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12年と12日 その10 女房が優しいなら、ヤクザは...

「よう来たなあ。全然変わってないやないけ」 よういうわ。ピンクも全然変わってない。お互いへらへらと極楽トンボで生きてきたあかしみたいなもんやないか。
「子供もぎょうさん連れてきてえ」
「おかげで世間からは反社会的なやつやいうて白い眼で見られるねん」 子供は多い方が賑やかでよろしいというてくれる人もいるが、「子供3人やて。知性疑うわ」といいたげな表情に出会うこともある。いいたげなだけで何もいわないのだからこちらから率先していうのはやぶ蛇というもの。「疑われてもなあ、疑われるような知性はなから持ってませんのやから、疑うのは無駄な抵抗ですねん」 ととぼけているに限る。姉などは、「わあ、3人も子供作ってどないすんのん。ギャハハ」と心配しているふりして大笑いした。どうやらぼくたちの両親もガキ3人を育てたことなどきれいさっぱり忘れているらしい。
「上からアラン、ドミニク、モニカ。アンマリー。こっちがピンク」
「ピンクククウ?」 と子供たちが顔をゆがめて言う。ぼくたちも学校で「とーきょーきょっきゃきょきゃきぇけー」と3回続けて言わされるとああいう顔になった。
「そう、ピンク」
「ピンキー!」
子供たちは、「ピンキー、ピンキー」と小指を立ててうれしそうにいう。ピンキーというのは小指のことだが、日本で小指を立てて「コレ」とかいうのとは何の関係もない。ピンクには百谷峰直という立派な名前があるが、ガキどもに「ももたにみねなお」なんて教えるとまた面倒なことになりそうだから教えなかった。そもそも小学校の時から友人には芸能人や作家に仕立てても恥ずかしくない立派な名前の持ち主が何人もいた。それにひきかえ「田中研二」はいかにも平凡で素っ気ない名前だと思ったものだ。たとえば雑貨屋の店先で亀の子タワシと日の丸櫻印マッチの間に並んでいても誰も気づかないくらいの日用品的平凡さである。
歳をとるにつれて日用品的な名前にも非日常的な顔にも諦めがついたが、それでも娘が生まれた時に Monika Yayoi Antonia Tanaka van de Ven というあしひきの山鳥の尾の垂り尾の長々し名前をつけたのは少年時代のトラウマのせいというものである。シドニーのチャイナタウンの片隅に出生・死亡・結婚を登録する役所がある。世の中では戸籍のない国の方が圧倒的に多いらしいそうで、オーストラリアもその一つだから、出生証明書だけが本人を証明する書類になる。折り畳んだまますり減って開くとボロボロと崩れそうな出生証明書を財布にしまっている昔風な人もいるが、気の利いた人は身分証明のためだけにパスポートや運転免許証を取る。役所の受付が「まあ、かわいそうな娘」とあきれたことをいった。だって名前を書くのが大変でしょう。しかしなあ、ぼくは考えた。もし澁澤龍彦君とぼくが小学校で同級生だったら、ぼくが答案用紙に名前を書き終えても、澁澤君は苗字さえ書き終えてないことになるが、そんなことが人生の妨げにならないことは、澁澤君が有名人になり、ぼくが無名人になったということが証明しているではないか。
「何年になるかなあ」と平凡な名前のたなかけんじ君がいい、
「もう20年以上になるで」と立派な名前のももたにみねなお君がいった。
昔一緒に沖縄まで演奏して回り、レコードを作った懐かしい顔ぶれが集まっていた。

