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Home Up 憶良亭 よみもの なりもの 田中写真館 ホーボー日記

 

 

 

クライストチャーチ
Christchurch

アイスクリームは食べ物か?

隣の男がもぞっと体を動かして話しかけてきた。
「飛行機の中も暑いじゃないか」柔和な表情に髭(ひげ)を蓄えていた。その髭が煙の中で霞んだ。
シンガポール空港のむっとする暑さの中からエアコンディションの効いた飛行機に移って、暑いのか涼しいのか分からない独特な空気に触れている。露出した皮膚はひんやりするのに、シートにあたる背中はじっとりと湿っているという感じである。
彼はオークランドにあるマウント・イーデン刑務所の看守。休暇でイギリスの親戚を訪ねた帰りだった。
「ひとりで?」ぼくが尋ねた。
「いや。息子は友達と旅行に出た。家内と娘はもうしばらくロンドンにいる。私だけが先に帰ることになったんだ。これを見てくれ」
彼はアタッシュケースから一時間現像サービスの袋を取り出した。
他人の家族写真は常に幾分か退屈なものである。ぼくは相手の気持ちを害さない程度のそっけなさで写真をめくった。どれにも淡い壁色の家を背景に手入れのいい庭木の前に立つ中年の女、若い男、それより少し若い娘がぎこちない笑顔を浮かべていた。
機内が暗くなり、正面の壁がスクリーンに変わり、天井から映写機が下りてきた。瞼を閉じたが、『ロッキー3』を映す画面の光がいつまでも眼の中で踊っていた。

窓から差し込む光で眼が覚めれば、ねっとりと汗の膜が張りついていた。昨夜遅い夜食が出たばかりだというのに、もう乗務員が朝食を配りはじめている。この調子だと、年中旅をする人は座席に入らないくらいの飛行機豚になるに違いない。出された物を残すのはぼくの主義に反するが仕方がない。代わりにワインのおかわりを頼んだ。
窓の下1万メートルに群青色の縮緬皺が広がっていた。
機長が簡単な朝の挨拶に続けて、飛行機は順調に航路をたどっていること、偏西風を受けて予定より30分早い地点にいること、オークランド国際空港は高気圧の下にあり、快晴、穏やかな天候だとマイクを通して言った。
かつて、ぼくはライヴハウスまわりの歌うたいだった。その仕事は金銭以外の多くのものを与えてくれた。友達や、いろんな体験もそのうちだった。ひとりで、あるいは少数の音楽仲間と回ることもあった。金銭だけは例外で、時には持って出ただけの金を持って帰ることもあった。それすらないことも幾度かあった。いやなことはあったが、苦しいことは一度もなかった。あったのかも知れないが覚えてはいない。
時が移り、歌う機会も減ってきたとき、給料生活者になった。そのこと自体を残念だとは思わなかったが、旅できなくなったのがつらかった。かつてあちこちの町で出会った友人達に会いたかった。壁の高い窓から空を見上げるような日々だった。そんなぼくにバイクを教えてくれたのは以前一緒に歌って回った若い友人達だった。彼らは楽しみで演奏し、楽しみでバイクに乗った。ぼくは再び旅の手段を手に入れた。
一九八三年にニュージーランドを二週間ほど義兄の案内で旅した。もう一度バイクで旅しようと決心したのは車から見た長いダートロードのせいだった。あの道を走ればもっと他のものが見られるかもしれない。ダートロードは舗装路より自由に丘陵や川を走り巡っていた。

「ニュージーランドをよく見ておいで」マウント・イーデンの看守は、マンゲレの沼地に浮かぶオークランド国際空港で飛行機を下りるときそう言った。
国内線の改札口に似たゲートで搭乗開始をアナウンスしたのは出発五分前だった。
飛行機からはニュージーランドの大地が地図を読むように見てとれる。
オークランドからは一度タスマン海に出て、タラナキの半島の上を飛ぶ。富士山に似た国立公園タラナキ(エグモント)山には、その国立公園の境界線が実際にも存在する。国立公園の境界ぎりぎりまで迫る牧草地は原始林と火山灰地ばかりの公園内とはくっきりと色が違い、地図は実物に近い色を使っている。飛行機からタラナキを見ること自体、運がいい。「今日晴れていれば明日は雨。降っていれば明日も雨」と麓のひとは言う。
海を渡ると今度は南島北端の土くれ、フェアウェル岬からフェアウェル砂嘴がその西洋鎌のように美しい細身の姿をタスマン湾に向かって長く突き出していた。
南島の北部を占める幾筋もの山脈、分水嶺が薄紫色を帯びて連なっていた。その谷間を流れる川筋、山腹をたどる道が細々と続いていた。
視界がワイマカリリの広大奔放な流れの上空で大きく傾くと、着陸装置の下りる震動が足元を突き上げてきた。
クライストチャーチ国際空港に降り立ったとき、ここではまだ冬の終わりには遠かった。
凍りつく寒さのなかで桜が咲き乱れ、風に吹き払われていた。日本では時にはうすぼんやりと、あるいはものぐるおしく咲く桜も、ここではガラス細工のように脆そうだった。
迎えに来た姉の車で、郊外の空港から市街地を抜けて反対側の郊外に走る。窓から外を眺めても、公園にも並木道にも花を愛でる人の姿はなく、誰もがそれぞれの目的地を目指して急いでいた。ハグリー・パークの疎らな桜の下をジョガーが駆け抜けるが視線を上げようともしない。桜はただ日照時間の変化に誘われて季節をずらしただけだった。
姉の家に着くと、姪のマヤが手紙をもって飛び出してきた。
「ア・リタ・フォ・ユ」前歯が2本なかった。
北京に留学中の友人からの手紙が一足先に届いていた。
「どうした? その前歯」姪に尋ねた。彼女はわざとらしく口を閉ざした。
「キュートだよ」償いのように言った。姪はにたっと笑った。
姉の話だと、走り回っている時に転んで生え替わり前の乳歯をぶつけたらしい。
「今年から学校のサッカーチームに入るの。女の子はあたしひとりよ」と姪は得意気であった。
クライストチャーチ南郊のポート・ヒルズに連なるカシミヤ・ヒルズの斜面が緑の萱草(タソック)と一面の黄花に覆われ、1983年の冬に来たときと少しも変わりがなかった。家の前を通るホルズウェル・ジャンクション・ロードに沿った住宅地も以前のままだった。
甥のジャスティンが学校から帰り、義兄のロデリックが四時頃に戻ってきて、一家がそろった。ロッドの挨拶は至極簡単であった。
「ハーイ。今から蜂の巣を取りに行くけど、どうだ、一緒に行かないか?」
彼の勤めるDSIR(科学産業研究省)に、住民から電話が入って、納屋の藁に蜂が巣をつくったんだがなんとかして貰えないだろうか、と言ってきた。熊ん蜂に果樹の受粉をさせる研究をしているロッドが蜂の巣を回収しに走るのである。車で5分ばかりの民家の主婦がぼく達を裏手に案内した。古いヤマハのTTが藁の山の傍らで錆びついていた。長い時間の発酵で湿って暖かくなった藁の底に弱った熊ん蜂がはいずり回っていたが、巣はまだできていなかった。
結局、女王蜂は見つからず、30匹ばかりを胴乱に詰めて引きあげることになった。
「巣分かれしたばかりなんだろう」と、ロッド。

