり、それきりの町である。ガレージの裏手には公衆便所が庭草の奥にひっそりと建っていた。パブホテルの前に数台の黒塗りのバイクと黒の皮ジャンパーのライダーが日差しの中に休んでいる。艶消しの黒ヘルメットをバイクのキャリアに載せ、ジャンパーの背中はペイントしてある。風が砂埃を吹き上げて過ぎた。
カフェテリアはみやげ物屋を兼業していたが、みやげ物にはワイキリのものなど何もなかった。すべてがニュージーランドのどこにでもある変わりばえのしないものばかりであった。
ミートパイと紅茶の載った盆を前にして、ジャスティンが言った。
「日本にもバイキーズはいるかい?」
「ああ、日本じゃ、ボーソーゾクと呼ばれている」
「ボーソーゾク? どういう意味なんだ?」
「それはつまり、暴力的なスタンピードするライダー達という意味だ」
「バイキーズと違いはあるかい?」と、ジャスティン。
「鉢巻をする、薄着、痩せている、ジャンダル履き、大爆音、スピードは音の割りには遅い」
と、ぼく。
「随分、危険なんだな」と、ジャスティン。その言い方もおかしいのだが。
「日本では昔からつまらないところで命を危険にさらすのが男らしいと思われてきた」と、ぼく。
「ニンジャもそうか?」 これはアメリカのテレビ映画の影響である。
「ニンジャはもっと合理的なエージェント達だからそんな馬鹿なことはしない」この後、ニンジャについての蘊蓄を、役の行者から百地三太夫、伊賀流、甲賀流の分裂、土遁の術から風太郎忍者の忍法筒枯らしまで披露した。あれを全部憶えていればジャスティンはニュージーランド一のニンジャ・スペシャリストに違いない。
砂に埋もれた線路を渡って、町中の交差点で左に折れた。古い住宅街の間にRSAの建物と、戦争記念博物館が扉を閉ざし、住宅の敷地に羊が草を噛んでいる。その先の奥まったあたりにワイキリ駅が朽ちはじめていた。
ハウォーデンの村を過ぎると、後は時折の林以外には何もない放牧地が広がるばかりだ。
「日本人は紙の壁の家に住んでいるって本当か?」 ジャスティンが突然話しかけてきた。
「その通りだ」と、ぼく。
「床は草のマットだって本当か?」
「その通りだ」
「生の魚を食べるって本当か?」
「その通りだ」
「生の魚を紙のように薄く切って食べるって本当か?」
「その通りだ」
「薄く切った魚を米に巻いて食べるって本当か?」
「その通りだ」
「それを紙のような海藻に包んで食べるって本当か?」
「その通りだ。魚は食べないのか?」と、ぼく。
「食べるがディープフライがほとんどだな」ジャスティンが言った。
「あれも悪くない。だが、日本には千一通りの魚料理がある」
「じゃ、魚は肉より安いのか?」と、彼。
「それは答えるのが難しい。もう昔ほどは安くなくなった。日本ではいいクレイフィッシュ(伊勢海老)は100ドルする。レッド・スナッパー(鯛)は50ドルする」
「レッド・スナッパーが? あんな安物の魚が? 日本人はほんとに分からないな。クレイフィッシュだって15ドル出せば買える」
道はいつのまにかダートに入っていた。車はときどき大きくかしぎ、そのたびに荷台のバイクがきしみをたてる。ジャスティンがブレーキを踏んだ。車は砂利を噛み損ねて流れ、止まった。背後に巻き上がった砂煙がホールデンを包んだ。砂煙は開けた窓から遠慮なく入り込み、髪や上衣に積もった。
「バイクを締め直そう」ジャスティンが言った。
道端には苔の生えたような電柱が山側に細々と続いている。苔と見えたのは薄い緑のペンキであった。中にはひね曲がった電柱もあった。多分立木のまま持ってきたのに違いない。
小尾根をいくつも過ぎた。行く手の薄紫の稜線には相変わらず雪がかかっていて、真っ白に輝く雲は薄く、その上に青空が覗けた。
「相変わらず雲が多い」
「大丈夫、今は低気圧が通り過ぎたところだ。西風の間はこちら側には雨は降らない。明日も晴れるさ」
尾根をぐるっと回ったところで車は急ブレーキを踏んだ。羊の群れが道を塞いでいた。羊の群れは尻をこちらに向けてトコトコと走り出し、車はその後をゆっくりと走った。群れは両側の牧草地には眼もくれず、前方をどこまでも走った。