「昔と家が変わったみたいやけど」 建て替えしたのだという。
昔おった犬はどうしたん? うんこするのにおしっこするみたいに片足上げてするもんやからいつも足を汚すいうてた犬ちごたかな。あれはずっと前に死んだ。今は3匹飼うてる。
うちの猫が6匹も子猫を産んだから1匹貰うてもらえんやろか、ピンクと連れあいのトッチャンの二人に電話して、そうきり出したら、こっちにも子犬がおるから貰うてもらえんやろか、といわれたことがある。子猫と子犬をトレードしたんでは少しも口減らしにならないので話はそれで終わってしまった。
「最後に会うたんはいつ頃やったかな?」
「中之島でコンサートやったやろ。それから大阪城公園の音楽堂で東京から来た誰かの講演とロック・コンサートやったやろ」 大阪城公園のイベントは1984年頃だと思う。強烈な日差しの暑い日で樹木の少ない殺風景な公園は広さばかりはたっぷりとあったから殺風景さにはこと欠かなかった。
子供の頃、大阪環状線はまだ西九条あたりで途切れていて、大阪から天王寺方面へ行く線は城東線と呼ばれていた。京橋から平野川、寝屋川を渡ってしばらくすると片側に運河の水がねっとりと淀み、国鉄のガード下に掘っ立て小屋が並んでいた。線路の西側には戦争末期の空襲で破壊された造兵廠の鉄骨とコンクリートの廃墟が広がっていた。ある日、母に連れられて電車に乗った。まだ路線別に色分けする前の茶色の「省線」電車で、車内は少し混んでいた。柱につかまって窓の外に広がる造兵廠の廃墟とその向こうの大阪城をぼんやりと眺めていると、目の前に座っていた中年の男女が腰をずらして少し隙間をつくると「にいちゃん、座り」といってくれた。「ありがとう」と腰掛けると、一瞬アセチレン・ランプに似た鋭い臭いが鼻を刺した。臭いはその一瞬きらめいただけで幻のように消えてしまった。当時、夏祭の夜店にはアセチレン・ランプがつきもので、青白い炎が売台のおもちゃやテキ屋、客の顔を薄暗く照らしていた。ぼくにとって祭の記憶は金魚釣りや綿菓子よりもあのアセチレン・ランプの独特の臭いとシューという暗い音だった。それは戦後20年ほどの時代の雰囲気でもあったが、夜の暗闇に異界の存在を感じることができた時代でもあった。アセチレン・ランプの臭いと思ったのがニンニクの臭いだと知ったのは、大学に入り、下宿生活を始めてからだった。70年代に入るといつの間にかガード下の掘っ立て小屋が消え、造兵廠もなくなり、殺風景な公園に変わり、夜は昼の延長にすぎなくなっていた。
ぼくは演説を聴きながら、隣にいた友人に「東京の運動家いうのは相変わらず格好つけたこといいよるなあ」と感想をいった。

その前にも後にもピンクとは何度か電話で話した。コンピュータを使った英語塾だか学習塾だかを開いたという話も聞いたが本当かどうか確かめたこともなかった。
「いろいろあってなあ、結局同業者につぶされたようなもんや」とピンクがいきさつを話してくれたが、そろばん塾もピアノ教室も1か月でやめて以来塾に通ったことさえないぼくにはよく分からない。ふーん、そんなもんか、と思った。まだ全員が顔を出してないから、何人か隣の部屋でオリンピック中継を見ている。運動選手という人たちがよう分からん。ウマみたいに走ったり、サバみたいに泳いだり、ノミみたいに跳んだり、アシカみたいにボールをはじいて何が面白いのかと思う。格闘技のラグビーみたいに殴り合い、蹴り合いするなんてのは言語道断である。植民地時代のオーストラリアでは学校というのは植民地軍将校や資本家のガキどもを養成する機関で、スポーツはそのガキどもに不退転の闘魂を植え付けるものだった。うちのガキどもも隣の部屋で大人をかまって、「スシ、スシ」とか叫んでいる。しばらくそうやっててや。子供を押しつける相手がいる時はほんまに助かる。しかも食べ物を目の前にすると、うちのガキときたらトリュフを見つけたブタみたいなものや。うちには同居の義父がいるが、80歳半ばで子供の世話は頼めない。子供の世話を頼めないどころか4人目の子供みたいなもんや。頑固な分だけ子供よりたちが悪いとアンマリーがいう。ぼくの顔をじろっと見て、笑うとったらあかんであんたが5人目の子供やともいう。そのアンマリーは「ハイ、ソウデスネ。ワカリマセン」とかなんとか愛想を振りまいている。外づらのいいアンマリーに人はすっかりだまされる。優しい人ですね、とかいう。なにが優しいもんか、あれが優しければヤクザはチャリティだわ、と思うが、そんなことを人にいっても信じてはもらえないに決まっている。「まあ、奥さんのことをそんなふうにいってはいけませんわ」てなもんで、いえばいうほどルナールの「にんじん」同様の境遇になっていくのである。

