注釈の多い憶良亭日記
(2005年8月)
2005年8月6日
今日は広島原爆投下60周年。シドニーでもハイドパークで集会とデモが行われた。ぼくも行きたかったが、毎週末は娘のネットボール*1、長男のフットボール*2の上に、長男の誕生日ときている。「誕生日祝いに友達を連れて広島デー・ラリーに行かないか?」と長男に聞いたら、ゴキブリでも見るような顔で見られた。少しは社会問題に関心を持ってほしいと思って育ててきたがまったくだめだったみたいだ。妻の方はもっと難しくて、一人で行こうとすると、「くそ忙しいのに家族をほったらかしにして行くんか?」である。結局、いつものように子供のスポーツの送り迎えと長男の友達を集めてのバーベキュー役で一日が過ぎた。子供が手を離れたら一人で参加するぞ。
仕方ないから先日から書きつづけていた記事を掲載する。
ビクトリア女王の銅像の謎
シドニー市内の中心街ジョージ・ストリートに面してタウンホール*3の北側にクィーン・ビクトリア・ビルディングという建物がある。銅板葺きのドームが目立つ建物で、かつてはマーケットとして使われていたらしいが、今は地上3階地下1階の小売雑居ビルになっている。
建物の南側、タウンホール側にビクトリア女王の銅像がある。ビクトリア女王 (1819年−1901年)
は1837年から1901年までイギリス帝国に君臨していたから、64年間玉座にあったことになる。彼女はヨーロッパの王家一手販売業者の血筋だったから、ロシアからイベリア半島までの皇帝・国王・女王とはいとこはとこおいめいおばの間柄だった。また、ビクトリア女王の時代はイギリスが世界に植民地を持ち、世界の半分を抑えていたとか3分の2を抑えていたとか言われるらしい。「帝国に日の没することなし」と言うのは、1日24時間常に世界のどこかのイギリス帝国領が昼間だったから、という意味らしい。
ところで、この銅像の左乳房、といっても服を着ているわけだが、乳房の上に勲章や軍隊警察の徽章に使われそうな6角形の紋様がある。何と呼ぶのか知らないが、多分太陽を象ったものだと思う。その乳房、あたしらの卑俗な英語では「boob」という。上品には「breast」とか「bosom」という。「udder」というと牛のでかく垂れ下がった乳房である。「mamma」という言い方もあるが、一般人が使うとお医者さんごっこ風になるらしい。
閑話休題。その紋様の中心、乳首を隠すように円があり、円の中になんやらまた紋様がある。右下の写真が左の乳房の拡大写真である。何本かまだらな縦筋が見えるが、空と銅像のコントラストが低い日を狙って小雨の中で撮影したため、雨粒が流れていた。

写真では分かりにくいが、カメラに望遠レンズを付けて覗くと、これがシャムロックなのである。和名は「コメツブツメクサ」というらしいが、シャムロックはアイルランドの国花である。「shamrock」もアイルランド語の「seamrog」から来ている。「seamair」というとクローバー、シロツメクサである。昔、ドルイッドの時代に聖パトリックがアイルランド島に布教に来て、父と子と聖霊の「三位一体」をシャムロックの三つ葉にたとえたので、アイルランド人が「パドレーグさん*4、ええこと言わはる」と感心してキリスト教に帰依したということになっている。アイルランドにヘビがいないのも聖パトリックの奇跡ということになっている。しかし、シャムロックとビクトリア女王というのは解せない取り合わせである。しかもそのアイルランドの象徴が女王の心臓にもっとも近い左の乳首にあるのだから何かいわくがあるに違いない。
