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12年と12日 その11 東奔西走のワッフル

「何が難しいねん?」とピンク。
「世の中いろいろあるから一口でいうのが難しい」
「仕事は儲かるんかいな?」
「儲からへんよ」 オーストラリアの大学に留学している若い人から時々電話や手紙を受け取る。翻訳の仕事がしたいんです。へえ、翻訳屋って憧れられるような職業なんか? 女房にいうたら罵詈雑言少しは手加減してくれるかもしれへんなあ、ありがたいこっちゃ。昔デザイナー、コピーライター、今翻訳業か、というところで我に返ってやめときなさいと答える。翻訳なんて仕事はなりたくてなるもんではないです、なりたいものになれなんだ人がなるもの、オーストラリアまで来て高い学費払うて勉強するような商売ではないです。元取れませんよというが、翻訳家になるにはどうすればいいんですか? と聞いてくる。学費を払うて勉強しているのなら先生に聞くのが筋というもの、ぼくみたいな半端な翻訳屋に聞いてどうするのかとも思うがそこは善良だけが美徳の小市民、むげに追い返すこともできない。いろんな日本語をたくさん読みなさい。しばらく声が途切れる。英語はどう勉強すればいいですか。うーん、英語なあ。英語のうまい日本人で感心する人柄に会うたことないしなあ。かというて、仕事は人柄では決まらんしなあ。英語なんか勉強するより遊んでなさいという。またしばらく声が途切れる。はい分かりましたといって相手は電話を切る。ほんまに分かったのかどうか、どうせ相手は変な人と思うだけだろう。それに女房に話したところで、憧れの仕事でも稼いでなんぼのもんやろというに決まっている。
「オーストラリアはどうなんやねん」と立派な名前のももたにみねなお君が聞いてくる。
「難しいな。あんまりええ話ないなあ」と平凡な名前のたなかけんじ君が答える。
当然たなかけんじ君の生活にもあんまりいい話がない。幸いなことにあんまり悪い話もない。オーストラリアに住んでいるというとさぞ金持ち生活をしているのだろうと思われることがあって、そう思われても事実ではないから癪である。細かいことをいえば無一文の貧乏から三文くらいは持つ貧乏になっただけである。昔三文楽士で、今は三文貧乏士。ピンクはぼくより少し上で五文楽士くらいだった。今のピンクがどれくらいになったのかは知らない。
金持ち生活というと、中学時代に父が月賦でテレビを買って、父は野球とプロレス、姉とぼくはアメリカのホームドラマをよく見ていた。広い庭と大きな住宅、物わかりのいい親がいて、欲しいと思うものは何でもある。ぼくと同じくらいの年のガキどもが学校から帰ってくるなり大きな冷蔵庫を開けて大きな牛乳ビンから大きなグラスになみなみと注ぐとゴクゴクと飲み干す。あれにはまいった。1日おきに配達される180ミリリットルの木田牛乳を家族5人でちびちび紅茶に入れて使うのとはわけが違う。アメリカに憧れたというのはあの物の豊かさに憧れたということだった。高校に入ってウディ・ガスリーやピート・シーガーを聞くようになると、アメリカにも物わかりの悪い親がわんさといるとか牛乳も買えない貧乏人がいくらでもいるとかが分かってきて憧れは消えた。それとともに豊かな生活への憧れも消え、大学に入ると、かつてあれほど豊かな生活の象徴だった缶詰やインスタント食品が貧しい下宿生活の現実になっていった。しかしぼくも筋金入りの横着者だから、山頭火からこっちの「清貧」ブームには一向に感動しなかったし、アジアの国々が金儲けに躍起になっている頃に「私たちはアジア人とは違う。量より質を大切にする」などとオーストラリア人がいうと、「よせやい」という気分だった。オーストラリアは一人あたりのエネルギーや物の消費量がアメリカと並んで世界最大で、アジアの国がどんなにがんばっても質どころか量でだって当分オーストラリアにはかなわない。しかもエコ・ツーリズムなんてことで「アメリカやドイツの観光客が多くて、アジア人はまだ自然保護に関心がない」なんていう人がいるとまたもや「よせやい」という気分だった。大方のアジア人はちょっと前まで自然が有り余るような暮らしをしていたから、せっせと働いた金でわざわざオーストラリアの自然を見る気になるわけがない。