「羊はこの国を支えているんだ。車で追う方は楽だが、彼らは逃げるのに必死だ。彼らにとってはかなりのエネルギーを費やしてしまう。そのために死ぬことだってある。だから追い回しちゃいけない。ゆっくりと走って逃がしてやるのがいちばんいい」
「鹿はどうだ?」と、ぼく。
「なかなかいいよ」
「一頭を全部食べるのか? 頭も?」
「そう、解体してディープ・フリーザーに入れておくから何か月かは保つよ。ヴェニソン・ステーキはいい。頭は骨だけにして飾る」
「ヴェニソンは肉屋に売ってないだろう」
「ああ、自分で獲るか、レストランに行くしかないな。ドイツや日本にも輸出しているはずだよ」彼はサングラス越しにこちらを振り返った。
「他にはどんな料理があるんだ?」
「ニュージーランドには千一通りの肉料理があるんだ」
「それは本当らしく聞こえないな。ヨーロッパにはあるかもしれないが、船で渡ってくるときにいくつかは海中に落としたに違いない」
「それでも九〇〇ぐらいはあるさ」
「侵入者は処罰、犬は射殺される」
「私有地。立入禁止」
牧場の柵に不気味な札が下がっていた。
「犬は羊を脅かすし病気を持ち込む。牧場は犬の持ち込みを嫌うんだ」
ジャスティンが言った。
「羊のことに詳しいんだな」
「ぼくはリンカーン・カレッジでウールの研究をしたんだ」ジャスティンが照れたように言った。
「それを活かすつもりはないのか?」
「60歳になればそうするかもしれない」
砕石の道でタイヤががりがりと鳴り、車が横滑りした。峠を越えるとフルヌイ川を遡る道が日差しに白く光っていた。はるか崖下の河原にバスが停まり、オレンジのライフ・ジャケットを着た一団がゴムボートの用意をしている。
「どこでもラフティングが盛んだ」ジャスティンが言った。
谷ごとに小さな流れが道を横切っている。澄み切った流れだった。
「見かけほどきれいじゃない。牧場を流れる水は寄生虫と細菌で汚れている。牧場の家畜の糞とトップ・ドレッシングの肥料と農薬がこの国の深刻な公害になっている」
道の両側の斜面の柵をつないでゲートが行く手を塞いでいた。助手席から降り、車を通した。砂埃がもうもうと巻き上がり、口の中までざらつく。
ゲートにくくりつけた板に、
「通る前の状態にしておいてください」と、あった。
「開けてあれば、開けてある理由がある。羊をこちらへ追ってくるつもりかもしれない」ジャステインはゲートを抜けたところでぼくを待って言った。
いくらも行かないうちに再びゲートだった。
「ゲートを締めるのはあなたの責任です」今度のは少し違っている。
道は広い谷間に入った。左手の山裾に牧場主の家屋がまとまって建っている。
ゲートの向こうに湖の水面がきらめき、岸にキャンピングカーと青いテントが鮮やかに見えた。ゲートを抜けたホールデンは脇の草地に乗り上げた。
AAの黄色い看板がテイラー湖とシェパード湖を指し、もう一枚がサムナー湖とキャトリン湖への道を示している。柵沿いの三角の標識に自然保護区と書かれていて、緑の線描でカナディアン・グースがはばたいている。
「車をここに置いてゆく」
ジャスティンはバッグをXL100Sの大きなキャリアに積み、その上にライフル銃を縛りつけた。
ネルソン・トップスの王者
地図に4WDトラックと記された道はマタガーリの木立ちを抜け、牧場の草地を曲がりくねって突っ切っている。道幅一杯の水溜りをよけようとすると、マタガーリの太いトゲに腕をえぐられそうになる。マタガーリは高さ6メートルにもなるいつも枯れたように見える木だった。マタガーリの名はマオリ名のトゥマタクルの転訛だという。別名をワイルド・アイリッシュマン。カラタチよりも長く鋭いトゲを持つ枝の、注意深く見ればそのトゲの根元には小さな葉がある。萱草と牧草の間、疎らに立つマタガーリ。片側の傾斜は萱草が稜線までのぼり詰めている。
二人が重い荷物を積んでゆっくりと走っている道の前方から数台のトレールバイクがやってくる。一人は父親らしい年配者、人は10歳前後の子供、他は十代のなかばであろうか。
サムナー湖の林野庁の第一小屋に泊まるという。
週末ごとにクライストチャーチから親子でやってきてトレイルバイクを楽しむ。無料の小屋で泊まり、自分達で料理する。経費は往復のガソリン代の20ドルばかりである。父親はバイクの乗り方を教え、自然と折り合って行く方法を教え、社会でどう振る舞うべきかを教える。