ロッドはレインボウ・ウォリアーズ号事件の切り抜きを取っていてくれた。
……85710日の真夜中、オークランド港に停泊中のグリーン・ピースの持ち船レインボウ・ウォリアーズ号が爆破され、オランダ国籍のポルトガル人写真家が死んだ。レインボウ・ウォリアーズ号はフランス植民地、ムルロア環礁でのフランスの水爆実験に抗議する航海の途中だった。まもなく、スイスの偽造パスポートを持った二人のフランス軍籍の男女のエージェントが逮捕された。
投書、コラムの多くはフランスを揶揄する独創的な皮肉とユーモアに溢れていた。
ユーモアは弱者の武器である、と言ったのが誰かは忘れた。ともかく、この武器はユーモアが通じない相手には痛くも痔くもないという欠点がある。ユーモアの分からない核大国フランスは非核小国ニュージーランドと太平洋の島々を平気で踏みにじっていた。

 翌日からバイク旅行の準備に、クライストチャーチの町を歩きはじめた。バイク旅行がすべてという気持ちではないので急ぎはしない。毎朝、家の前からバスに乗った。
クライストチャーチ交通局のバスは30分に1本、赤と白の車体を震わせながらホルズウエル・ジャンクション・ロードを通り過ぎていく。ニュージーランド・バス会社製のバスは継ぎ目のいたるところがゆるんでいて隙間風が吹き抜け、やたらときしんだ。
運転手はぼくが厚い上着に愛着を感じる日にもブルーの制服にショーツ、ハイソックス姿でいる。女性運転手も少なくなかった。バスを離れるときは、切符とコインの入った鉄の箱を抱えて歩いていた。
朝の九時ちょうどに、72番地の台所の窓からホルズウェル・ジャンクション行きのバスを見送り、裏の鍵を掛け、広い道を横切ると、きっかり、ホルズウェル・ジャンクションで引き返したバスがこちらに向かってやってくる。
オフ・ピークの表示を確認して90セントを料金箱の小皿に置くと薄っぺらい小さな切符を切ってくれる。ひどく尻上がりの調子で「サンキュウウ」と言う。
ホルズウェル、オークランドのアッパー・ミドル・クラスの住宅街をくねくねと走り、もうその時間にはアッパー・ミドル・クラスの女性客しかいないから、少しずつアッパー・ミドル・クラスの女性客を拾ってまわる。アッパー・ミドル・クラスの女の多くは白かパステルカラーのピンク、軽く黄の混じった水色のブラウスの幅広の衿の背を立て、これも白かパステルカラーのピンク、軽く黄の混じった水色のロングスカートだった。そして、上下のどちらかは必ず白だった。
バスは国道1号線に出、法定速度100キロのオープン・ロードの標識を見るや、時速80キロで突っ走る。2キロたらず突っ走るとフーンヘイの町に入り、すぐ減速することになるのだが、それでも突っ走る。運転手の断固たる運転ぶりから推察するに、CTB(クライストチャーチ交通局)の運転規則に定められているからそうするのか、運転規則に禁止されているからそうするのかのどちらかに違いない。クライストチャーチ交通局の組合は戦闘的ということで知られているのだ。

隣に座ったアッパー・ミドル・クラスの婆さんがなにか話しかけてきた。ガタピシうるさいバスの中で低い声で話しかけてくるから全く聞き取れない。彼女は人の顔を覗き込むような姿勢で話しかけてくる。生返事をするうちに前を睨んだきり何も言わなくなった。話しかけてこなくなったのは有難いが、その夜、彼女の家庭では、まともに返事もしない無礼な日本人のことが話題にのぼるかもしれないと考えた。ただでさえ日本人がひんしゅくを買っていた時期である。
日頃、社会も政治も考えたことがないくせに、海外に出たとたんに国家意識に目覚めてしまうトンマが時折いる。「パリのホテルの玄関に日の丸が翻っているのを見て、思わず涙が出てしまった」などと吹聴する。ホテルの玄関に日の丸が掲げてあるのはいいお得意さんの日本人をヨイショしているだけだし、国家意識も本音を言えば、言葉の通じない寂しさと不慣れな食べ物つらさのホームシックだったりする。
別に国家意識に目覚めたわけでもないのだが、これは個人の誇りの問題と思って貰っていい。つまり、彼女の機嫌を取るにしくはない、と考えたのだ。
「丘にきれいな花が咲いていますね」と声をかけた。
彼女は、今さら何さという表情でこちらを振り返った。もちろん、それはぼくの言葉が通じなかっただけのことかもしれない。そして、その丘一面の山吹色の花がハリエニシダ(ゴース)と呼ばれ、たちの悪い雑草として忌み嫌われていること。それに、スコットランド人達が故国を懐かしむあまり、また、出費をケチるあまり、天然の鉄条網として故国からここの牧場の垣根に移植したのが始まりだと知ったのはしばらく後のことである。
仕方なくぼくも前を向くことにした。

「この席はハンディキャップを持った人達用ですから、要求があれば、席をお空けください」
「大人が立っているときは、子供は席を占めてはいけません」
「車内で、アイスクリームや食物を摂ることは禁止されています」
 注意書きひとつからその国の文化を読むことができる。
「アイスクリームは食物じゃないよ、もちろん」と、ぼくが出会ったある若いニュージーランド人は答えた。
「西瓜は野菜か、果物か」と、ぼくは尋ねた。
「野菜だ」と彼は答えた。
「では、蝙蝠は動物か植物か」と、ぼく。
「動物だ」と彼。
「よろしい。ではアイスクリームは何だ?」さらに尋ねた。
しばらく考えてから、彼は言った。
「もちろん、アイスクリーム」
なかなか越えられない文化の壁というのもあるらしい。