もうとっぷり日も暮れて、まだテレビのオリンピック中継が隣の部屋から聞こえてくる。うちの子供たちもまだうるさくしている。
ところで、うちに住みついた猫のシバは、飼い主が新聞を床に広げて自堕落に読んでいたりするとすすっとやってきて新聞の上にドテッと尻を載せ、やおら毛づくろいなどを始める。しかも飼い主が新聞のどこを読んでいるかが分かるらしいのだ。うちの子供たちも猫並みなところがあって、新聞を読んでいたりテレビ・ニュースを見ていたりすると、隣に来て、退屈だとかわめきだす。自分で娯楽してなさいというのだが、何すればいいのと聞いてくる。いろいろあるでしょうが、本を読むとか数を数えるとか爪を切るとか、というのだが、自分で娯楽もできなくなっている。実に困ったもんだ。
シドニーの新聞は、国と州のスポーツ予算を金メダル1個あたりにすると百万ドル単位にもなるものだと書いていた。スポーツに限らずふんだんに金をばらまけば能力が集まる。能力が集まれば強くなる。強くなれば勝つ。勝てばオリンピックではやたらと国歌を演奏する。やたらと国歌が演奏されるとコクイがこよなくハツヨーされる。金メダル1個百万ドル単位の税金を花咲ジジイのようにばらまくのは政治家やオリンピックの回りにゴロゴロしている得体の知れない有名人たちがコクイにこよなくハツジョーするために決まっている。探偵小説の方法でいえば、「この殺人で利益を得るのは誰か? そいつが犯人だ」というわけだ。得体の知れない有名人の一人が、スペインのファシスト・フランコ政権でスポーツ大臣を務めたサマランチIOC会長だ。
シドニーからブルーマウンテンを越えて250キロほど内陸にオレンジという町がある。そこから20キロ少し走るとオウファという土地にたどり着く。地名があっても実は小川を挟んだ狭い空き地があるばかりだ。19世紀にはここに2,000人の金鉱夫が暮らしていたこともある。川に沿って歩くと赤褐色の岩壁にいくつもかがんでやっと入れるくらいの穴がある。山金(やまきん)採掘跡である。川向こうは斜面を巻いて登る急坂になっていて、その両側にかつて店やホテルが建ち並んでいたらしいが今は面影もない。まばらなユーカリ林と枯れ草と黒っぽい火山岩の丘を登っていくと途中に小さな谷間に下りる道がある。キャラバンと掘っ立て小屋があり、犬と猫と孔雀とアヒルがあたりを駆け回っている。谷間の斜面にいくつかトンネルが暗く口を開いており、トロッコの線路が延びている。グナドゥー金鉱として正式に登録されている砂金鉱山で、「天空の城ラピュタ」のヒゲじいさんみたいな男が一人で金を掘っている。息子と二人で古い鉱山を買って再開したが、息子を交通事故で失って以来一人でやっているのだという。新しく掘るより古いズリを洗った方が歩留まりがいいという。それに時々やってくる観光客相手の坑内見学も小さいながら稼ぎになる。大人一人12ドルである。かがんで入ると坑道の天井を支えている丸太の柱と梁にはびっしりとカビとキノコが生えていた。この金山の金がシドニー・オリンピックの金メダルに使われている。
元の道に出て丘を登りつめた傍らに柵で囲まれた草地がある。草地にはまばらに墓石が立ち、あるいは倒れている。若い女の墓石が倒れて砕けている。その隣に若い男の墓石が立っている。墓碑の「銃創により死亡」というのが異様である。オウファで砂金を掘っていた20歳そこそこのチャールズ・コースは、馬の鞍のことでリチャード・スペンサーと口論を始めた。リチャードが拳銃を引き抜き、チャールズが「撃てるものなら撃ってみろ」とでも言ったらしい。リチャードが引鉄を引き、銃弾がチャールズの頭を貫いた。リチャードは東の町バサーストの監獄に送られ、そこで裁判にかけられたが、チャールズの挑発があったということで比較的軽い懲役刑を受けただけだったという。