「親がしてやれることはそれだけしかないんじゃないかね、え?」その父親は言った。
その言いきり方がひどく潔く感じられた。
右手のなだらかな斜面に草原の滑走路が延びていた。
「エアリアル・トップ・ドレッシングの滑走路だ」とジャスティンが言った。
陥没した流れに沿っていた道が土手を下り、流れを横切るべき所で土が広く崩れていた。小さな立札が新しくできた轍を指し、
「イージー・ウェイ(やさしい道)」と不器用に手書きされ、その方向にブルドーザーで削ったようなルートができ上がっていた。
「フラッド・アウト(流出)」の標識の向こうには斜面のはるか上方から青黒い石が湖水近くまで、かつてあったに違いない河原を埋めてしまっていた。それも道幅分は平らにつき固めてある。このような土地に、トランパー、バイカー、釣り人、キャンパー、ハンターしか来ない土地に誰が手を入れるのだろう。フラッド・アウトを苦労して渡りながら、そんな考えが頭に浮かんだ。
「まず、林野庁のレインジャーがやる。それから、キャンパーや、牧場とかこの土地によく来る人達がやる」ジャスティンが後で、そう教えてくれた。
フラッド・アウトの次は何度目かのゲートであった。バイクを停め、ゲートを開け、ジャステインを通し、自分のバイクを押して入り、ゲートを閉め、バイクに跨り、走り出す、という作業を何度も繰り返す。
国有地を個人の牧場主に貸しているリース・ランドでは、通過する公道の両側10メートルずつが公共地帯になっている。誰でもこの幅で通行する権利がある。
岩道を難儀して越え、深い轍に足をとられる。4WDトラックと地図に記されているのもうなずける。
ブッシュ・シャツを着込み、ダンガリー帽を被った3人の男が馬に乗って近づいてきた。エンジンを切り、通り過ぎるのを待った。
馬上の男達がダンガリー帽に指をあて、挨拶した。こちらも挨拶を返した。馬は急がず、男達を揺すりながらゆったりと岩道を遠ざかっていった。再びエンジンをかける。
暖かい空気の中に腐敗臭が漂っていた。マタガーリに隠れた前方の路上にヘレフォード牛が横たわっていた。腹の皮が肋骨に貼り付き、地面と接する部分はすでに破れ、暗い穴を穿っている。路上がどすぐろい液体で湿っていて、蝿が塊になって舞い上がった。
「ハンターに射殺されたのだろう」ジャスティンがそばに寄って言った。
ヘレフォードは茶と白が混じっているので、夜明け前のハンターが鹿を待つ時刻にマタガーリの木立ちに紛れると、鹿と間違えられやすい。まして、そそっかしいハンターが持つ銃となればなおさらである。
最後のゲートからは平らな牧草地のただ中をゆく道であった。ゲートの傍らの松の木を過ぎてからは何の遮る物もなかった。緑の芝の中に幾筋もバイクの轍がたどり、小川の浅い所を選んで広く展開していた。小川は轍が深くえぐれ、別の所に轍が生まれ、それがまたえぐられる、を繰り返していた。
出産期を過ぎた牧草地には小羊を連れた母羊が寝そべり、草を噛み、近づくに従ってそっと離れていくのだった。決してこちらを振り返らない。こちらに気づいていないふりをすれば、こちらも彼らに気づかないと思い込んでいるように。
親を失ったらしい小羊がジャスティンのバイクに駆け寄ってきた。ホイールにじゃれつこうとした。ジャスティンが避けるより早く、タイヤが小羊の身体を乗り越えてしまった。小羊は倒れ、身体がタイヤの下で捻じれた。ジャスティンとぼくはほとんど同時にブレーキをかけた。小羊は起き上がり、それでも遠くに行こうとせず、バ、バーと鳴き続けている。
その声はひどく悲しかった。
再び走り出すと、今度はこちらのバイクにすりよってきた。しかし、二度とホイールにじゃれつこうとはしなかった。次第に後に取り残されて行く小羊の鳴き声がしばらく耳に残り、それから聞こえなくなった。
牧場の突き当たりは斜面を鉄条網が区切っていて、そこからは林野庁の管轄の森林公園になっている。その手前にバイクを置き、柵にこしらえられた階段を渡って向こう側に降りた。
森林公園の設備といってもいくつかの小屋と便所、山から引いた水だけである。公園によっては展示室があり、夏の子供の教室を行なっているが、日本では受けないだろうと思えるほどに教育的である。