バスはフーンヘイを過ぎ、アディントンの労働者住宅街に入る。今までの住宅よりかなり古い家並みは、荒れた庭や、腰板のはがれた壁、傾いた板塀で飾られている。玄関脇に投げ出されたソファが、すっかり色褪せて昔の面影を思い出そうとしている。踏み付けられて固くなった芝生の上で、疲れ切った表情の女がジーパンやシャツを傘の形の物干にかけている。前庭に、艶をすっかり失った水色の50年代型のフォードがナンバープレートを剥ぎとられて転がっている。
アディントンあたりのCTBの小さな標識の下でバスを待つ客は、パステルカラーにも白のロングスカートにも無縁で、擦り切れたジーパンに擦り切れたTシャツか、よれよれのシャツを着て、日本(ジャパン)から輸入されたサンダルだというのでジャンダルと呼ばれている履き物を無造作につっかけていた。
ぼく自身の格好といえば、呆れたことにこれまた擦り切れたジーパンによれよれのTシャツだった。履物だけは頑丈なワークブーツだが。
バスはチャイニーズ・テイカウェイ、古道具屋、肉屋、八百屋、銀行、デイリー・ストア、空き家の並ぶ商店街を通り抜ける。ガランとしたショウ・ウィンドウに前の店主がある日、
「閉店セール、すべて40%四〇%引きー」と貼り出し、商品を整理すると貼紙をそのまま残して出ていってしまった。
バスは、アディントン駅のそば、スズキ自動車とキャドバリー・チョコレートの野立て看板の前で踏み切りを渡り、ムアハウス・アベニューの広い通りを走る。
牧場相手の商売を一手に引き受けているダルゲティ・クラウンとパイン・グッド・ギネスの煉瓦造りの倉庫を羊毛の梱を満載したトラックが出入りする。ほとんどそこだけが活気を感じさせる場所である。
バスはコロンボ・ストリートで北へ折れ、少しずつ客を降ろしてスクエアにたどり着いた。
何の案内もなく街角にバスを停め、ドアを閉めきると、運転手は小さな箱を抱きかかえて通りの向こうへ姿を消してしまった。

写真なし、免許なし、悔いなし

クライストチャーチの中心に高さ65.6メートルのアングリカン・チャーチの聖堂(カセドラル)が聳(そび)えている。クライストチャーチで道に迷ったときは、その尖塔をめあてにして歩けば何とかなるから便利である。しかし、この塔は過去3回、地震で崩れた物騒な建物でもあるのだ。
その横っかたのやたらとガラス張りの青いビルがニュージーランド銀行(BNZ)であった。ぼくは日本円をキウィダラー(ニュージーランド・ドル)に交換しなければならなかった。
テラー(出納係)が円の札束を不器用に数え、書類と一緒にステップラーで綴じると、キャッシャー(現金係)に行けという。ロープで区切った列の後に並んで順番を待った。
「何ドル札?」
10ドル20枚に5ドル10枚に……」
20ドル10枚?」
ニュージーランド鳩が歌い、ミロの木が実る緑色の札束を数えながらカーディガン姿の若い男が聞く。
「いや、10ドル札が20枚」
ニュージーランド鳩を締め殺し、数えていた札束を金庫に戻し、きこえよがしのため息をつくと、キーアが羽ばたき、マウンテン・リリーの花咲く青い札束を取り上げた。
「残りは?」
「百ドル札に」
「全部?」
「そう、全部」
この頃、日本では1キウィダラーは1キウィフルーツよりわずかに高かった。

昼休み時間の聖堂広場は混雑している。尖塔の前で脚立に乗り、相変わらず黒ケープに髭面のウィザード(魔法使い)が演説している。今ではどんなガイドブックにも載っているほどの名物になったが、超王党派反ユダヤの超保守とみなされ、市民にはまともには扱われていない。若い失業者やマオリ達の野次の格好の標的にされているふしがある。
聴衆の間を、青年が自転車を押してすり抜けていく。ズボンの裾をゴムバンドでまとめ、デイパックを背負っている。旅行者風の若い男女が、白と赤の帯に赤の楓をかたどった国旗を縫いつけたバックパックに背をもたせかけている。
「ロールストンはつまらないから、ユースに泊まるんならコーラ・ワイルディングにしろって、スイス人の女の子、言ってなかった?」眩しそうに眼を細めている。
「あそこ、町から遠いんだよな」男が言った。
ウィザードは演説を終えると脚立台の箱からバッジや宗教画風のポスター、南北逆さまの地図をひっぱり出して売りはじめ、聴衆はてんでに散っていった。カナダ人の男女も5時のチェックインまでの時間を潰す場所を探して立ち去った。
中央郵便局(GPO、ジェネラル・ポスト・オフィス)はスクエアのもうひとつの角にあって、煉瓦壁の上、漆喰い塗りの真っ白い壁に極彩色の紋章を描いていた。一番の高みに時計台を載せた古い建物である。
ゴールデン・キウィ宝くじとボーナス・ポンドの宣伝ポスターを貼った玄関を入り、ロープで区切った長い列に並んで順番を待った。
ここで知ったのはニュージーランドには官製葉書というものがないこと。貯金は郵便貯蓄銀行(POSB)が扱うことだった。
「日本じゃ郵便貯金も郵便局で扱ってる」と、ぼく。
「ここでも田舎じゃ、そうよ」と郵便局員。

1984327日、アーニー・アボットがウェリントンのトレード・ホールで、スーツケースに仕掛けられた爆弾の破裂により死亡。犯人を通報した者または犯人逮捕に導く情報を通報した者には25000ドルの報奨金が与えられる――POSB
郵便貯蓄銀行の玄関口にそんな貼紙があった。
口座を開きたいと言うと、局員はキーボードを傍らに押して、
「あちらのブースでお待ちください」
ほどなくワンピースの若い女が向かいに座って、
「普通口座を開きたいのですね?」と言う。
それから条件を説明しはじめた。驚いたことに、彼女の、ニュージーランド人としては非常に美しく流暢な英語はほとんど理解できなかった。
「パスポートをお持ちですか?」と尋ねられて、やっと我に返った。
初めてニュージーランドの貯金通帳を手にしたが、それはすべての数字が手書きであった。
では、窓口のキーボードは何だったんだろう。

道を渡って、アーケードをくぐると入り組んだモールになっている。
健康食品の店には20種ばかりの豆や、ナッツ、山盛りのポプリー、ライ麦パン、キャラブのクッキーに混じって、米酢や麺、インスタントだしのもとが並べられている。壁のかなりをビタミン、栄養剤の棚が占めている。粉末と錠剤の昆布がかなり高い値段をつけられていた。
健康へのこだわりも行き過ぎると不健康になる。人生の半分を幸せにしてくれるうまい食べ物の代わりに錠剤で腹を満たして、幸せの半分を失って索漠とした人生を引き延ばすなんてぼくにはまるで拷問である。もちろん、食べることにはなっから喜びがなければそれは別問題である。
かといって、ぼくは美食家ではないから生存に必要であればまずいものも食べる。うまいものにありついたときはこれにまさる喜びはなしと食べる。
「とかくこの世は面白い、金持ちは夏に氷が食え、貧乏人は冬食える」
「金持ちは食べたい時に食べ、貧乏人は食べられる時に食べる」もうひとつ。
「筆は一本、箸は二本、畢竟衆寡敵せず」それぞれの原典は、教えてやらない。ビーチ・ハニーを2瓶包んで貰い、5ドル札を渡した。ナンキョクブナ(ビーチ)の樹皮に棲む貝殻虫の分泌物を蜜蜂が収穫したものを人間が横取りする。その味は喜びに値する。