ピンクは今も赤いギルドを持っているし、古いビデオテープも残している。ぼくなどよりはるかに音楽の才能があるピンクは、猪名川のキャンプ場でも音楽ディレクターをやったし、貧苦巣の録音も当然ながら、古川豪さんのレコードも担当した。時代が変わって歌う場が減っていった時、ぼくは体を壊していたこともあり、人前で歌うことをやめた。その頃、ピンクがどのような身の振り方をしていたのかはっきりとは知らない。ぼくよりも音楽にこだわっていたことだけは感じられる。どんなことをしてでも歌い続けるということがいいとも悪いともぼくには思えない。どのように身を振ろうとそれは本人の意思だということがいえるだけだと思う。人生の岐路で他の道を選んだ友人には「元気でな」というしかないし、それでもまた昔の友人と20数年ぶりに会うことがあればお互いそれぞれの場所で8,000日を丹念に過ごしてきたのだな、という懐かしいような感慨があふれてくるのだ。
何号か前に触れた藤原武夫という友人が、1970年代の初めに大学祭でぼくの歌と菅谷規矩雄の講演という組み合わせを主催してくれたことがある。小さな教室に物好きを集め、菅谷規矩雄さんは松尾芭蕉と河合曾良の旅をフォークシンガーのライブハウス回りにたとえて話した。東京都立大学で教えていたドイツ文学者の菅谷さんは、その何年か前、名古屋大学で教えていた頃に、栄の地下街で歌っていた青年を自分の研究室に連れてきて歌ってもらったことがあるといった。「友部正人という人なんですが知ってますか?」とぼくに尋ねた。菅谷さん自身も若い頃には声楽家になりたかったけれど、結局生活するために教職に就いたといった。歌をやめなければならない時があるとすれば、それは生活の現実が迫ってきた時でしょう、ともいった。
オーストラリアに来て間もなく、勤め先の日系新聞社に数日遅れで届く朝日新聞に菅谷さんの訃報が小さく載った。

結婚して間もなく妊娠するとアンマリーは自然分娩で産みたいといい出した。周囲の同年配や若い人の間ではオルタナチブなことがずいぶん流行りで、アンマリーも時々感化されていた。ぼくはさっぱり感化されないが、別に伝統的なやり方がいいと思っているわけでもない。何事も半分くらいしか信じることができないだけである。子供を栄養失調で死なせたベジタリアンの母親が裁判で有罪になったことやし無理せんとこといってみたが、アンマリーの決意は固かった。キング・ジョージ産科病院通称KGV(ジョージ五世)の自然分娩クラスに通うことになった。クラスには数組の夫婦が通ってきた。男たちは誰もが照れくさそうで、女たちばかりがまじめだった。ぼくは「まじめ廃業宣言」をして、へらへらと生きることにしたほどだから、まじめというものがやりきれなくなっていた。結局男たちは毎回照れくさ笑いを浮かべつつ、週ごとにどっしりとしていく女房たちに引きずり回されていた。
陣痛が始まって半日過ぎても子供が出てくる気配はなかった。ジャクージ風のプールに入ったり、家に戻って休もうともしたが、定期的にワーオーとわめくアンマリーを横にしては眠ることもできない。たとえ眠れたとしても、陣痛で苦しむ女房の隣でグースカー眠る薄情な亭主の汚名を生涯着ることになる。アンマリーは、こんなこといつまでもやってられへん、自然分娩やめや。先生にそういうて病室に移してもらおう、といい始めた。ぼくはあまりうれしそうに見えないように注意しながら賛成した。タクシーで病院に戻ると、そのまま病室に入った。夜更けの分娩室でインド人の女医さんが、「はい、息吸って、力入れて」を繰り返すのを、こっちまで一緒に息吸ったり、力入れたりしながら眺めていた。しわくちゃの猿のような子が産声を上げたのは本格的に陣痛が始まってからかれこれ36時間後だった。アンマリーは産着に包まれた赤ん坊を抱いて感動の涙を流している。ぼくの方は、やっと終わったという安堵感ばかりだった。女医さんがアンマリーの体を消毒したり縫ったりしている間にぼくは腰掛けたままウトーっとして、あやうく椅子から転げ落ちかけた。そして、アンマリーは二度と「自然分娩」を口にしなくなったし、今ではあの感動も忘れたのか毎日子供にどなり散らすその声が子供の成長にあわせて大きくなっている。

