このサイトが有名な歌人の名を選んだ理由は、亭主の狂歌「しろがねもくがねも玉もないけれどまされる宝ばかりごろごろ」の本歌にちなんだもの。
山上憶良
660(斉明6)〜733(天平5)
701(大宝1)年1月、第7次遣唐使の少録。この時は無位。
714(和銅7)年1月、従五位下。
716(霊亀2)年4月、伯耆守。
721(養老5)年1月、首皇子の侍講に任命。
726(神亀3)年、筑前守に任命。
732(天平4)年、冬、「貧窮問答歌」
733(天平5)年6月、「老身重病歌」。「沈痾の時の歌」 病没(74歳)。
貧窮問答歌 (広辞苑より)
風雑(まじ)へ 雨降る夜(よ)の 雨雑へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく寒くしあれば 堅塩(かたしお)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ)うち啜(すす)ろひて 咳(しわぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ鬚(ひげ)かき撫でて 我(あれ)を除(お)きて 人は在らじと 誇ろへど寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ)有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我(われ)よりも貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは吟(によ)び泣くらむ 此の時は 如何(いか)にしつつか汝(な)が世は渡る天地は 広しといへど 吾(あ)が為(ため)は 狭(さ)くやなりぬる日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為は 照りや給はぬ人皆か 吾(あれ)のみや然る わくらばに 人とはあるを人並(ひとなみ)に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる 襤褸(かかふ)のみ肩にうち懸け 伏廬(ふせいお)の 曲廬(まげいお)の内に 直土(ひたつち)に藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に囲み居て 憂え吟(さまよ)ひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣懸(か)きて 飯(いい)炊(かし)く事も忘れて ぬえどりの 呻吟(のどよ)ひ居(お)るに いとのきて短き物を 端(はし)截(き)ると 云へるが如く 楚(しもと)取る里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ斯くばかり 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道
世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
日本の清貧・貪貧フォークシンガーが元祖、本家、氏神と仰ぐなら、この山上憶良をおいて他にない。なにしろ、せんにひゃくななじゅうねんも前に「あら塩なめなめ、湯に溶いた酒粕を酒代わりに啜り、咳はゴホゴホ、鼻はグスグス、貧相な無精ヒゲなどかきなで、あいつらがなんぼのもんや。俺の方ができるわえ、などと思ってはみても、寒さが身にしみれば、粗末な布団など頭からかぶり...」と歌っているのだから。しかも、遣唐使、万葉歌人、「類聚歌林」編者、皇太子の侍講とそれなりに重用され、貴族だから一応エリートではあったのだが出世競争に縁がなく、かと言って超俗ぶっていたわけでもなく、愚痴もこぼしている。筑前守として太宰府に赴任したのが66歳の時。窓際族として左遷されたのではないだろうか。愚痴と泣き言を歌に残してこの世を去った「憶良」こそ清貧・貪貧フォークシンガーの元祖にふさわしい。
亭主田中研二の紹介を読みたい人は、シールズ・レコードのウェブサイトで「プロファイル」をご覧ください。