切り開かれた斜面はブナの森につながっている。そのきわにオリーブ色の小屋があり、屋根からブリキの煙突が建っている。煙突からは細い煙が昇っていた。
小屋の中は暗かった。すでに二人のトランパーが先客だった。一人は壁にしつらえた棚ベッドに座って靴を手入れしていたし、もう一人は入り口の近くで鋳鉄製のストーブに薪を投げ込んでいた。反対側のベッドに荷物を置き、外に出た。夕暮れまでは遠く、午後のひんやりとした空気が川を渡って届く。ジャスティンも出てきた。ぼくにディンプを渡して、
「山に行ってみよう」彼は対岸の段丘の向こう、ブナの森を指差した。
リー・エンフィールド308軍用ライフルを、まるで赤ん坊を抱えるように両腕で支えて、彼はゆったりと確実な足どりで地面を選んで歩く。長身をやや前に折り曲げていた。
「狩りをしたことはないのか?」彼が言った。
「ない。まず獣を殺すことには馴れていない。それに、狩りをするにはあまりにも野生動物の数が減ってしまった。最後に、日本では銃を持つことは非常に難しい」
「ライフルでもか? 拳銃は?」彼は驚いた様子であった。
「ライフルがいちばん難しい。拳銃は警官とヤクザ以外は持っていない」彼のリー・エンフィールドを指して言った。
フルヌイ川に架かった吊り橋は林野庁の設置したものだった。
「一度に一人ずつ渡ること」小さな鉄板の注意書きがあった。
スチールワイヤと鉄板で組んだ吊り橋は中ほどで風を受けてひどく揺れる。大きく揺れるたびにフルヌイのさざ波を透かして川底が眼に入った。
川岸ではぼく達の来た牧草地から川を渡って4WDトラックが合流している。マタガーリの生える河岸段丘から牧草地を過ぎてブナの森に入った。
森の中は暗く静かな、孤立した世界である。直径一メートルを超えるブナが聳え、下生えにはか細い若木が薄い葉を付けている。
「かじられている(ブラウズド)!」ジャスティンが声を抑えた。若木の芽がかじり取られている。
木洩れ日が下草を浮かび上がらせている。古い倒木が苔むして小さな流れに横たわっていて、足をかけるとグズグズと崩れた。ジャスティンは鹿の跡を追う。二人以外には動物の気配はなかった。
「鹿は夜に山から降りてくるんだ。林を抜けて、牧草地の木陰で草を食べる。それから夜明け前には再び林の奥へ帰っていく。そのときがいちばんのチャンスなんだが、鹿だってもっとも用心している」
彼はキヤドベリーの包装紙をブナの幹を背にして、枝の先に挟んだ。
「もう何か月も照準の調整をしていない」
薬室に実包を一発込め、膝射ちの姿勢でサングラス越しに狙った。
森の空気が一瞬凍った、その剃那、紫の煙が走った。銃声がブナの森に何度も何度も谺し、返ってきた。
火薬の軽い刺激臭が流れた。
チョコレートの包装紙に穿たれた穴は紙の緑まで破れている。背後のブナの幹に真新しいささくれができていた
「悪くない」
彼は弾倉を外し、確認して再び銃に戻した。熟練した無駄のない一連の動作の間にいくつもの安全装置が挟まれている。
「みやげに持って帰ったら?」彼は弾き出された真鍮の薬莢を投げて寄越した。
「日本には持って帰れない」ぼくが答えた。
「空薬英でもだめか?」ジャスティンは驚いた表情をした。
「だめではないかもしれないが、荷物をしつこく調べられることになるだろうな」
林のいちばん外側のブナの幹にバッグを置き、背をもたせかけ、銃を草の上にそっと横たえる。サムナー湖畔は静けさのなかにあった。
彼はポケットの実包を箱に戻した。
「手に取っていいか?」
「いいよ」
リー・エンフィールド308、7.62ミリの制式銃は持ち重りがした。亜麻仁油のにじむクルミ材は痩せてスチールとの間に隙間ができていた。照門の前部に「1917年ニュージーランド製」と王冠の印刻が入っていた。
「1941年に親父が軍の払い下げ品を買ったものだ。それ以来一度も故障していない。いい銃だよ」
「何年くらいライフルを持っているんだ?」
「8歳のときに親父に連れられてここへ狩りに来た。16歳のときには一人で車に乗って、後に銃とテントと寝袋を積んで来るようになった」