ピンクといつ頃出会ったのかもうひとつ記憶がはっきりしない。哀愁の女鳥羽川金魚に別れを告げたのは71年か72年頃だと思う。その前に京都の拾得で岩永正敏に出会っており、人間接着剤というあだ名を持つ彼がいろんな人に引き合わせてくれて、レコードを作る話もその線でどんどん進んでいった。岩永は後に様々な企画で活躍しているから、ぼくのレコードはほんの小手調べ程度だったのだと思うが、生来ぐうたらなぼくの方はペースを合わせるだけでも必死だった。ピンクとの出会いが岩永を仲立ちしたものなのか、それとも春一番で動いていた近本隆ことおちかさん経由なのかそのあたりの記憶ががっぽりなくなっている。銀行預金に利子が付いているつもりでいたら、逆に銀行手数料と税金で残高が減っていたと気づくようなものである。あまり適切な喩えではなかった。しかしそういうことも無視して場面は突然「フリーク集団沖縄珍道中」に飛んでしまうのである。珍道中の消息は豊中の喫茶店フリークで作った旅行記集に詳しい。ツアーは貧苦巣とフリークの坂本洋さん、フリークの常連客の大所帯だった。おちかさんとぼくは四国経由で、他の人たちは大阪からまっすぐ九州に向かったように思う。四国から九州に渡り、他のメンバーとは八幡の高炉台公園のコンサートで合流したが、会場でひがしのひとしと当時彼の連れあいだったてらだまりこさんにばったり出会った。ひがしのひとしはジョルジュ・ブラッサンスなどが好きで、半世紀遅れの酔いどれ放蕩文士風なのに、ぼくなどから見ると理不尽なほどの健康派である。
ツアーのグループはハイエースと鉄道に分かれて南下した。熊本に寄ったような気もするがしなかったようにも思う。ただし八代に寄ったのは確かである。八代から鉄道で南下し、西鹿児島駅到着から沖縄行きのフェリーで一日以上かけて沖縄に着いた。
那覇では新聞社のホールを使ってまよなかしんやがコンサートを主催してくれたように記憶している。ステージは1回だけで後は観光みたいなものだった。夏の日差しの中をよく歩き回った。道ばたに石敢當を見つけて喜んだし、公園のデゴイチも守礼門も国際市場も歩いて回った。歩く理由は二つある。なによりも安上がりだし、いつ来るか分からないバスを待つのはめんどうだからである。あんたのものぐさにはあきれるわ。10分待つのがめんどくさいいうて20分かけて歩いて帰ってくるやなんてという。ぼくは、ますます「にんじん」になりきる。
沖縄では他のメンバーと北のムーンビーチとかという海岸に泳ぎにも行った。これはずいぶん遠くてさすがに歩くのは無理だからバスにした。それにしても奇妙な地名だった。日本にも変わった地名はいくらでもあるがムーンビーチなんて英語訛りの地名はもともとない。正しくは月浜なんだろうか。それなら横浜はサイドビーチ、長浜はロングビーチだ。カタカナにすれば高級に見えるという感覚にはパチンコ屋開店祝いの造花に似た物悲しさがある。華やかなだけで枯れることのできないニセ物の悲しさだ。しかも本物より長持ちするのは自分が高級だからだと思い込んでいるからますます物悲しい。ムーンビーチまでの国道58号線の途中、土手越しに米軍基地のB52の巨大で真っ黒な垂直尾翼がいくつもまるでヤクザの行列のように並んでいて、爆撃機ちゅうのはずいぶんガラが悪いんやなあという印象だった。
沖縄からの帰りの船は一人だったように思う。早朝出港を待つ船の舷窓を通して、那覇港南の米軍施設から気象ゾンデを積んだ気球が上がっていくのを眺めていた。眺めながら喉に刺さった魚の骨のような感覚を何度も何度も飲み下そうとしていた。