キャシェル・ストリートは昼休みを過ぎても人通りが多い。どの店もハレー彗星と物品サービス税(GST)でもちきりである。
GSTは間接税で198611月からすべての商品とすべでのサービスに一律10パーセントの税金が加算されるというものであった。
マッキューイン・スポーツショップでバッグを探したが、高くてデザインが悪く種類が少なくて材質が古めかしくて、とはこの国の品物に共通することである。
向かいのスポーツショップはライブル銃や釣り道具を商っていて、釣り竿、釣り針、リールはダイワ、ガマカツ、リョービ。
ナンキン・カフェは2時から夕方まで休み、1983年に、ウェイトレスの女の子に「アグネス・チャンそっくりだよ」と言った。アグネス・チャンて誰? と聞くから「君にそっくりな人」と答えた。その娘ももういなかった。今ごろは歌手にでもなっていることだろうか。
しかし、この店では何を注文しても同じような料理が出てくるのが面白い。日本の大衆食堂風の造りがまた面白い。
クライストチャーチでいちばん大きなウィットコール書店は改装工事中だった。
店の前で4人の若者がベース、フルート、ギターでクリアデンス・クリアウォーター・リバイバルをリバイバルさせていた。
歩き疲れるとカプリチオ・カフェに入った。3ドル50セントでコーンドビーフにサラダを添えたものが食べられる。実はこの店で知ったことなのだが、日本の缶詰のコンビーフは塩茹で牛肉のコーンドビーフとは赤の他人なのだ。
「チップス」カウンターの内側に向って注文した。
「チップスと、フィッシュかい?」ちっちゃくて鷲のような顔の年配の女店員が言った。
「いいや、チップスだけ」
「まあ、若いのに」ちっちゃくて、鷲のような顔をした女は一度だけ、フィッシュアンドチップスを注文したとき、一切れ余分につけてくれた。そんなに若くないんだよ、おばさん。
棚にいくつも並んだ黒パンの20種類ほどのサンドイッチ、ロールからアスパラガス、ハム、チキンのサンドイッチ、モールンバーグ・ロールを取る。上の棚にはフレッシュクリーム・ラミントンだとか、チョコレートケーキ、デートケーキなどの見るからに甘そうなケーキの類が並んでいる。見るだけでも虫歯になりそうである。
ある日、中年の男が昼食のカセロールの後でラミントンを平らげるところを見てしまって、一日ムネヤケに悩まされた。

聖堂広場からウースター・ストリートを西へ、ノアズ・ホテルの近代建築とクラレンドン・ホテルの古めかしい石造りの間で、縞模様の柱のてっぺんに黄色い大きな球を載せた横断歩道印のボラードの下を渡る。エイヴォン川の橋の向こう、旧市街の一角に博物館、マクドゥーガル美術館、植物園、旧カンタベリー大学がある。どれも無料であるばかりか写真撮影も構わない。どうして日本じゃいけないんだろう。
構内は漆喰で固めた凝灰岩の建物が中心になっている。カンタベリー大学は1974年に郊外に移転、大学跡の建物をアーツセンターとして開放している。芸術、工芸、文化関係の団体、個人が昔の教室を使っていて、糖尿病友の会というのもある。
見て回っていると紙細工のおばさんが和紙について質問する。機織りのおばさんが紬について質問する。キャンドル・ショップのおばさんが和蝋燭について質問する。陶房の男が日本の焼物について質問する。若い女の子はなにも質問してこない。ひどく残念である。なんとも残念である。この国で可愛いのは二十歳前の女の子だけであるのに。

ユースホステルは日本では教育施設みたいだが、この国では宿泊施設である。基本的な規則以外はほったらかしで朝のデュティ以外にはなんの義務もない。食事はすべて自炊である。これはぼくみたいな集団生活ができない人間には楽である。
「メンバーになりたいんだけど」
「国のメンバーシップカードはありますか?」ふっくらした女の子が言った。ねえねえ、若い女の子が初めて質問してくれたんだよ。
「いや、ないけど」
「外国人でしたら、20ドルです」
「それは、来年も使えるの?」
「いえ、85年だけです。でも、12月の24日頃にカードと2ドルを持ってくれば、86年いっぱい延長できます。これは、ニュージーランドを旅行する外国人だけの特典です。この用紙に記入してください」
記入した用紙に10ドル札を2枚添えて、彼女に返した。
カードの空欄に書き写しながら住所のところで、
「住所がクライストチャーチになってますわね」
「ええ、でもそれは姉の住所でぼくは日本国籍です」
「だけど、住所がこちらですと外国人の扱いはできません。料金も外国人の特典は使えませんわ」
「それは困った。居住者だといくらになるの?」
「これだと入会金が5ドルに会費が17ドル、あわせて22ドル。10月に入ってますから、86年いっぱいの有効期限です。これは居住者の特典です」
「それはじつに困ったことだ。選択の余地はない訳だね」ぼくは笑いながら言った。
「ええ、残念ですけど」彼女は笑わなかった。
喜んで外国人の特典を捨てた。2ドル持ってくる手間が省ける。

マンチェスター・ストリートとトゥアム・ストリートの角のホワイティング・ホンダは83年に来たときに何気なく覗いた店だった。ニュージーランドのバイク屋は商品が輸入品のため、在庫を多くしなければならないので大変だと言っていた。
オーナーのイアン・ホワイティングは組んだ左手の指で割れた顎を挟む仕草で話した。
ぼくの希望するXLの中古は春先には払底する。彼は新品を薦めるが、200∝で2500ドル、中古の2502200ドル前後である。帰るときに2000ドルくらいで売るつもりだから排気量を考えればこの違いは安くない。実際には2200ドルで買い、半年後には少しいたみが出はじめたので、1700ドルで売ることになったが。
「新聞でなら、なんとかなるかも知れない。よろしい、今から私の家へ行こう。土曜版があるはずだ」彼は、ホームをホイムと聞こえる、喉と鼻が微妙に響く発音をした。エイをアイと発音するのは有名だが、ニュージーランドの訛りは他にもあって、例えば姪はナイト(夜)をノイト、10セントをティン・シントと発音する。バード(鳥)をボイドと発音する人もいる。
壁の貼紙に「写真なし、免許なし、悔いなし」とあった。ホワイティングは、「写真お断わり、免許がなければ試乗もお断わり、そうすれば問題も起こらない」という意味だと教えてくれた。