「18歳のときにぼくはこの山の王者だった。ネルソン・トップスから向かいのクロフォード連山まで鹿を追って歩いたものだ。山頂に三日間テントを張って鹿を待ったこともある。クロフォードの牧草地がまだここみたいにブナの森だった頃だ」
フルヌイの対岸の山は中腹から上が牧草地に覆われてしまっている。
「彼らは牧場を広げるために山を伐り払い、草と切株に火を放った。鹿もどこかに行ってしまった。多分、もっと深い森へ。ぼくも年をとってしまって昔のような元気はなくなってしまった」
「今、いくつなんだ?」と、ぼく。
「22」その声にはひどく疲れた響きがあった。
「22? まだ若いじゃないか」
「かもしれない、でも昔のように三日間も鹿を追う力はない」
ジャスティンは毛糸の帽子を目深に引きずり下ろした。草地に何頭かのヘレフォードが座り込み、林の緑に沿った遠くに、半ば白骨のむきだした牛が倒れている。遠い山は紫色に染まり、雲は少し朱色を帯びていた。
感じたほどには時間は経っていないのだろう。ぼく達は起き上がった。ジャスティンはライフルを両腕に抱えるようにして歩いた。たとえ装填されていなくともつまずいてライフルを暴発させない用心である。それは8歳のときに彼の父がここで最初に教えたことなのかもしれない。
それもまたぼく達が失おうとしている世界なのだろう。川や池には柵が張り巡らされ、それから川はコンクリートで固められ、可愛らしい公園と、流れに分けられた。池は埋め立てられ溺れる心配はなくなった。雑木林も柵で囲われ、木の上に隠れ家を造ることも陣取りもできなくなった。それから清潔な家が立ち並んだ。犬のまぐあいを見ることも、眼も開かない子犬を箱に詰めて川に流し、泣きながら駆け戻ってくることもなくなった。危険は遠ざけられ、物事はうまく隠されはじめた。死ぬことから遠ざけられ、生きることもむずかしくなった。
T・S・エリオットだったかが詩ったように、世界は核の代わりに泣き言で滅びるのだと思える。そんなことはない。
吊り橋を戻ったところで親子連れに会った。少年が流れにフライを投げていた。父親が隣で黙って見ている。
林野庁の第三小屋に泊まっているという赤く日焼けした女性がにこやかに少年の父の言葉にうなずく。小屋の近くに温泉(ホット・スプリングズ)がある、と彼が言った。ここから1時間ばかり歩いたところだそうだ。
「日本人は温泉が好きなんだろう?」父親が言った。
「ああ、でも水着をつけて入るのはいただけないなあ」ぼくの言葉は驚きの笑いで受け取られた。
小屋の向こうの枝振りのいい木の下にプラスチックシートを敷いて、男女が寝そべっていた。入り口ではトランパーの一人が薪を割っている。サンドフライは小屋には入ってこなかった。
「いい天気だな。鹿はどうだったい?」トランパーは不器用なウィンクを投げて寄越した。
入り口の壁に変色した紙切れがあった。
「無断使用を禁ず。違反者は5ポンドの科料に処す」と、フルヌイ郡議会の名がある。
ジャスティンは、
「昔の話さ。この10年、林野庁は方針を変えてきた。国民に近づこうとしているんだ。国民が林野庁の存在を認めなければ予算も削られる。仕事ぶりを認められるためには国民の眼にとまるように活動しなけりやならないんだ」
紙切れが貼られたままになっているのは怠慢からよりも、歴史の記録をとどめる意図であるらしい。
プケコを射ちにブーアイに行く
小屋の中に香ばしいパンの焼ける匂いが溢れていた。薪を割っていたトランパーがストーブの引き出しを開け、パンを取り出す。
こちらも暗くなる前に食事の支度を始めた。缶詰のアイリッシュ・シチューと紅茶をキャンピング・ストーブで温め、ジンジャービスケットを添えた。
表が暗くなるにつれ、木の下にいた男女や何人かのトランパーが戻ってきた。
トランパー達は誰もが登山靴、格子縞のブッシュシャツ、ショーツ姿である。
ときどき、サンドフライに刺されたすねを掻いている。
「俺が9月にここへ来たときにはまだ雪が残っていたんだ」トランパーの一人がカーバイドランプの光の中で誰にともなく言った。
「小屋に入ってしばらく気がつかなかったが、物音で不審に思って探すと、隅にポッサムがいた。どうやら、ここで冬を過ごしたらしい。そいつは俺を見ていた。俺もそいつを見ていた。俺としては、ここから出ていってほしかった。道を譲ろうと俺が身動きしたとたんにそいつは逃げた。まずいことに一番奥の、一番上の棚ベッドに駆け上ってしまった。自分で自分を追い詰めてしまったわけさ。いい子だ、いい子だ、さあ、おいで。来るわきやなかったね」
