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12年と12日 その12 ピンクの手紙 (最終回)

休暇もほぼ半ばが過ぎたが、相変わらず大阪は夏だったし、子供たちはずっとカオスだった。なぜ大阪には「暑苦しさ」がこんなにも似合うのだろう。まるで大阪は夏も冬も暑苦しいみたいではないか。むしろ「大阪も朝晩爽やかな季節に」なるなんてかなり無理しても想像できない。大阪には不思議な魔力がある。シドニーの真冬の雑踏で隣の観光客グループから「あの人ら、ほんまめちゃけたくそ悪いでえ。うち、どないしたろか思うわあ」なんて声が聞こえてくると、大阪語のねっとりした重力を感じる。一度その重力圏にはまり込むと心が地べたに寝っ転がってしまって、再び立ち上がることも難しい。だからといってぼくが大阪を嫌っているわけではない。大阪の重力圏に入るのはなかなかの快感なんである。バンパイヤに血を吸われて自分もバンパイヤに変身していく快感にも似ている。ちょっと無理な喩えだった。
以前、仕事でアナウンサーの録音に立ち会ったことがある。依頼主の取引相手企業からも2人来ていた。副調室でぼくの前に座っていた企業の女が突然隣の同僚にささやいた。
「いやあねえ、あの人、大阪の人じゃない? 訛ってるわ」
普通、副調室には金属バットを備えないものである。その時も備えてなかった。「ちょっとすんません、あのー、金属バットはありますか」とミキサーに聞く。「金属バットなんか、どうしますんや?」 「あの、ちょっと。前に座ってる人の頭が訛ってるんで、直してあげようかと…」
アイルランド語を勉強し始めた頃、ティムがアイルランド語には標準語がないと教えてくれた。ほたら学校の教科書はどないしてるねん。ダブリンの学校はダブリン方言を教えるし、ゴルウェーの学校はゴルウェー方言を教える。ラジオはどないすんの。ラジオ局も自分その土地の方言で放送する。そらええ心がけやわ。民主的や。世間には自分とこが標準やいうて偉そうにしだすアホがいっぱいおるさかいなあ。そういうのとはちょっと違う、とティムがいった。アイルランド人は、どの県の人も自分たちの方言を標準語にしようとして争ったわけではない。どの県の人も他県の方言を標準語にさせまいとして争っただけだ。なるほどなあ。アイルランド人の機微やなあ。

実家は、といっても高層住宅の7階、もう昔のようなへちま水も朝顔の鉢植えもよしずもない。聞こえてくるのは蝉しぐれではなく、ベランダからすぐそこに見える、かつて「三島の学校ボロ学校、今日も朝からシラミ取り、先生一匹取れました、取れた人から帰りなさい」と歌われた創立百何十年を誇る小学校の騒音、隣近所の空調の暑苦しい騒音、それにテレビのオリンピック中継だった。歌っていたのは誰あろうこの旅日記の筆者だったし、その筆者はとんと空調には無縁だった。無縁だったこともあって空調があまり好きになれない。あれは本人は涼しいかもしれないが周囲の者に自分とこの暑苦しさを押しつける利己主義を形にしたような装置だし、しかも、ごく小さな空間を閉めきって冷やし、中の食べ物を長持ちさせる冷蔵庫と違って、部屋を冷やしても中の人間が長持ちするという保証はまったくない。
結局オリンピック中継の方を聞くともなしに聞いているうちに、スポーツに使う金の半分でも文化に使ってくれれば…と考えかけてやめた。政府から金が出るとなるとどうせ権力にとって毒にも薬にもならない文化や政府の援助がなければ死に絶えるパンダのような文化がうるおうだけである。それなら今と少しも変わらない。権力に批判的な文化ならどこまでも自分持ちでやるのが当然というものだ。それに、経験的にいえばどんな政府だってスポーツに大金をばらまくよりもましなことができたためしがない。そう考えるとまた暑苦しくなった。