イアン・ホワイティングの家は、アッパー・クラスの住宅街として有名なフェンダルトンにあった。閑静な緑と花一杯の通りに面して、瀟洒な白塗りの二階屋と広い前庭の手入れの行き届いた花壇があった。ガレージには車の他にボートがトレイラーに取り付けたままになっていた。
迎えに出たテリアにイアンが声をかけた。
「ウィンストン」ブルドッグにこそふさわしいと考えたが言わなかった。
彼は奥さんを連れて出てきた。白いブラウスに薄青緑のスカートの彼女は盆に載せたビスケットと紅茶を庭の白塗りの鋳鉄のテーブルに運んだ。
彼女はにこやかに首を傾け、「ナイス・ナイス」を連発した。もう少し表現の幅があってもよさそうなものなのに。しかし、彼女は決してノイスと発音するタイプではなかった。
夫婦は日本に釆たことがあって、物価の高さに驚いていた。
「あんなに物価が高くてみんなよく辛抱しているわね」奥さんが感心したように言う。
「日本の子供が学校でまず習うのはどんな理不尽にも耐えることです。それができないと『オチコボレ』と呼ばれて一人前の人間とは認めて貰えません」
彼らは互いに顔を見合わせた。信じていいのかどうか迷っている。
「凄いわね、え、軍隊みたい」奥さんが言った。
あんまり本気にされても困るのである。しかし言葉にも勢いというものがある。
「日本の男は誰でも兵隊とヤクザだけは演じられる、と日本のいい役者が言っています」
その表情からみると、彼らは完全に信じたようである。
ひとつ、ヨーロッパ人は東洋文化を匂わせる言葉に弱い。もうひとつ、ヒトラーも書いているようにデマはうそみたいであるほど信じられやすい。さらにひとつ、少しの真実が味付けをする。

テーブルと椅子に太陽の光が眩しかった。太陽がいくらか位置を変えたのだ。
居心地が悪くならないうちにおいとますることにしよう。新聞の三行広告を掴んで立ち上がった。
イアンは店まで車で送ってくれた。

「これでは、あなたの店の利益にならない」
「欲しいものをこちらが持っていなかったのだから仕方がない」イアン・ホワイティングはそう言って、両のてのひらを広げる仕草をした。それから、
「バイクを買ったら息子のジャスティンが鹿狩りに案内してくれるだろうからまたおいで」
と言った。

カンタベリー平原では雨は主に平原に降る

土曜日の朝、子供達をクリケットとサッカーの練習に送って帰って来たロッドが、練習が終わってから子供達を連れてラカイアヘドライブしよう、と地図を出してきた。
その朝早くに、新聞の三行広告で見つけた「バイク売りたし」の番号に電話して、売り主とは明日バイクを見に行く約束をとりつけてある。
ぼくが庭で芝刈り機を押している間、ロッドは酸っぱいルバーブを摘んで林檎と一緒に砂糖で煮ている。ルバーブは育ちきった蕗のような茎に紅い筋の入った植物で酸味と筋気が多い。砂糖で煮崩すとジャムのようになる。これをアイスクリームに載せて食べると結構いける。
隣家の高い木立ちから数種類の鳥の声がこちらにも降ってくる。
素性がぐうたらなぼくはこんなのどかな一生が続けばどんなにいいかと考える。それにバイクとビールといい女友達があれば不満はない。ただし、いい女友達でないなら、いない方がましである。
刺激のない人生は退屈だと言う人がいて、その人は自分自身にも退屈していたりする。
週末の住宅地はあちこちから日曜大工の電動鋸、金槌の音、エンジン芝刈機の爆音がする。ウィークデイには死に絶えたように静かなこのあたりである。
ロッドが、子供達を迎えに行くからルバーブを見ていてくれと、出かけた。台所から甘酸っぱい匂いが漂ってくる。20年前の日本人にとどまっている姉は今日も仕事に出かけてしまった。

南へ数キロのリンカーンにあるDSIRにロッドは熊ん蜂の巣の手入れに立ち寄った。ひとつ継続した実験があると一日も眼が離せない。いつも出かけるときはそうであるように捕虫網と小さな瓶を木箱に詰めて後の座席に放り込んだ。
実験圃場を出外れて、車は西に向かった。
セルウィンの流れをざぶざぶと道は突っ切る。これをフォードという。水を切って進む車のドアを開けて、マヤは広がる波にワーワーとはしゃぐ。
「マヤはフォードが好きなんだ。モーターボートみたいだって」
南カンタベリーと北カンタベリーの牧場で育ったロッドは、その育ちにもかかわらず血を見るのが苦手で、つまり牧場では全くの役立たずであることを意味した。牧場では動物の生き死に関わるすべてを引きうけなければならない。ところが彼は赤い血を見るだけで気分が悪くなるほどで、親はあきれた。
幸い生き物が好きなのと経済力があったのとで、牧場は弟にまかせ、彼の方はDSIRと同じリンカーンにある農学部リンカーン・カレッジにやってしまった。

車の中で、ロッドは牧場の子供時代の話を始めた。
移民が毛皮と狩猟の目的で持ち込んだ穴兎が天敵のいない島国に跋扈し、牧場では害獣として嫌われていた。ロッド達二人の兄弟も捕まえた穴兎1匹ごとに親から小遣いを与えられた。
「家にライフル銃はあったけど、二人とも弾丸を買う金がなかったんだ。弾丸を買えば貰った金もそれで消えてしまうからね。それで二人は考えた。穴兎はたいていふたつ巣穴の出入り口を用意している。これは二人だけの秘密の発見みたいなもので誰にも教えなかった。ぼくが一方の口へ穴兎を追い込むと弟が反対側の口に待ち伏せしていて、飛び出してくる穴兎を両手でムンズと捕まえるのさ」
「それでうまくいったのかい?」
「最初の何回かはうまくやれたんだ。それですっかり味をしめてしまった。いくらでも捕まえられそうだったし、友達も知らないやり方だったんで得意になっていた」ロッドは車を走らせながら続けた。
「日曜日がやってきた。弟と二人で牧場の丘へ穴兎狩りに出かけた。小遣いも残り少なくなってきたからね。もともと牧場に住んでいると金の使い道もないんだが、たまに町へ連れてってもらうときには欲しいものもあったから。広い牧場を横切って荒れ地にたどり着いた」
「弟がいつものように出口で待ち伏せしていて、ぼくがこっちの穴へ穴兎を追い込んだ。しばらくすると、突然、ギャーッと弟の叫び声が聞こえた。弟の姿を見てぼくはその場で笑い転げてしまった。弟の指から穴兎がぶらさがっていたんだ。食いついたままはなさなかったのさ。弟はちっとも笑わなかったし、ぼくの笑ったのが気に食わなかったらしくて、もう二度と一緒に穴兎狩りに出かけようとしなかった。穴兎の方はまた親父が罠を仕掛けるようになったよ」