沖縄珍道中がぼくの音楽に影響したとしてもわずかなことだが、貧苦巣の個性強烈なメンバーたちと日夜付き合うことで意思疎通には大いに役立った。音楽のことをいえば、当時、ピンクの歌のしっかりした構成にただただ感心していた。ぼくの歌はどれも16小節か32小節、ひどいのになるとたった8小節が全部で、歌う方か聞く方がいやになるまで延々と繰り返すばかりだが、ピンクの歌はなかなか立体的な構成になっていて、それがビシッと決まっているから、ぼくの歌が寝袋とテントの生活みたいなもんで、ピンクの音楽はやや癖はあっても結構の整った一戸建てという感じだった。猪名川での録音の後、貧苦巣もレコードを作り、間もなく解散してピンクとシェリフになった。ぼくもしばらくはシェリフといくつかのステージで歌った。
その後ピンクは知り合いの土地で農園をやっていたこともあって、電話するたびに「いっぺん草抜きしにけえへんか」と誘われていたのに、結局一度も行かなかった。草抜きがいやだったというわけではない。
言葉を憶え始めた時からこの歳になるまで、明るく健康で正しくて明朗で闊達で立派で堂々としていてどこから見ても文句のつけようがない言葉というものが苦手なのである。そういう言葉をいわなければならなかったり書かなければならなかったりするとつい高校時代の悲惨な体験を思い出す。ぼくは高校時代のフォークダンスというものがたまらなくいやだった。さんさんと降り注ぐ春の日差しのもとで、などという陳腐な表現の似合う、着せ替え人形のように薄っぺらな明るさがたまらなくいやだった。そして女生徒にえり首をつかまれ、フォークダンスの輪に引きずり込まれる時のいたたまれない屈辱感。あの感覚が今でもわっと突っ伏したくなるほど生々しくよみがえってくるのである。そもそも「健康」や「明朗」がいえない。「健康保険」や「明朗会計」ならいえる。「仲良し」とか「友情」だけでも恐ろしいのに、念を入れてなすびやきゅーりまで添えてあったりする。ああいうことを平気で色紙に描ける無神経さがぼくには分からなかった。1960年代末の学生運動の頃には恥ずかしい言葉が山ほどになっていた。その頃ピンクは「20世紀の谷間社」というのをやっていたらしい。明るく健康的な20世紀ダンスに引きずり込まれ、いやいや踊らされれば谷間気分にもなろうというものだ。70年代に入って、後退していく運動が残した空間を埋めるように神秘主義や自然主義が盛んになってくると、ぼくのまわりにもインドに出かけたり、農業や自然食品に向かう人たちが増えてきた。そうなるとぼくには「自然」とか「いのち」という言葉がいえなかった。人がやることをとやかくいうつもりはないが、ぼくはごめんや、そう簡単に看板替えるわけにはいかん、と谷間気分を生き抜くことにこだわっていたのに世の中はますます明るくなっていくばかりだった。ぼくはまた喉に刺さった魚の骨を飲み下そうとしていた。そういう自覚症状を抱えて、ピンクに誘われても多分日当たりがいいだろう農園でどんな顔をしてどんなことをいえばいいのかさっぱり分からなかった。草抜きがいやだったというわけではない。その頃のピンクが音楽をやっていたのかどうかも知らない。アルコールびたりになっていたということもずっと後で聞かされた。20年ぶりに会ってみると、ピンクは音楽の話をあまりしないが、書棚にはロックのビデオも本もある。赤塗りのギルドもまだ健在だった。ピンクもぼくとはまったく違ったところで屈託を抱えて生きてきたのだろうな、ということだけは感じられた。

