12年と12日 その9 オドワイヤー先生
ゲバラと黄泉さんに礼を言い、別れを告げ、駅前で買い物を済ませてから智頭街道を下った。海路と海沿いの山陰道を除けば、鳥取からはどこへ行くにもすべて峠越えである。智頭を過ぎ、志戸坂峠への道に差しかかるあたりから狭い谷間の村が点々と連なり、おりから襲ってきた土砂降りの中に暗く沈んでいた。新道はその峠をトンネルで越え、村を見下ろす山の中腹を走っている。その昔、鳥取城を攻める軍勢も、江戸時代の参勤交代も歩いたという往還である。
佐用から高速道路に入っても相変わらず雨は吹き降りと小休止を繰り返しており、雨に包まれたガソリン・スタンドをいくつか素通りしてしまった。それが名塩を過ぎ、左手の山肌をはい上がる住宅地が見える頃になっていよいよ心細くなり始めてきた。あわてて宝塚で高速道路を降りたのが間違いだった。もちろんそのまま走り続けていても間違いではあるが、幹線道路を走れば行きたいところに行けるだろうと考えたのが甘かった。道がたくさんありすぎて幹線道路の見分けがつかない。砂浜で砂粒を探すようなものである。その上どの道もどの町並みもよく似ている。あれ、ここさっき走ったとこちゃうか? そんなことないで。そやけどあのセブン・イレブンとKFC、さっきもあったんちゃうか? あんなもん電信柱と同じでどこにでもあるからなあ。まあな、同じとこに戻ってくるわけないわな、と思いつつ雪山で同じところをぐるぐる巡りして遭難する話を思い出して不安になった。
真夏の大阪平野のことだから間違っても遭難する心配はないが、暑さと排気ガスで倒れる心配はある。ほんま暑苦しいなあ。おまけにこの渋滞や。窓を開けたら墨色の排気ガスがモワッとしとるし、閉めたら暑いし、ガキは後でケンカしとるし、ケンカしてなかったら腹減った喉乾いた気持ち悪いおしっこやもんな。どこかでちょっと休まなあかんなあ。おお、人生は苦しく、愛はもめごとの種、美ははかなく、富は遠ざかるばかり、楽しみは少なく、物価は倍増、思い通りになることなんて何もないわ。そんな歌どこで憶えたん? ほんまその通りやわ。いつになったらたどり着けるのやら。さっきから同じような町並みをむやみやたらに走り回ってるだけやないの。アンマリーは自分で運転しながらぶつぶつ文句をいっている。
当然、世の中広いからこんなふうに車で道に迷ってとうとう行き着けなかった人はいくらでもいるはずだ。しかも行き着けないくらいだから帰ることもできないでぐるぐると都会の街区をぐるぐると車でぐるぐるとさまよううち食事代もガソリン代も尽きてしまいそれでも気力か呪いだけで車から降りることもできずぐるぐるとさまよい続けるあの呪われたユダヤ人のようにぐるぐるさまよい続ける最後の審判の日までぐるぐるさまよい続けるんやろか?いやあれはオランダ人やったかな?ひょっとしたらスコットランド人かもしれんなあ仏教徒や拝火教徒でも最後の審判の日までぐるぐるさまようんやろか?うーんよう分からんいずれにしろアンマリーには考えごとを気づかれんで良かった気づかれていたら罵詈雑言何をいわれるか分からん。国道171号線の標識を見つけた時には正直ほっとした。この道に乗ってさえいれば実家にたどり着ける。帰りついた時には、高速道路を降りてから2時間ばかり過ぎていた。
夕方、仕事帰りの慈郎君が車を引き取りに来た。こちらから森ノ宮の自宅まで返しに行くと提案していたのだが、帰り道だからと彼が来てくれたのである。アンマリーは、いい車だ、持って帰りたいと何度も繰り返した。ぼくには、いつも調子が悪く、時々もっと悪くなるミツビシ・ニンバス1987年式で十分である。人を多めに乗せられるという以外に取りたてていうほどのこともなく、自動車泥棒だって盗む気にならないそのどんくささがとても他人とは思えない。それにシドニーにも渋滞があり、ぼくはこの渋滞というのが大好きで、とりわけ前とか隣に真っ赤なポルシェなんかがあると、プレイバックとか大いなる眠りとか歌の一つも出てくる。こちらの車がボロであればなおさらいい。法律の下に金持ちと貧乏人は決して平等ではないが、渋滞の中では平等であることを快感できるのである。
翌朝も子供の騒ぎで眼が覚めた。