ここで歴史をひもとくと、アイルランドは何百年もイギリスの支配下にあった。ビクトリア女王が即位して10年を経ず、1846年頃からアイルランドではジャガイモにカビ*5の取りつく疫病が流行し、ジャガイモを主食としていたアイルランド人に餓死者が続出、生き残った者も多くがイギリス、アメリカ、オーストラリアなどに移民し、800万以上というアイルランド島の人口が半減した。「ジャガイモが食べられないのなら、麦を食えばいい」と考えた読者は歴史の真実に一歩近づいたことになる。実は当時、ジャガイモ以外の農作物はむしろ豊作だった。しかし、作物はイギリスの地主がすべてイギリス本国に輸出しており、アイランド人が麦を盗んで食べれば厳罰に処せられたのである。飢饉というのはほとんどの場合天災ではなく、人災である。アイルランドの場合も例外ではなかった。当時、アイルランド人の難儀を知った北米の先住民族チェロキー
(チョクトー) が金を寄せ合ってアイルランドに食糧を送っており、その額は当時の金で4万ドルにものぼるそうだ。一説によると、当時ビクトリア女王も苦しんでいるアイルランド人に5ポンドの義捐金を贈り、同時にイギリスの伝統ともなる「動物愛護」のため、野犬収容所にも5ポンドを寄付したそうな。
この探偵も高校の世界史で「ジャガイモ飢饉」は習ったが、「他の農作物は豊作だったがアイルランド人が食べることは許されなかった」ことは教わらなかった*6。ビクトリア女王治世下のイギリス政府とイギリスの富裕階級によって、人口の半分が餓死するか故郷を離れるかしなければならなかったのである。これでアイルランド人がビクトリア女王を敬愛するならよほどのお人好しというものだ。
銅像の台座に3枚の碑銘がある。その1枚を見てみよう。
「シドニー市の懇請により、アイルランド政府と同国民は、親善と友好のしるしとして、このビクトリア女王の銅像を寄贈する。この銅像は、1947年まで、現アイルランド国会議事堂のあるダブリン市のレンスター・ハウス*7の前に建っていた」
とある。銅像は、1988年の「オーストラリア建国200年*8」に合わせてアイルランドから寄贈されたらしい。
不可解なのは、一つにはビクトリア女王がアイルランド人に好かれていないこととその銅像を「親善と友好のしるしとして」寄贈することの関係、もう一つには銅像がレンスター・ハウス前から撤去された1947年からオーストラリアに贈られた1987年までの40年間が空白だということである。そもそも自分の嫌いなものを人にやるのが「親善と友好のしるし」だろうか?
日本語では通常「ババ抜き」というが、英語で同じような表現があるのかどうか知らない。
もう少し調べてみよう。
たまたま手元に「IRELAND A History」-1982, ABACUS, Sphere Books Ltd.という本がある。Robert Keeというプロデューサが、BBC (イギリスの国営放送局) とRTE (アイルランドの国営放送局)
合作の同名のミニシリーズ番組にあわせて編纂した本で、206ページにビクトリア女王の銅像撤去の現場写真が載っている。参考資料として掲載する。
下の写真を見てもらいたい。銅像とはいえ、首にロープをかけて吊り上げている様子はなんとなく絞首刑を思い出させてあまり気持ちよくない。しかし、銅像の形状として、首にロープをかけるしかなかったのかもしれないとも思う。
右ページ下隅のキャプションに1946年とある。この写真ではよく分からないが、上のシドニーにある銅像と見比べると同一であることは確かなように思われる。
一体、撤去されたのは1946年なのか1947年なのか。もう少し調べてみよう。インターネットで調べると1930年12月11日のDa'il E'ireann*9
(アイルランド議会) の議事録に質疑応答があった。
トーマス・オマローン議員: (財務大臣に質問して) レンスター・ハウス前のビクトリア女王の銅像を撤去する予定はおありか? もしあるならいつから作業を始めるのか?
財務大臣ブライス: 只今ご質問にありました銅像は、芸術的に価値があるとも、またとりわけ見よいものとも考えられておりません。しかしながら、国民のための公費を使ってまで撤去しなければならないほど公共社会に有害下劣なものとも考えられておりません。
モリシー議員: その目的のために30万ポンドの一部でも充当することはお考えになりませんか?