1995年の終戦50周年は居心地が悪く、奇妙でもあり、しかもずいぶん貴重な経験ができた年だった。8月が迫ると、新聞記者も学者も元軍人も、戦争問題について発言するものならおよそ誰でも、ドイツ大統領フォン・ワイゼッカーの有名な演説の警句「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」を呆れるほど飽きもせず繰り返し引用し、日本人が過去の戦争犯罪を直視しようとしないと批判していた。もちろんこの批判はその限りにおいては同意できるし、こういう気の利いた警句をひねり出すにはそれなりの才能が必要だということも知っているが、政治家の有名な警句を過大評価するのはお人好しが過ぎるというもので、そもそも人が心からやむにやまれぬ言葉を吐く時に効果を計算しきった名警句が出てくるわけがない。アメリカやオーストラリアの政治家の発言をテレビ・ニュースで見るが、いずれも心のこもっていない修辞の羅列である。あんなもので説得されるのなら八百長というものだ。まして正義ぶって他人の名警句を旗ざおのように担ぎ回る人たちにはほんとに呆れる。フォン・ワイゼッカーの警句の下の句は、「他人の過去から学ばない者は、自分も同じドツボにはまる」とあるべきだ。1995年のオーストラリア人の発言はほとんどが、自分は極悪非道なことをするわけがないという思いこみが前提になっている。しかし、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺はヨーロッパ全体の反ユダヤ感情なしにはありえなかった。1930年代末期にヨーロッパのオーストラリア大使が本国に電報を打った。「オーストラリアでユダヤ人問題が起きるのを防ぐため、ユダヤ人の入国を禁止する」よう進言したという。それより20年近く前にジェームズ・ジョイスが「ユリシーズ」に書いている。
「アイルランドにユダヤ人問題はない」
「どうして?」
「奴らを入れないからさ」
民族的な虐殺を体験したユダヤ人がイスラエル国家では先住民のパレスチナ人に非道を働いているが、オーストラリアのマスコミは、イスラエルを「中東で唯一の民主主義体制」と呼んでいる。もっともマスコミの社会的評価は中古車屋のセールスマンのちょっと下だというから庶民はそれほど愚かではない。

子供たちの学校のメアリー・オドワイヤー先生は、アンザック・デーが大嫌いだった。オドワイヤー先生はアイルランド系だから、大英帝国史観の残りかすのようなこの記念日を嫌うのも分かる。アンザック・デーというのは、第一次世界大戦中にトルコを攻撃した英連邦の部隊としてオーストラリアとニュージーランドのアンザック兵がダーダネルス海峡を挟むガリポリ半島に上陸しようとして惨敗した作戦の記念日である。近所のトルコ人のおばさんが、そのあたりの消息を的確に表現している。「そりゃ、スルタンはいい人じゃなかったけれど、オーストラリア軍がトルコに攻め込んでくる理由はなかったのよね」スルタンというのはオスマン帝国の皇帝のことである。
そのアンザック・デーには「祖国と民主主義を守るために倒れたすべてのオーストラリア兵士」の追悼が行われる。オーストラリアが関わった戦争をすべて挙げれば、オーストラリアの「祖国と民主主義を守る」というのがどういうものかはっきりする。1840年代-マオリ戦争(イギリスの植民地主義者とニュージーランド・マオリの戦い)、1885年-スーダン戦役(イギリスのアフリカ侵略)、1900年-義和団決起(欧米日の中国植民地化)、1899年-ボーア戦争(トランスバールのオランダ系植民地人とイギリス軍の戦争)、1914年-第一次世界大戦(ヨーロッパ戦線)、1939年-第二次世界大戦、1950年-朝鮮戦争(米軍側)、1950年代-マレー動乱、1960年代-マレー・インドネシア武力衝突、1960年代-ベトナム戦争(米軍側)、1991年-湾岸戦争(米軍側)。毎年アンザック・デーが近づくと、学校では子供に「お国のために戦った兵隊さん」と教え込み、当日は元軍人が軍服を着てパレードすると、通りの両側を埋め尽くした大人や子供が国旗を振って歓呼し、その光景をテレビで放送する。神秘主義派のキャロライン・ジョーンズでさえ「オーストラリア人精神」などと題して国家主義賛美の論説を書く始末で、ぼくとしては、日本でそういうものが大嫌いだったが、オーストラリアで好きになる理由は何もないのである。