クレイギーバーン山脈の南端はむきだしの岩肌を薄紫に染めていた。ジョージナ、エブリン、セルファという名の小さな湖のほとりでヘレフォード種の牛が枯れ草を食んでいる。分水嶺を越えてくる西風に乗って綿毛が雪のように舞っていた。
「その頃住んでいたのは南カンタベリーのフェアリー近く。あのあたりの波打つ丘のひとつに家があったんだ。谷間は今でも大雨が降ると洪水になる。
ぼくが通った学校は教室一つの小さいものだった。ああ、今でも残っている。校庭は草に隠れているけれど、白塗りの校舎が79号線の脇に建っている。今でも。
子供の頃は79号線も砂利道だった。オピヒ川にもワンレーン・ブリッジ(一車線橋)しかなくて、それさえうんと大回りしなければならなかったから牧場からまっすぐに川を馬で渡った。学校までの三マイルを親父の後に乗って馬で通っていたんだ。牧場の子供達には珍しいことじやない。
雨の後には水嵩もあったから、そんなときは国道まで遠回りしたよ。
それも長くは続かなかった。地域に子供がそんなにいなかったんだから。学校は閉校になった。子供は親達が交代で送り迎えする車でフェアリーの学校に通うことになった。スクールバスは来なかったな。どうしてだろう。
上級の学校へ行く頃には家は北カンタベリーの、弟が今牧場を持っているあたりに移った。
ぼくは寄宿舎へ入り、牧場には休みに帰るだけになったよ」
オークデン山の裏側で出合う四本の川は差し渡しが何キロものとてつもない谷を刻み、山裾に山岳高地牧場(ハイ・カントリー・ステーション)の家屋が木立ちに取り囲まれ、そこに至る車の轍が広大な河原を真っ直ぐに延びていた。

翌る日、ロッドの車でバイクを見に行くことになっていた。市内のヒースコート川に面した住宅街に売り主のジョン・ブラハムが待っていた。大柄の身に破れたTシャツ、穴の開いたジーンズをまとった、ジャックと豆の木の大男役になれそうなジョンはガレージに真新しいBMWを持っていた。
2500ドルを2200ドルに値切って手付け金を払い、火曜日にジョンの勤め先に近いアッシュデイル郵便局で名義変更をする約束になった。ロッドはしばらくジョンと話していた。
同郷同士のような調子の二人の会話である。
車の中で、
「ジョンはカンタベリー炭田のホワイトクリフの出身だ」と言った。ラカイアの近くの谷間に小さな炭鉱地帯がある。その中心の町がホワイトクリフだった。炭鉱夫の家族に生まれ、クライストチャーチに出てきて電子機器メーカーで働いているらしい、とロッドが教えてくれた。

火曜日、郵便局で鍵と引き換えに彼に赤色の紙幣の束を渡した。
「ヒュー。現金だぜ」ジョンが珍しげに叫んだ。ふだん小切手で済ませているので百ドル紙幣など何年も見たことがないそうだ。
クリーム色の登録書には初オーナーとして彼の名があった。
ジョンは別のポケットから23ドルをひっぱり出し、登録書に郵便局長のスタンプを受け、それで手続きが終わった。
ご機嫌で豆の木の大男ジョンが握手を求めてきた。
「いい旅を」
「有難う」

バイクが手に入って以来、クライストチャーチへは近くなった。
真っ先に行ったのは自動車連盟(AA)の事務所。中心街の一角、ラティマー・スクエアの前にビルを構えていた。
25ドルでメンバーカードと福袋のような、地図と宿泊施設のリストの束を受け取った。
「ところで保険は扱っているのだろうか?
AAはシムと提携していますので、そちらを尋ねてみてください」
シムはラティマー・ストリートの向こう角にあった。
受付にはピンクのブラウスの衿をたてた若い女が座っていた。カウンターの陰になって見えないが、下が白のフレアスカートであることに2ドル賭けたっていい。それ以上はだめだ。
「どんなご用件でしょうか?」娘は、学校で習ったような発音で言った。
「車両保険の契約をしたい所存であるが」西部劇映画のトシロー・ミフネをきどってぼくは言った。
「お名前は?
「拙者の姓名はケンジ・タナカでござる」
「綴りは?」テレビ・ニュージーランド1のニュース・キャスターの方がまだ表情がある。
綴りを教えた。
「サーネームは?」彼女が言った。
「サーネームとはいかなるものでござろう。タナカが拙者の家族のネーム、ケンジが親より与えられしネームでござる。ミドルネームはござらん」
「サーネームは?」聞こえなかったように彼女は繰り返した。
「知らぬと申しておるではないか。客の無知をそうしつこくあげつらうものではない」彼女は肩をすくめ。ぼくも真似をした。彼女はニコリともしなかった。
「ミスタ・タナカ?」名前を呼ばれて立ち上がった。「あちらのブースにどうぞ」
「ごくろうであったぞ」

背が高く、顔の細長い女がデスクの向こうに腰を下ろした。
書類に眼を通しながら、時折こちらを見上げて話す。驚いたことに彼女のきれいな英語はほとんど理解できなかった。滑らかな唇の動きを見ながらあっけにとられているのにもお構いなく彼女はテープ仕掛けの電話案内のように流暢に話し、一区切りつくと、
「何かお知りになりたいことは?」と、言った。ぼくは肩をすくめた。彼女は再び淀みない電話案内を繰り返した。あるいは次の話に移ったのかもしれない。どこかにスイッチが隠されていないか、とさがしてみたいものだった。オフにするか、もう一度繰り返させるか、いや、これはごめんだ。
「半年の保険料はいくら?」ぼくは、彼女が息をつくのを待って、言葉を挟んだ。彼女はとがめるような表情をした。デスクのファイルを調べて、彼女は言った。
「半年契約はございません」
「一年だといくら?」ぼくが聞いた。ファイルを覗き込もうとすると、彼女はそっと隠した。
140ドルです」失望を露にして背の高い女が言った。
「他には、半年契約の保険会社はないだろうか?」毒くわば皿までの心境であった。
「ステートへ行かれたらいかがでしょうか?」彼女はスタイトとは言わなかった。
AAではシムを薦めるから来てみたんだが、どうもありがとう。とても役に立った」
「どういたしまして」僕が席を立つときには、彼女の指が受付への合図のボタンにかかっていた。