誰かがクスッと笑った。
「結局、ドアを開け放したままで外の、ドアが見えるところで待った。10分も経ったかな? もっとだったかも知れない。地面をするように走って行ったよ。自分でどちらに行くのかも分からなかったと思うね、あの勢いだと」
「ほら、この棚ベッドのあそこにいたんだ」天井近くを指差し、皆がそちらに視線を投げた。
天窓は部屋の光を映すばかりである。
突然、遠い車のエンジン音が響いた。どこかを迂回しているのだろう、同じ調子がしばらく続く。光の輪が汚れたガラス窓をなぎ払った。すぐ近くでサイドブレーキを引く音がし、エンジンの音がやんだ。
「今晩は」制服のレインジャーが二人、戸口に立った。
「今晩は」一斉に声を返した。
「何か、特別変わったことはあったかな?」何かあったことを期待していない調子でレインジャーの一人が言った。返事も聞かないうちに、奥の狭い部屋、レインジャーの備品がしまってある部屋に入り、オーストラリア製のコールマンに似たランターンを提げて戻ってきた。
ランターンは竜の吐く息のような音で部屋を照らした。
彼はトランパーに二、三言話しかけ、
「明日も晴れるそうだ」と、言った。
次にジャスティンに言葉をかけた。ジャスティンが返事した。
「ライセンスを見せてくれるかな?」ジャスティンはポケットから書類を取り出した。
レインジャーはそれをチェックし、手帳に控えて、ジャスティンにライセンスを返した。
「ありがとう」それから、奥の部屋にひきこもってしまった。
ベッドの荷物から本を取り出そうとして、木枠に思いっきり頭をぶつけてしまった。
「ゴツシュ! (くそ!)」思わず叫んだ。
隣のテーブルで紅茶を飲んでいた男女の男の方がオヤッという表情で、
「日本人が、ゴツシュ! と言うのを初めて聞いた」と言った。
「ぼくも初めて言った」
「そうさ、誰でも汚い言葉を真っ先に覚えるものさ」暗い光の中でも、その男女が年のわりにはふけたレッドネックであるのが分かる。
「どこから?」
「バルクルーサからだよ。7号線のネーサンズ・ブリッジでクライストチャーチからのバスを降りて、山越えのルートを歩いてきたんだ。昨夜はホープ川のキウィ・ハットで一泊した」
「じゃあ、サムナー湖の北岸を歩いてきたの?」
「そう、明日は温泉につかって、それからハーパー峠越えだな。明々後日にはアーサーズ峠から鉄道でクライストチャーチに帰らなきやならない」
鉄道の切符を見せてくれた、その腕に何だか分からない形の刺青が日焼けした肌に半ば隠れていた。
「どれくらいニュージーランドにいるんだ?」彼が口を開いた。
「すでに2か月ほど。あと4か月旅するつもりだし、金が続くようならもっといたい」
「ニュージーランドをどう思う?」
「とてもいいところだ」
ニュージーランド人の三つの質問というものがある。
「どこから来た?」
「どれくらいいるのか?」
最後は「どう思う?」である。
何度も、「グーッ、グーッ」と、バルクルーサの男は頷いていた。
棚に宿泊日誌を見つけた。
訪れる人は多くないらしく、表紙の色も湿気で褪せ、染みの残るページには3年前からの記録が重ねられている。大部分の住所はCH-CH、クライストチャーチであった。中にはアメリカ、ドイツ、イングランド、香港などもあった。感想欄は大半がサムナー湖周辺の風景は素晴らしい、というもので、ひとりのトレイルバイカーのは、
「晴れた空、腫れたキンタマ」だった。
これはその通りである。
目的は、トランビング、ハンティング、乗馬(トレイルライディング)、トレイルバイキングが多いが、ひとつすさまじいのは、
「私達は、フルヌイ警察の9人の一行。雪。行方不明の二人の年配の婦人の捜索に来た」
1985年4月の日付と、巡査部長の肩書があった。
揺すり起こされて眼が覚めた。
寝袋から腕を引っ張り出して、時計を覗いてからその光がテーブルの上の小さな蝋燭であることに気づいた。天窓は未だ濃紫の長方形でしかなかったし、それ以外の窓は闇を映している。