財務大臣ブライス: いいえ、そんな金があればもっと他に有効な使い道があると考えます。
アイルランドが独立、内戦を経たのが1922年だから、まだ8年しか経ってない時期である。「ビクトリア女王が憎いからどうあっても撤去しろ」という人たちと、「気持ちは分かるが、この時節にそのために大金を使うほどのこともあるまい」という人たちがいたことが分かる。
1948年6月30日のDa'il E'ireannでも、ビクトリア女王の銅像の撤去問題が出てくる。
レヘイン議員: レンスター・ハウスの庭に外国の君主の銅像が建っており、いまだに撤去されないので国民は憤激しております。首相はそのことをご存じですか? 早急に銅像を撤去することが提案されているかどうかを明らかにしていただきたい。
ジョン・コステロ首相: 昨年9月、レンスター・ハウスに駐車場を設ける計画が承認されましたが、この作業に伴い、銅像の撤去が必要でありまして、それにつきましては、来月早々にも開始される予定であります。
レヘイン議員: アイルランド国民もそれを聞いて満足でありましょう。
つまり、1948年6月末の段階で銅像がまだ撤去されていないことになる。すると、Keeの1946年説とも前記の碑銘にある「1947年までレンスター・ハウスの前に建っていた」という説とも食い違ってくる。議会議事録のインターネット掲載時に年を間違えたというのはあまりありそうにないから、1948年が正しいのではないかと思われる。
ともかく銅像が撤去されたのは確かであり、リムリック・アシニーアム*10の講演録記事
http://www.limerick.com/theroyal/thebook/politics.html
の一番下に、Keeの本に掲載されているのと同じ撤去作業の写真が掲載されている。背景の建物は現国会議事堂 (当時のレンスター・ハウス) のように思われる。
1949年7月12日には「撤去された銅像」の処分について質疑応答がある。
ブリスコー議員: 財務大臣にお尋ねする。つい先頃レンスター・ハウス前から撤去されたビクトリア女王の銅像に関して、カナダのオンタリオ州ロンドン市から問い合わせがありましたか? 銅像の処分に関してどのような取り決めになっていますか?
輸送費支払いに関して何らかの言及がありましたか? また銅像処分の条件についてロンドン市に通知するおつもりはありますか?
パトリック・マッギリガン財務大臣:
オンタリオ州ロンドン市議会より、同市の公園に当該銅像を移転設置したいが、その条件を知りたいという問い合わせがありました。この申し出に関して早急に決定し、ロンドン市議会に通知したいと考えております。条件につきましてはまだ最終的な決定に至っておりませんが、輸送の経費いっさいをアイルランドの公庫の負担としてはならないという一行を入れることも考えられます。問い合わせでは輸送経費の言及はございません。
カナダ連邦のオンタリオ州ロンドン市のビクトリア女王銅像購入が成功したのかどうかは記載されていないが、1987年10月21日、アイルランド国会で当時のオーストラリア連邦首相ボブ・ホークが来賓として演説している。その一節を引用する。
「(前日のユニバーシティ・カレッジでの講演において)
間もなく、アイルランドからオーストラリアに新しく著名な人物が到着することになっていると申し上げました。シドニーにおいては、クィーン・ビクトリア・ビルディングの修復が完成し、建物を飾る銅像が必要だということで世界中を探し回っておりました。探し求めていた銅像というのは他でもないビクトリア女王ご自身の銅像というわけでありますが、ビクトリア女王時代のイギリス植民地では、タウンホール、シティ・プラザ、あるいは個人の君主崇拝者にも、私たちの希望する女王銅像を快く譲ってくださるところは見つかりませんでした。しかし、探索がアイルランドに及んだところで問題は解決しました。それもこのダブリン市においてであります。しかも、ビクトリア女王の銅像がこの議事堂からほど遠くないところで見つかり、これをシドニーに輸送、シドニーに輸送という言葉を昔とは違った意味で用いておりますが*11、シドニーに輸送し、公共の場に設置することになりました。ここにご報告できることを欣快とするものであります」

左の写真はビクトリア女王の銅像の台座にあるもう1枚の碑板で、ニール・グラッサーという人物が「このビクトリア女王の銅像をアイルランドで発見し、取得し、シドニーに運んだ」とある。銅像の宣伝をしたいのか、自分の手柄を宣伝したいのかよく分からないが、たいていの像や碑にはこの手の文言がある。
撤去されたのが、1946年、47年、48年のいずれであったにしろ、では撤去された銅像は40年間どこにあったのか?