電話が鳴って、受話器を上げたピンクがしばらく話した後、「タナケン、電話」といった。電話の主は敦賀の南シロー君と友部とペケで、福井からだという。久しぶり、どないしてるん。今終わったばっかりで、タナケンがそっちにいるというからかけてみた。敦賀の南君やその仲間には歌でもそれ以外でも昔よく世話になった。もっともぼくが世話になりっぱなしの人たちは日本中にいる。友部とは東京で会うことになっている。ペケはぼくの「インスタント・コーヒー・ラグ」を時々歌うという。うん、どんどん歌うて。著作権はどうなってるんか知らんが、もう20年印税の臭いもかいだことがないから知らん顔しとったらええ。歌というものは歌われなければないも同然。それでもぼくも子供3人を抱える身、歌の印税でウハウハいえるものならいってみたいが、本気になってはいけない。どうせイの字もないものなら歌ってもらえることをありがたいと思うことにしよう。
いわれてピンクのギルドを弾いてみたが何年もほとんどギターを握ってないから指が動かない。古川豪が、タナケンと中川五郎は一番へたくそなフォークシンガーと呼ばれてた、という。豪さんにへたくそいわれたら立つ瀬がないなあ。昔はごろう、ごう、けんじの3人の名前で若いシンガーを励ましてきたやないか。3人の歌を聴いて若い人らが「ああ、あれやったらぼくの方がもっと上手に歌える」とやる気になったという話なかったか?

翌朝早く、ピンクの連れ合いのとっちゃんはとっくに勤めに出かけ、豪さんも京都の薬局に帰ってしまっていた。ピンクとアンマリーが朝食を買いに出たままずいぶん時間がかかっている。のそのそと起き出し、ベランダからまぶしい朝の家並みを眺めていると30年近く前、ステージの後で石橋で飲み、そのままピンクの家に転がり込んで何度もこういう朝を迎えたことを思い出した。
ピンクとアンマリーは朝食と缶ビールを持って帰ってきた。
「朝っぱらからビール飲むんか? 朝は飯食べなあかんで」とぼく。
「分かってるがな」とピンク。一缶開けると、犬を散歩させるといって、子供と一緒に出て行ってしまった。またまたいつまで経っても帰ってこない。心配になって3人で近辺を歩き回った。昔は造成したばかりの住宅しかなかったが、今は役所や施設が建ち並んでいる。どこに行ったものか、どこを探しても見つからない。家に戻ってしばらく待っているとやっと帰ってきた。公園に行っていたという。ピンクは駅に向かう坂道の途中まで送ってきてくれた。
「面白かったか? またおいでや」とピンクが子供たちにいう。
「そのうちに子供だけで日本に来させるから泊めたってや」とぼく。
「任しとけよ。なんぼでも面倒見たる」とピンク。
「それまで元気にしときや」
蝉の鳴く常盤台あたりはすでに汗ばむような暑さだった。

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最終更新: 19-09-2005

 

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