「どうしたんだ?」と言いかけてやめた。ジャスティンはすでに上着をつけている。時計の数字は3時45分を示していた。
起こされてひどく不機嫌になるのが常である。テーブルの上には柔らかい蝋燭の光の中に缶詰のアイリッシュ・シチューが湯気を立てている。不機嫌な自分が恥ずかしかった。食べ終わった皿を重ねて残し、ジャスティンは毛糸の帽子とライフルを持ち、ぼくは毛糸の帽子とカメラ、懐中電灯を持った。空には夜明けの空気が満ちている。しかし、この谷間に光が届くのはもう少しかかりそうである。吊り橋までの足場の悪い道をトーチの光の輪をたよりに歩くためには、ぼくの足元ではなく、先を行くジャスティンの足元を照らさなければならなかった。
吊り橋の向こう側、コンクリートの階段を下りきった所でトーチを消した。闇になれてくるとマタガーリが、うずくまる幽霊の群れのように浮かび上がる。4WDの轍づたいに歩いた。
水溜りが暗がりに仄かに光っている。
紫の空を背にして、ブナの森は濡れたように黒く沈んでいた。林の外側とマタガーリの木立ちの間にわずかの隔たりがある。その隔たりを見通す木の根に腰を下ろした。
「鹿がいれば必ず夜明け前にこの道を帰ってくる。森に入られれば撃ちようがない。ここで待つんだ」
すぐそこに鹿がいるような、ひそめた声。それっきり毛糸の帽子を目深にずらして眠りこむ。眠っていないのは確かである。そよほどの風の動きにもピクッと身体を動かした。
東の空の雲が色づきはじめた頃、ジャスティンは起き上がり、そおっと林にいちばん近いマタガーリの木の陰に身を移し、わずかな窪みに身を伏せた。その後に、ぼくも身を伏せた。
遠い草地で眠る牛の姿も見分けられるほどの光があたりに漂いだした。
「聞こえるか?」ジャスティンが鋭く言葉を吐いた。それまで何時間も言葉を交わしていなかったように思える。
かすかに甲高い爆音が聞こえた。2ストロークエンジンのような高いピッチである。
「バイク?」ぼくが言った。
「チョッパーだ」ジャスティンが訂正した。
甲高い音は確かにヘリコプターの風切り音であった。
ジャスティンは立ち上がると木陰から出た。その後について出る。
突然、ブナ林の陰からヘリコプターが、梢すれすれに現われた。ほぼ真上を飛び去るチョッパーのスキッド・プレートに張り出した網打ち銃の拡声器のような形がはっきりと見えた。ヒュンヒュンと風切り音がしばらく残っていた。
「密猟か?」
「分からない。どっちみち、このあたりをあの高さで飛ぶことは禁止されている。ハーパー峠あたりにでかけるチョッパーかもしれない。網打ち銃で鹿を生捕りにするハンターだよ。横に、大きなBの標識記号が見えただろう」
「撃たれる心配はなかったのか?」
「だから立ち上がって人間であることを示したんだ。今の音で鹿は逃げてしまっただろうな」
ジャスティンは銃から弾丸を抜き、脇に抱えて歩きはじめた。
吊り橋はすでに朝の光の中に移動していた。この時間の空気がいかに冷たいかを今になって気づいた。
レンジ・ローバーが露を受けてキラキラと輝いていた。小屋のトランパー達はもう起き出して、寝袋の片づけや朝食の準備を始めている。
「鹿はどうだった?」 バルクルーサの夫婦の男が言った。
「チョッパーが飛んできたよ」ジャスティンが返事した。
「それでプケコを射ったってわけか? ハッハッ」自分で言って自分で笑っている。
「今のはどんな冗談?」ジャスティンに尋ねた。
「プケコは間抜けで何の値打もない鳥だと思われてる。プケコを射ちにブーアイに行く、という言い回しがあって、ブーアイは山奥」ジャスティンが言う。
「ここみたいな?」と、ぼく。
「そう、ここみたいな」と、ジャスティン。
「どんなチョッパーだった?」振り返ったレインジャーが聞く。
「機種は分かるか? この絵のどれか分かるか?」壁のポスターを示して尋ねる。ポスターは機種ごとのテールの違い、網打ち銃とライフル銃の取り付け方、識別記号を示していた。
「ほぼ真上近くを飛んでいったので、テールの形は分からない。だけど、黄色いBが輪の中に見えたよ。森林と放牧場の境界に沿って、30メートルほどの高さに、ハーパー峠の方へ消えた」ジャスティンが答えた。レインジャーはそれをポケットの手帳に書きとめた。