ホーク首相は「レンスター・ハウス現アイルランド国会議事堂近くで見つかった」と言っているだけである。そもそもレンスターというのは、コナハト、ムンスター、アルスターとアイルランド島を分けている4つの地方の一つであり、古王国の一つである。ダブリンと同じレンスターに属するミース県 (County) の役所のウェブサイトに記述がある。
http://www.meath.ie/art_collection/essay.htm
「ミース県役所では公共財産の彫像を売却する意思はないと信ずるが、1948年までレンスター・ハウスの外側に建っていたビクトリア女王の銅像の撤去に関して国会内外で激烈な論議が交わされたことを心に留めておきたい。大理石の台座に載せられた青銅の女王を保存することに賛成する者はほとんどいないであろうが、政治色の強いこの銅像をどこに持っていくか、という問題はそれ以後優に20年以上にわたって政治家や識者の議論の的になってきた。結局以後40年間お蔵入りしていた後、ビクトリア女王は、チャールズ・ホーキー政権によってオーストラリアに寄贈されることになった。この銅像はオーストラリアにおいても遠からず同じような運命にあうと思われる」
この記述のどこにも、銅像が保存されていた場所が明記されていないが、「誰に押しつけるか」という問題で意見が分かれたことが察せられる。ところが、アイルランドの建築ウェブサイトのキルメイナム病院のページに次のような記述がある。
http://www.irish-architecture.com/buildings_ireland/dublin/kilmainham/rhk.html
「中庭を囲む建物は、アイルランド独立後にダブリンの市街から撤去されたイギリス君主の像の保管場所として使われていた。レンスター・ハウスの前から撤去されたビクトリア女王の銅像もここに長年保管されていたが、オーストラリアのビクトリア市 (the city of Victoria in Australia) に売却された」
アイルランド政府とアイルランド国民は、「親善と友好のために」この銅像をシドニー市民に寄贈したのかもしれないが、当の銅像はアイルランド国民にうとまれ、「多額の公費を費やしてまで撤去する価値もない」とまで言われ、病院の物置同然の部屋に40年間も「保管」されていた物を、ビクトリア女王の銅像を欲しがるいまどき珍しい「シドニー市民」に寄贈したというのが真相と思われる。ただし、オーストラリアにビクトリア市という市はないから、これはキルメイナム病院の記事の著者の書き間違いだろうし、金品の授受があったのかどうかもはっきりしない。
シドニーにはこの他にもう一つ、ハイドパーク*12の北側、裁判所とセント・ジェームズ教会、ハイドパーク・バラックス*13に囲まれた一角にビクトリア女王の立像がある。こちらは調べたことがないが、ともかくビクトリア女王の坐像の左乳房に置かれているシャムロックの謎はこれで解けた。
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*1 屋外にバスケットボール・コート・サイズの長方形があり、両端の柱にバスケットボールのバスケットの輪っかだけが取り付けられており、サッカーボール大のボールを使って遊ぶ球技。
*2 長男の参加しているフットボールはAFLというビクトリア州メルボルンを発祥とするオーストラリア独自の球技 (オージー・ルールと呼ばれる) で、ラグビーと似ているが、ラグビーのような格闘技ではない。プレーは、ラグビーの長方形と違って楕円形のオーバルで行われる。
*3 日本でいうと市役所にあたるのだが、通常市議会以外には催し物会場とか市民窓口しかない。各部課はそれぞれあちこちに事務所を持っていて、市民は用向きごとにそれぞれの事務所に出かける。
*4 アイルランドの守護聖人Saint Patrickは、アイルランド語ではNaomh Padraigh (ニーブ・パドレーグ) という。
*5 Phytophthora infestansによる病気で日本では胴枯病というらしい。
*6 それ以来160年経ったが、今ではアフリカの「慢性飢餓」国のほとんどが「食糧輸出国」である。人々が飢餓で苦しんでいる隣の農場では作物を先進国に出荷しているのである。
*7 http://www.irelandposters.com/dublin_city/leinster_house_dublin_ireland.html
*8
1788年1月26日、アーサー・フィリップス提督の率いる総勢1400人ほどの流刑囚人、植民地軍将校兵士の一団がシドニーの現在サーキュラー・キーと呼ばれている入り江に上陸し、フィリップスは「ニューサウスウェールズ植民地」の宣言をして、自らはイギリス政府の命令により初代総督に就任した。その夜、囚人も将校兵士もラムをたらふく飲み、男も女も同じテントに入り込んで酒池肉林だったらしく、翌朝、フィリップス総督は「今後このようなことがあれば厳罰に処す」と通達したという。その200年記念が1988年に盛大に行われた。
*9 おそらく「ダール・エーラン」と発音する。「アイルランド」のアイルランド語名は「Eire」だが、アイルランド語の活用はかなり複雑で、「Eire」の「Dail (集会、議会)」は、このようになる。
*10 LimerickはMunsterの1県。
*11 昔の「シドニーに輸送(transport)」とは、シドニーのあるニューサウスウェールズ植民地がかつてイギリスの流刑地で、遠島された囚人がシドニーに輸送されたことを意味している。
*12 市内にある長方形の公園で、かつては競馬場だった。ここで開かれた競馬が反時計回りだったためにオーストラリアの競馬が反時計回りになったという説がある。
*13 バラックというと日本では「掘っ立て小屋」の意味で使われているが、英語では兵舎とか集団用の大型宿舎の意味で使われるのが普通。
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