どみにくのなつやすみのにっき
9がつ18にち あさおきて、ピンキーとマムのかってきたおすしをたべました。ごはんをたべたあとでピンキーとピンキーのいぬとアランとモニカとぼくでさんぽしました。ピンキーはすこっぷとぷらすちっくぶくろをもって、いぬのうんちをひろってあるきました。いぬのうんちをひろってあるくひとをはじめてみました。そのあと、でんしゃにのっておおきなまちにいきました。
きょうはたのしみにしていたぽけもん・せんたーにいくひです。まくどなるどくらいのおおきさのみせがぜんぶぽけもんでした。にほんじゅうがでじもんやぽけもんみたいなあにめのもんすたーでいっぱいなゆめをみたことがあります。ゆめのとおりでした。そのあとみせがいっぱいならんでいるとおりをあるきました。ふしぎなけしょうをしたおねえさんたちがたくさんあるいていました。にほんでもんすたー・あにめができたわけがわかるようなきがしました。そのあとれすとらんがたくさんならんでいるちかがいをあるきました。ぼくはぐらたんがたべたかったのですが、ダディがおまえはぐるめだからこまる、といい、ぬーどるとぎゃおずー(ぎょうざ)のみせにさっさとはいっていきました。ひるごはんをたべたあと、おばあちゃんのいえにかえってねました。
9がつ19にち あさおきて、おばあちゃんのつくってくれたあさごはんをたべました。ごはんのあとでマムがはをみがきなさいといいました。ぼくははをみがくのがだいきらいなので、ふぁっく、といいました。マムは、オーマイゴッド、なんてことをいうのこのこはといいました。ダディが、どこでそんなことばをおそわったんだ? といったので、マムがつかってた、とぼくがいったら、また、ダディとマムのくちげんかがはじまり、マムははみがきのことをすっかりわすれてしまいました。
そのあと、でんしゃにのってきょうとにいきました。ダディはまだちょっとむすっとしているし、マムはぷんぷんしていました。ゆうえんちのようなでんしゃにのりました。でんしゃがやまのなかにはいっていくと、あきちにピノキオのようなはなをしたおおきなおめんがありました。アランとモニカとぼくはこわい、こわい、といっておおわらいしました。
でんしゃはやまのなかのえきでとまりました。ひろいいしだんをあがるとおおきなたてものがありました。たてものからけーぶるかーにのってやまのうえまであがるとそこにもたてものがありました。みずのみばもありました。アランやモニカとみずをかけあってあそぶのがすきなので、ぼくはおてらやじんじゃのみずのみばがだいすきです。みずのかけあいをしたらのどがかわいたのでじゅーすをかってもらいました。かえりはあるいてやまをおり、でんしゃにのってきょうとにもどりました。
びっぐまっくではんばーがーをたべたあと、くらくなってからうんとあるいてせまいぱぶにいきました。オーストラリアでみたことがないくらいちっちゃくてしらゆきひめのこびとのおみせみたいです。おみせのひとはじんさんといって、ダディのわかいころのおともだちだそうです。じゅーすをのんだり、ごはんをたべたりしているとダディのおともだちがもっとやってきました。じんさんがおみせにあったおもちゃをぼくたちにくれました。マムはダディのことをびんぼうにんとかふろうしゃとよびます。ダディのともだちもみんなマムのともだちよりうんとびんぼうみたいですが、こどもにやさしいし、いろんなものをくれます。マムのともだちはおかねもちでもこどもにやさしいひとはすくないし、なにかくれる人はもっとすくないです。ぼくは、びんぼうでもこどもにやさしいひとのほうがすきです。
よるおそくでんしゃにのっておばあちゃんのいえにかえりました。マムが、はをみがきなさい、といいました。マムとダディがくちげんかすればはをみがかなくてすむとおもって、ふぁっくといいました。マムが、みがきなさいといったでしょうとこわいかおをして、ダディはしらんかおをしていました。しかたなく、はをみがいてねました。