「密猟か?」ぼくは聞いてみた。
「なんとも言えない。その飛び方は違反だが、すぐに捕まえるわけにはゆかない。それにそれだけでは持ち主を特定することもできない」
レインジャー達は朝食も摂らずに出かけた。まもなく、低いディーゼル・エンジンの音が遠い太鼓のように響いた。音はフルヌイの早朝の流れに向かって、斜面を下って行った。
ぼく達は紅茶とミューズリーバーで二度目の朝食を摂った。
「おはよう。今日は第三小屋で温泉だろ? ぼくも日本を出てから風呂に入ったことがない。シャワーは毎日だけど、ゆっくり温泉につかるのもいいだろうな」天水の蛇口で食器を洗っていたバルクルーサ人に話しかけた。
「日本人は温泉に裸で入るって本当かい? 男も女も一緒に?」
「たまには」
バルクルーサのトランパーは卑猥な笑いを浮かべた。
「俺は昔、マーチャント・マリーン(商船隊)で日本に行ったことがあるんだ、クーベとヨコアマに寄ったんだけどな、俺は日本が見たくて、クーベで降りて、そのままオサカ、キオトを回って、それから汽車でヨコアマまで船を追っかけたよ。船は待っててくれた。それっきりだな。もう一度行ってみたい気もする。随分昔だったから、日本も変わっているだろうな」
「多分。リップ・ヴァン・ウィンクルみたいな気分になると思う。ビルが立ち並んで、道はすべてアスファルトだし、賑やかになっているから昔の町並みなんて何処にも見つからないんじゃないか」
「きっと、そうだろうな。もう一度行って見たいが、こうキウィダラーが安くなっちまってはなあ」彼は小屋に戻っていった。
斜面の上の方に便所小屋が二つある。一つは釘を打ち付けて閉鎖されていた。使える方のは、扉の二つのライフルの銃痕から明るい光が洩れてきた。反対側の壁に穴が開いていなかった。
トランパーが小屋の床を掃いていた。10年も履き続けたような登山靴がばたばたと床に響いた。
ぼくはテーブルを拭きながら、話しかけた。
「どちらの方へ行くんだ?」
「ハーパー峠だ。多分あの二人を追い越すだろうな。昨日もキウィ小屋で一緒だったし、俺もアーサーズ峠行きだ」
「いい旅を」
「ありがとう。あんたもな」
明るくなれば猟にはならない。第二小屋の周辺を散歩して過ごした。最後まで残ったぼく達が小屋を離れたのは午前も遅い時刻であった。
緑の放牧場には時折、羊の顎の骨が落ちている。
角をつけたままの鹿の上顎をジャスティンが見つけた。キャリアの荷物に銃とぶっちがいにして縛りつける。来るときにはひどく遠く感じられた20キロほどの道のりがあっけなく終わり、ジャスティンの言葉通りに晴れ渡った空の下にテイラー湖が青い水面を波打たせていた。
車にバイクを積み込み、再び来た道を引き返した。埃と汗にまみれた顔が生皮のように突っ張る。
「どうだ。子供を持ったら、君のおとうさんのように子供をここに連れてきて鹿射ちを教えるかい?」と、ぼく。
「子供を持つなんて想像したことがない。ブナ林がこれ以上伐られることもなくなったけれど、鹿は去ってしまった。でも、子供を連れてくるかも知れないな。ぼくはこの山の王者だったんだから。教えたいことはいっぱいある。もう、役には立たないことかもしれないけれど」
途中、路肩がテーブルのようにフルヌイ川に向かって張り出したあたりでジャスティンが車を停めた。そこから対岸の岸壁に吊り橋が揺れている。岸壁にはしがみつくような小径がたどっている。どこへ届いているのかそこからではつかめなかった。
谷底の河原の木々は黒く焼け落ちていた。
「どうしたんだろう?」と、ぼく。
「牧場が焼き払って草地にしようとしたんだ。ものになりそうにないのでやめたんだろう」
崖っぷちに十字架が建てられてあった。その前にひとにぎりの木。3×6フィートの土盛り。足元に置かれた破れたブーツは底が緑色に変わっていた。花も飾ってあった。足元から十字架を見ると、そのはるか彼方にハーパー峠と大分水嶺の雪が望める。
「誰かがこの山で死んだのか?」なんの墓碑銘もないことに気づいて聞いた。
ジャスティンが笑いをこらえて言った、
「トランパーのジョークだよ」
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