ステート保険は聖堂の東裏、土地測量局と同じビルにあった。シムよりはずっと簡単で、役所のように、といってもここも役所なのだが、書類に書き込んで順番を待てば誰かが相手してくれる。有難いことには、言葉が非常にわかりやすく、残念なことには保険料が高かった。
1年で200ドル、半年で107ドルになります。この書類をあちらへ出して、払っていってください。保険証書(ポリシー)は後ほどお送りします」
送られてきた証書は4ページのもので、約款も証書の裏に8ポイントほどの活字で印刷されているのが全部だった。
これが日本のだと、保険会社が払わなくてもいい場合の免責条項だけでも何ページもあって、保険金を払う場合を書いた方が短くてすむように思う。ひょっとすると何があろうと保険金を払わなくていいような仕掛けになっているのかもしれない。
「ニュージーランド人には、保険で細かい詐欺を働くような才覚がないのよ」姉が言った。
本当らしく聞こえたものだ。
学校から帰ってきた姪をつかまえて、
「カンタベリー平原では雨は主に平原に降る (The rain mainly falls on the plain in the Canterbury Plain)」と言わせた。もちろん、バーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』の一節のもじりである。
「ザ・ライン・マインリー・フォールズ・オン・ザ・プライン・イン・ザ・カンタベリ・プライン」思った通りの発音をした。

奇跡の木

週末の新聞はページがやたらと多く、3分の1ほどが三行広告で占められている。
それ以外のニュースは、
……クライストチャーチ郊外、サムナーの砂浜に500キログラムのあざらしが住みつき、エリザベスと呼ばれるようになった。時折、近くの道路で寝そべる癖があった。ある日フェリー・ミード・ロードでとうとう車と衝突、運輸省は道路障害物とみなした。農林水産省はそうではないと考えた。市民は農林水産省に従ってエリザベスに味方した。
……エリザベスは住みついて半年、浜辺で市民の遊び相手だったが、死体になって砂浜に打ち上げられた。DSIRで解剖したが人為的な死因は見つからなかった。
……林野庁の予算不足でコプランド渓谷のラタの最後の森林が危機にさらされていた。木の芽や実をかじるポッサム退治の費用が出せないためである。追加予算も拒否されてしまった。
……まず成木が倒れ、次に若木が枯れ、林縁植物のカマヒやフージアが続いて枯死する。後には羊歯だけが残ると林野庁は想定していた。
……別の土地では、保護されているはずのリムの木が他の樹木に混じって故意か不注意かで伐採され、製材所の通報で発見された。土地測量局が捜査を始めた。

ロッドが子供を乗せてバンクス半島にドライブに出かけようと言う。
ダイヤーズ峠を越え、大昔の沈降火山、リトルトン湾を囲む道を走った。入り組んだ岬を越える山道で牧場から迷い出た羊の親子が逃げまどった。七面鳥が慌てて柵を飛んだ。杭の上にとまっていたかわせみが金属光沢のブルーをきらめかして木の枝に移った。嘴がもう少し小さいと形がいいんだが。松の切株の脇に色とりどりのルピナスが咲いている。
牧場のあちこちに、運び出されなかった倒木が白い。丘の頂上の垣根に枯木が天を指し、夥しい切株が乾いている。
もうこのあたりから見える海はサムナーのはるか沖合い、ペガサス湾の群青の海だった。
岬の峠を過ぎて崖の上に出る。眼下の入り江の湿地にも切り倒された大木が風雨に晒されていた。
「バンクス半島は森だったんじゃないのか?」
「ああ、西半分、カンタベリー平原に面した側は萱草の丘だった。稜線から東は海に張り出して雨が多いから森林が覆っていた。牧場を造るために一五〇年でほとんど伐り尽くしてしまったんだ」ロッドが言う。
「移民が家を建てるのに使ったし、釜で鯨を煮るのに使った。鯨の脂肪を煮つめてヨーロッパだとかアメリカへ運んだ。あちこちの入り江に製材所も鯨を煮た釜も残っている」

19世紀初頭、移民が押寄せる以前にニュージーランドは鯨とあざらし捕りの基地であった。はるかニューファウンドランドやイングランドからの船は主に髭鯨の髭を当時のコルセットやスカートのスプリング用に、抹香鯨の竜涎香を香料の原料に、あざらしは皮をとるために捕獲した。肉は持って帰れなかったし、食べる習慣もなかったので捨ててしまった。
半世紀を経ずしていくつかの種を絶滅近くに追い込むと彼らはさっさと姿を消してしまった。
ロッドはそれほど積極的な捕鯨反対ではないが、学者らしい立場で生態系を問題にした。
「日本では歴史的に鯨の大部分を利用してきた。各地に鯨の墓があって、未だに毎年、殺した鯨に名前をつけて仏教で追悼するんだ」と、ぼく。
それは彼には驚きだったようだ。
車は砂利を跳ね飛ばしながら稜線への道を上り、アカロアを見下ろす峠まで来た。やはり沈降火山であるアカロア湾を囲む入り組んだ丘陵が波打っている。丘陵は萱草に覆われ、谷間を濃い緑の森が埋める。遠くの丘陵には整然とした杉林が広がる。海はやや水色がかっていて、一隻の蒸気船が煙を吐いている。
サミット・ロードと呼ばれる道はくねくねと稜線を走り、ロッドがめいっぱい飛ばすので子供達は右に左に転げながら喜ぶ。
「子供達はこれが好きなんだ」と、ロッド。
「ヒョーッ」と奇声をあげてハンドルをふらつかせる。子供達は喜ぶ。義兄はおっちょこちょいでもある。

国道75号線をクライストチャーチに向けて走りながらロッドが話した。
「以前にチリの研究者から手紙が来たんだ。熊ん蜂の分類にいい案はないかとね。熊ん蜂だって、何十種類もあって、とりあえず便利な分類として、受粉の役に立つのと立たないのを考えていたところだった。初めはね、役に立つのをハイドロジェン・ボンブス(水素爆弾)、役に立たないのをアトミック・ボンブス(原子爆弾)としようかと考えたんだ」
「ボンブス、っていうのはラテン語で蜂、蜜蜂とか熊ん蜂のようなまるっこい蜂だけど爆弾の意味もある」
「でも、すぐに考え直した。蜂を核爆弾にたとえるのはよくない。核爆弾なんてもともと何の役にも立たないからな」
「で、彼に返事を書いた。役に立つのをバジー・ボンブス、ブンブン蜂、役に立たないのをファシー・ボンブス、ビービー蜂と呼んではどうかとね」
「昨日返事を受け取って、便利な分類だと書いてあった」
「蜂の社会では働くのは雌で、雄は巣の中でごろごろしているんだ。ところが季節によっては食べ物が足りなくなる。そうすると、蜜蜂の世界では雄を巣から放り出してしまう。熊ん蜂は最後まで雄の面倒をみる。同僚のピーターがそれを読んで感動して、『俺は熊ん蜂になりたい!』ってはしゃぎ回ってた」
「で、どうなった?」
「結婚して一生懸命働いている」と、ロッド。