 けんじのたびにっき
家族を海遊館見物に行かせることにして、ぼくは何か月も前から楽しみにしていた駅弁を買って新幹線に乗った。東京はそれほど変わってなくて、昔の土地勘で迷わずに地下鉄を降り、目当ての階段を上がることができた。12年ぶりの岩永正敏は頭が少し薄くなり、ヒゲが少し濃くなっていた。友部の連れ合いの由美さんは、岩永正敏と絵描きの鈴木コージとぼくの3人を「三大化け物」と評したことがある。二人の顔を思い浮かべて、なるほどなあ、うまいこというなあ、と感心したが、大成した岩永や鈴木コージに比べればぼくは未だに由緒正しい馬の骨でござい、などとヘラヘラしていても、同じ馬の骨なら少しは名のある馬の骨になりたいものだと思うことがあるから、馬骨としてはまだ性根が据わっていないというものだ。反省する。
オーストラリアに渡る前、しばらく渋谷にある友人の貿易会社で働いていたことがある。何しろ世間のお世話になりっぱなしのぼくである。友人にしてみればできの悪い居候を置いているような思いだったのかもしれない。渋谷駅と仕事場それに岩永の事務所のある原宿周辺にかけては表通りも裏通りもよく歩いた。そのあたりは若くて金があれば面白いところなんだろうなと思うが残念なことにぼくにはどちらも欠けていた。若い時期というのはあったがその頃はさらに金がなかった。たとえ金があったとしても原宿周辺の雰囲気はぼくの好みではない。
お金があったら、よその人らみたいにバリ島とかゴールドコーストでのんびりできるのに情けないなあとアンマリーがいう。バリ島とかゴールドコーストで暑苦しい砂浜歩いたり、海岸のリゾート・ホテルで隣にいやになるほど水があるいうのにわざわざ塩素臭いプールに入ってバカ高いトロピカル・カクテル啜って何が面白いのか全然分からん、とぼく。アンマリーは、話にならんわ、という顔をする。ぼくは、口ゲンカにならなくてよかったと胸をなでおろす。
ボードレールの「パリの憂鬱」だったと思うが、旅回りの芸人にあこがれた少年の話がある。少年は仲間に加えてもらいたくて二人組の芸人の後をつけていく。芸人は森に入って腰をおろす。少年は木陰から見守っている。二人組は懐から袋を出すとご鳥目を数え、山分けする。少年はがっかりして家に戻っていく、それだけの話だった。