オーストラリアに来て間もなく、フォーク・シンガーのティム・コナーに出会った。
金曜日の新聞には催し物やライブの日程を集めた折り込みが入る。薄青いページで、土曜日の夜、「ゲーリック・クラブ」のライブというのを見つけた。それがティムとの出会いだった。3人か4人のバンドと一緒にティムはぼくの知っているアイルランドの歌を一通り歌っていた。オーストラリアのライブのいいところは入場無料が普通だということ、よくないところは始まるのも終わるのも遅いということだ。9時に始まり、深夜に終わるというのがざらである。電車もバスもないからタクシーで帰ることになる。それにもめげず何度か通ううちにティムの方から話しかけてきた。その頃、ティムは酒びたりの生活から足を洗って、禁酒グループAAに通っていた。かつてはイギリスでクラブやパブのギグ(ステージ)をやっていたことがあり、レコードも何枚か出していたが、その頃は過ぎた昔とまだ来ない夢の間で生きているという感じだった。ぼくと出会って間もなく、ティムはマリーとつきあい始めたが、離婚歴のあるティムなので、カソリック教会では結婚式をしてくれなかった。ティムとマリーに2人の娘ができた。元奥さんが二、三人と子供がたくさんいるらしく、最初の2人の息子にジョンとニキタという名前をつけたとティムが話してくれたことがある。キューバ危機を回避したケネディとフルシチョフだという。その二人こそキューバ危機の元凶やないかと思ったが、気を良くしている本人にいえることではない。ジョンとニキタはロンドンで弁護士をしているといっていた。
ティムは典型的なアイルランド人で、会うとほら話を始めた。彼がブリスベンにいた頃通ったパブにパトリックという貧しい酔っぱらいがいた。なぜか酔っぱらいのアイルランド男はすべてパトリックということになっている。そのパトリックが亡くなった時、葬儀にはパブの常連客が大勢、パトリックには不似合いなほどたくさんの花束を持って集まり、火葬場まで霊柩車の後を歩いた。翌日の新聞の記事によれば、ブリスベンの片隅に花泥棒が現れて、公園という公園から一つ残らず花を引き抜いていったのだそうだ。

ティムの誘いで、ぼくは毎週月曜日の夜にゲーリック・クラブでアイルランド語を習い始めた。アイルランド語はスコットランド、ウェールズ、アイルランドにしか残っていないゲール語の一つで、やたらと複雑な言語でもある。ティムはアイルランド・ナショナリストでもあって、土曜日のギグの締めはアイルランド国歌「兵士の歌」のゲール語斉唱だった。ぼくは制服と国歌が大嫌いだからこれには困った。それでも毎週通ったおかげで、すっかり憶えてしまった。ある日ティムは決心して、耳あたりの軽いティム・コナーの芸名をやめ、本名のノレグ・フラナリーを名乗り始めた。
90年代のその時期は肉体労働系の産業が斜陽化を終えた時期で、労働者のたまり場というイメージのパブはさびれてゆき、古くからの店が何軒も閉めたし、生き残りをかけてモダンな黒とステンレスとガラスのヤッピー好みに模様替えした店もあった。ヤッピーなら紙の着せ替え人形のように薄っぺらでも体裁に倍の金を払うから見ばえと場所さえ良ければ若い女が集まる。若い女が集まるとゴキボリホイホイにひき寄せられるトンマなゴキブリのように若い男が寄ってくる。その逆はないそうだ。そういう店では客たちの仕草がテレビ・コマーシャルの役者みたいに自意識まる出しだからすぐ分かる。蝶々のようなシドニーはただでさえ自意識過剰な都市だ。当然ながら見ばえのしないジャズやフォークソングの場は次々と消えていった。そういう時期にノレグはマリーと別れ、西オーストラリア州のパースの昔なじみを訪ねていった。そこで新しく歌の録音も始めていたが、ある日、車を運転中に心不全で倒れた。病院では一時持ち直したように思えたが突然2度目の強烈な発作に襲われた。1997年11月であった。マリーはノレグの灰を抱いてアイルランドのメイヨーに飛び、故郷アックローの海岸を望む丘の上から灰を風に撒いた。それ以来毎年夏になると海水浴客はノレグの灰にまみれて泳ぐことになった。

「オーストラリアはどうなんや?」とピンクがいった。
「うーん。難しいなあ」とぼく。

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最終更新: 19-09-2005

 

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