翌る日からまたいくつかの役所を回った。
スクエア近くのステート保険ビルにある土地測量局にも出かけた。
3階の事務所はウォーク・ウェイ(遊歩道)やトラック(登山道)、国立公園、自然保護区、歴史記念物、土地整備事業などを管轄している。
係員を呼んで、ウォーク・ウェイの本を買った。
「いくつか質問したいのですが」
「どうぞ、どうぞ」暇つぶしの材料を見つけた、という感じである。
「まず、国立公園に関して、ナショナル・パークス・アンド・リザーブズ・オーソリティ(国立公園自然保護区局)と、土地測量局とはどういう違いがあるのですか?」
答えに驚いた。
「以前にも同じ質問をしてきた日本人の学生がいたな。それほど日本とは違うのかい?」
暇人が他にもいたとは驚いた。
ニュージーランドの国立公園は完全に国有地化されている。同局は諮問機関で実際の運営は土地測量局が担当する。地域内の開発、施設は厳密に規制される。特別区域、ウィルダネス・エリアは一般立ち入りを事実上禁止される。
「そうでなければ国立公園の意味がないじゃないですか」係員が言った。
全くお説の通り。
「ちょっと待って」係員は奥へ引っ込んで、一冊の本を持ってきた。
「多分、知りたいことはこれに載っているはずだよ。持ってっていいよ」
『国立公園一般方針』と表題された本を寄越した。
歩き読みしていると、日差しが強くて眼がちかちかしてくる。
カフェテラスに座って、紅茶とアスパラガス・サンドイッチを取った。
例えば方針23・ボート。
「国立公園は一般に、ラフティング、カヌーイングおよび他のレクリエーションとしてのボートの優れた適地となる。他の公園利用者や野生動物の邪魔にならないようにということではモーターを使わない活動が好ましい」
32項にものぼる身障者設備から軍事演習の使用規定までの『方針』はそれだけでなかなか興味深い資料である。もちろん、国立公園内の軍事演習は国立公園法が優先する。まして戦車などのオフロード車両の使用はいけないことである。

次にビクトリア・ストリートの林野庁事務所を訪ねた。チーフのノーマン・クリフトン氏はやたらににこやかな人で、日本にも来たことがあるとか。
秘書らしい女性が椅子に腰かけて説明してくれた。
「ニュージーランドの林野庁も過去には市民から離れた存在でした。変わってきたのはこの10年ほどのことです。それは環境保護の意識の高まりと関係しています。1976年に政府が承認した方針では森林の第一の目的を土地、水など環境保護に置き、レクリエーション、材木の生産を二次的なものとしています」秘書が流暢に話す。
「国有林に歩いて入る分には自由である。人か樹木かどちらかに危険がある場合には制限することがある。その場合も十分に納得できる理由がなければならない」のである。
ところでと、在来種の樹木と、輸入種の樹木について質問した。
クリフトン氏が急にニコヤカな表情を見せ、傍らに積み上げた山からパンフレットをこちらに寄越した。しきりに机の上で揉み手をしている。
『ラディアタ・パイン(モントレー松)』の表題で、アート紙を使った立派な冊子は銀の地色に、ラディアタ・パインの林のカラー写真である。
「アメリカ原産のラディアタ・パインがアメリカでは50年かかって成長するのに、ここでは30年しかかかりません。ラディアタ・パインはこの国の林業に貢献するはずです。現に日本にも丸太材やチップを輸出しています。国内的には、家を建てる、枕木になる、牧場の柵、電柱、合板も造れる。何よりもこの国の荒れ地を浸食から守り、治水に役立つ。私たちはこれを『奇跡の木』と呼んでます。ラディアタ・パインの育成のためには、日本にもっと買って貰いたいものですね」
パンフレットの表紙と彼の顔を交互に見比べた。編集責任者としてそのノーマン・クリフトン氏の名がはっきりと記されている。
ぼくが真っ先に訊ねたかったのは、ニュージーランドの在来種のことなのである。
19世紀初頭、白人がヨーロッパから移民を始めたばかりの頃、ニュージーランドの面積の3分の2は森林であった。彼らは町を創り、ヨーロッパに輸出するために樹齢数百年という森林を伐り倒し、運び出した。運び出せない林には火を放った。牧場を広げるために林に火を放った。何でもないときにも火を放った。
2世紀足らずの現在、森林の比率は全土の4分の1である。
愕然とした中央政府が植林を始めたのは19世紀の終わり、大部分が経済効率の高い輸入種のダグラス・ファー、ポンデローサ・パイン、ラディアタ・パインだった。
この国には15000キロの海岸線より何倍も長い牧場の柵が伸び、その2メートルごとにラディアタ・パインの棒杭が鉄条網を固定している。
延長4273キロの国有鉄道にはその1キロごとに1480本のラディアタ・パインの枕木が眠っている。
電柱もほとんどが木である。
パルプは日本の資本も北島ネピア近くのフィリナキに、カーター王子国策パン・パシフィック・リミテッドというひどく妥協的な名の会社を持っている。ここから輸入されたのがネピア・ティッシュだという噂だがよく知らない。多分本当だろう。
住居は大体年に15000戸強が新築され、木造一戸建て、建坪130平方メートル、居住水準良好、特に台所は申し分なし、がこの国の標準である。
新しく植林される樹木には在来種はほとんど含まれていない。このことに批判的な人達も多い。
「それはバランスの問題です。土地保全と経済を考えれば私達は大急ぎで森を育てなければならないんです」秘書が素晴らしく能弁に話す。正直、感心する。なんとなく分かってきた。事務職に働く女性はいとも美しく、格調高く、しかも分かりにくい英語を話す訓練を受けているのだ。

ノーマン・クリフトン氏はやたらと日本に期待していた。
ラディアタ・パインを買うべきだと強調する。ニュージーランドが日本から沢山の工業製品を買うためにもそうする必要がある、と陽気に言う。
彼の陽気さにもかかわらずぼくは憂鬱な気分で林野庁の事務所を出た。
「あなた達はいつだって日本を信頼していいですよ。日本がそれで利益を上げる間はね」と言いたくて、彼らの言葉でどう話せばいいのか分からなかったのだから。

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最終更新: 27-09-2005

 

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