夕暮れ、岩永に連れられ、井の頭線沿いの町の店に入った。
「もうそろそろみんな来る頃や」と岩永がいううちに、やあ、久しぶり。元気やったか。あっという間に10人ほどになる。みんな律儀で結構なことや。オーストラリアでパーティする時は2時間は余裕をみとかないかん。律儀なぼくの友人知己には思い出せる顔もあるし、失礼ながら思い出せない顔もある。岩永を通して知り合ったかなり堅気な人たちと音楽を通して知り合ったそれなりに堅気な人たちが集まってくれた。共通点としてはほとんどすべてぼくがお世話になった人たちで、ぼくがお世話した人は一人もいない。このまま世間のお世話になりっぱなしで人生終わるかも知れないと思うと、やっぱり少しは名を知られた馬の骨になりたいものだとあせるがそのあせりが長続きしたことはない。なにしろ真面目廃業宣言をした身の上である。
友部夫婦は最近東京にいるのかニューヨークにいるのかよく分からない。一人息子の一穂はすっかり大きくなって巣立ったようだ。あれは1970年のことだったと思う。真知子ちゃんの紹介で、ギターを持って松本から名古屋に出かけていった。当時友部は芝居をやっている人のところに居候していたように思う。友部が歌っていた栄地下に連れていってもらったし、ペケやその友達の竹内君と出会ったのもその時だったと思う。名古屋も殺風景で暑い町だった。友部から500円借りて豊田まで電車で行き、ゲジこと三枝茂樹少年と会い、ヒッチハイクで足助から飯田に抜けて松本に戻った。飯田街道国道153号線は、狭い谷間の村や町を縫って細々と伸びていた。道が木曽山脈を抜けたあたりで、緑の谷を隔てて真向こうに見える、真っ青な空の下、稜線に雪を残した鮮烈な赤石山脈の姿を今でも思い出すことができる。それからは名古屋や豊田の人たちとは何度も行き来があったし、ぼくが使っていたマーチンはゲジから譲り受けたものだった。何年か過ぎたある夜ぼくの自宅にペケから電話があり、ゲジが心不全で亡くなったと聞かされた。
ぼくが日本を出る前に渋谷でビニール盤レコードの店をやっていたお近さんは、「どんな事情でもタナケンが落ち着いたのはええこっちゃ」といったが、体を悪くしていて、コンピュータのマウスも自由に使えないという。お近さんには儲からないぼくのマネージャをやってもらっていて二人でずいぶん珍道中をやった。それもずいぶん昔のことになってしまった。
「タナケン、憶えてるか?」近さんの隣の男がいった。
「うん? ひょっとして?」
「そうや、フータや」えらい変わらはって。「ガンで胃切ってなあ。飯食わんとビールで生きてんねん」相変わらずむちゃな生き方してるんやな。
「子供になあ、竹筒でディッジェリドゥー(オーストラリア・アボリジニの民族楽器)作ってやってなあ、学校で練習しとるねん」とフータがいった。
そうか、フータもお父ちゃんか。春一を復活させたというのは聞いてたが。
大江田君と佐久間順平もなつかしい。元林亭のこの二人ともいろんな思い出がある。順平を騙して北海道まで連れて行ったことがある。途中の仙台では黒木瞳の前座で歌うたんと違うやろか。ねえ、佐久間君。
一人見覚えのない人がいて、自己紹介して初めて、ぼくのレコードを復刻してくださった秋山さんだと知った。いや、すんませんね、私のレコードで大損しなければいいんですが。いいえ、大丈夫です。
その夜会った人にはそれぞれの思い出がある。再び会うことがあるのかどうか分からない。そして思い出には必ずいくぶんかの悔恨が伴っている。
「今いちばんやりたいことは、もういっぺん自転車に乗れるようになりたいことや」といったお近さんの言葉が心の中にいつまでも残っていた。
翌日、再び駅弁を買って乗った新幹線が富士の麓にさしかかった。個人的な好みでいえば屈折のないコニーデの山容をそれほど面白いと思わない。しかし、不二だ、芙蓉の峰だ、国の誇りだといいながら、その「国の誇り」に軍事演習地を作り、原始林を乱開発し、麓から頂上までゴミ溜めのように扱って恥じないわが「同胞」のことを考えると、この山に同情しないわけにはいかない。
相模の国を一刻百里で過ぎつつ、富士を見上げて読める狂歌一つ
国栄えて山河なし
やがてほころび
元も子もなし
突然、時速200キロで傾いてカーブを曲がっていく列車が怖くなった。こんなスピードの感覚をすっかり忘れていた。

飛行機がケーブルカーのようにぐんぐんと高度を増し、グッと傾くと黒地に黄絵の具をちりばめたような点描画が窓の外をゆっくりと旋回してゆき、やがて視界から外れると窓の外はまったくの闇になった。子供たちは冬ごもりの熊のように座席の中で身を動かし、快適な姿勢を探し始めた。飛行機の座席というのはどうして待合室の座席みたいなんだろう。違いといえば飛行機の座席の方が少し狭苦しいということだけだ。
夜が明けると、間もなくブリスベン空港という案内があった。そこで乗客は一旦外に出なければならない。待合室は暑いのか涼しいのかよく分からない空調特有の空気で、背中にジトっと汗がたまっていった。隣接した小売店でおもちゃとゲームを熱心に見ていた子供たちはやがてあきると待合室の床にゴロゴロ転がり始めた。
「ほら、あれ見て」とアンマリーが指さした方を見ると、がら空きの待合室の向こうを2,3人いかにも刑事という雰囲気の男たちが、一人の男を囲んで歩いていた。男はこわばったような両手を前に突き出していた。
男たちは待合室の片隅に陣取った。
再び飛行機に乗り込み、気分はもうシドニーだった。
「後どれくらい?」とドミニクが聞いてきた。
「うーん。1時間くらい」
やがて窓に長い入り江とそれを取り囲む市街地が見えてきた。
「オーストラリアの港としては世界一美しい」と言われるシドニー・ハーバーである。

再び喧噪の日常が始まった。
留守中にいくつか問い合わせがあったが、返事ができなかったからお得意を逃したことになる。
ドミニクは自分の姿が白人の友人たちと違っていることをいわなくなった。アランはクラスでプレゼンテーションといって何か品物を見せてできごとを話す時間に、日本の印象としてゲームとポケモンのことしか話さなかったのでオドワイヤー先生にからかわれた。
オーストラリアに戻ってひと月、10月24日付でピンクから手紙が届いた。よしなしごとの結びに、
「(前略)お子様からのハガキ、涙が出た。私も一緒に犬の散歩のついでに、お子様たちといっしょに散歩できたことは本当にいい思い出になりました。(中略)お子様たちに、いつでも自力でたどり着いてくれたら歓迎しまっせ。(後略)」
とあった。子供たちに訳して聞かせたきり、ドタバタとした毎日にまぎれてそのままピンクのことをすっかり忘れていた。
仕事を一休みして台所に立ち、やかんに水を入れ、火にかける。郵便物が来ているかもしれない湯が沸くまでに見てこようと玄関に向かうモニカが寄ってくるダディ戸を開けてえなうん今開けるあれ鍵がかかっとるわ鍵は鍵はどこやろポケットにないからバッグかもしれんなあバッグはどこやバッグが見つからへんあんな大きなもんなくなるわけないやろ鍵はどこやろバッグはどこやろあんたアランとドミニクがまたケンカしとるわなんとかいうたってやなんかいうたっていうたって毎度のことや何いうても効果ないゆうことは知ってるやろ今バッグ探してるんやバッグはどこやバッグなんか後回しにしてケンカの方は見てえな殺し合いしよるであの二人大丈夫や食べ物のもめごとやない限り殺し合いにはならへんどないしたんや?なんでケンカしとんねん?ダディ鍵まだ?ちょっと待ってえやこっちが先や何いうてんのんかよう分からんどういうことなんやアラン?ドミニクがビスケット2枚しか食べてないのにぼくが3枚食べたいうてる何枚食べたんや?2枚や嘘つき!ダディ鍵はまだ?待ってくれいうてるやろアラン何枚食べたんや2枚ドミニクは嘘やいうてるダディ鍵はまだ?待ちーやあんた子供部屋の電球が切れたから取り換えてやいうて頼んどいたんどうなったん?仕事で忙しかったんやないか忙しいゆうて電球取り換えるのに何年かかんねん?ダディ鍵はまだ?ビスケットは3枚やゆうてるやないか?今すぐ電球換えてえや鍵まだ?何枚食べたんや今食べたのは2枚だけそれ以外には何時間も前に1枚だけ電球換えるのに脚立がいるやないか脚立はどこやいつものとこにあるいつものとこゆうてこの前までここにあったのにないやんけガレージの裏に移したん知らんのんかいつ移したんや家のことなーんにもせえへんから脚立移したことも気づいてへんのやろ知るもんかタンスでもテーブルでも3日に1回は場所変えてるやないか電球はどこやあ電球も場所変わってるわビスケットもう1枚食べてもええかアランの方が1枚たくさん食べよったんやからああ勝手に食べモニカそこで何してるんやああそうか郵便見に行くんやったあれまだ鍵かかったままやそういうたら鍵探しとったんやな。いきなり女房の声が台所から聞こえてきた。あんた、またやかんかけっぱなしにしたまま、うろうろしてたらあかんで。

そういう何の波乱もない平穏な日常を引き裂くように、ピンクに会ってからちょうど2か月が過ぎた11月20日、古川豪さんから突然メールが届いた。
「ピンクが亡くなった」
えー、ピンクが亡くなった? この前、会うたばっかりやで。ピンキーが死んだ? ピンキーが死んだんやて。なんで死んだん? 散歩の途中に犬に引っ張られて転んで頭打ったそうや。ピンキーなあ、散歩にスコップとプラスチック袋持って犬のうんち拾うて歩いてたんやで。
そうや、ピンクはただの酔っぱらいやない。犬の散歩にスコップ持っていく酔っぱらいや。

 それからしばらくして追い打ちをかけるように青木しげひさの訃報が届いた。

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最終更新: 19-09-2005

 

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