何日か前の新聞が食卓に載っていた。ニュースというのは背景を知ってないと意外にわけが分からないものだと感心する。さらにページを開くと、曾野綾子のエッセーがあった。30年ほど前に山口県で起きた「殉職自衛官合祀拒否訴訟」の際に、このキリスト教徒の作家が、神道合祀を行った国を支持していたのでへえーと思ったことがある。「キリスト教徒として(国に対して)寛容でありたい」というようなことを書いていたからなおさらへえーと思った。人類が支配者と被支配者に分かれて以来何千年もの間、支配される大衆はいつだって支配者に寛容だったし、今でも曾野綾子などにいわれなくても国民は国家に対して十分すぎるほど寛容である。実につまらないお説教をするものだというのが正直な感想だった。このエッセーでも海外援助について、「日本人は世界のどこでも自分の善意が通じると思いがちだ」というようなことを書いている。相変わらずつまらないお説教をするものである。だいいち自分の善意が世界に通用すると思いこむことにかけてはアメリカの方がずば抜けてうわてかもしれんと思う。「俺の善意が受けられへんちゅうのか?」 いうて世界中に爆弾落としまくっとるもんな。それで「ごっど・ぶれす・ゆー」やもんな。
中根千枝以来、大学の先生や有名な作家が「日本はこうで、欧米はああだ」と書くともてはやされるという。もっとも、こういうのはさかのぼれば江戸時代の国学者に行き着くが、「日本欧米比較論」が大衆的エンターテイメントになったのは戦後のようだ。あんまりもてはやされるものだから、「自分たちは特殊だという本がこんなに売れることだけが日本の特殊性だ」という言い方さえある。ところが日本でもオーストラリアでも中の並階層、松竹梅でいえば梅階層で暮らすとやっぱり庶民の感覚なんて日本もオーストラリアもそれほど違いがない。違いがあるといえばあるけれど日本人同士だってぼくと感覚が違う人はいくらでもいる。逆にアボリジニ文化だっておもてっ面をはがせば日本文化と似たところはいくらでもある。中根や曾野なんかがいう日本的集団とか日本人とかが「どこにおるねん?」ということになる。結局、タテ社会やとか横並び社会やとか、日本社会も縦になったり横になったりけっこう忙しいんやねえ、と斜(しゃ)に構えているのがなによりマシと見つけたのである。
「待ち合わせ、何時やった?」
「10時。場所はナントカ・ホテルのロビー」 聞いても思い出せない名前だった。
「そこに泊まったはるのか?」
「いや、待ち合わせに利用するだけや」
アンマリーが以前英会話を教えたことから友人づきあいになった笠原さんという女性がアンマリーに会うためにわざわざ東京からやってくることになっている。その後でアンマリーは山崎のアサヒビール美術館の展示を見たがっているし、夕方には能勢のピンクの自宅に行くことになっている。歌っていた時でもこんなに忙しいスケジュールはなかった。
アンマリーは大きく重いバッグを抱えている。バッグにはシドニーから持ってきた大皿が入っていた。
日本に着いた日と同じ道を摂津富田駅まで歩く途中で、ドミニクが、「ヤスユキおじちゃん、なんで迎えに来てくれへんかったんやろ?」とつぶやいた。
高槻で乗り換えた真新しい快速は中程度に混んでいた。シドニーではバスでも電車でも見ず知らず同士が少しでも触れることを嫌がるからどんなに混んでいてもすし詰めになることはない。親しい者同士ではベタベタとくっつく。くっつかない人もいる。満員電車で知らない者同士がびたあっとくっついても平気なくせに身近な者同士で触れ合うのを避ける日本人はおかしいとアンマリー。身近な者同士だとやたらとさわりたがるくせに知らない者には近寄るのもいやというオーストラリア人はおかしいとぼく。アンマリーは、家族の誕生日を祝わない日本人は薄情だともいう。誕生日なんて迷信やで。子供の誕生日パーティはゴミにしかならんプレゼントの山クリスマスもゴミにしかならんプレゼントの山そのくせ日本のお中元お歳暮は虚礼やいうて笑いたがるみんなあたしら文明人です迷信深い未開人やありませんみたいな顔してちっとも変わらん頭のてっぺんからつま先まで迷信のかたまりお歳暮も誕生日のプレゼントも迷信深い未開人のポトラッチ家族愛の誕生日プレゼントも未開な消費社会の迷信ちゃうか、という頃にはアンマリーの方は京都観光ガイドブックなどに熱中していたりするのだった。
京都駅はすっかり変わっていた。壮観になったともいえるが、007映画あたりで悪の帝国の要塞になりそうな雰囲気でもある。ほら、あの塔、京都タワーいうてなあ、あれが建った時はえらい騒ぎやった。京都でいちばん景色のええのは京都タワーのてっぺんやいうてなあ。何でかいうたら、あそこからなら京都タワーが見えへんからやとかなあ。シドニー・タワーでもそういうこという人おったなあ。
地下道を抜けて向かい側に上がり、開いたばかりの店々で道を聞きながら待ち合わせのホテルを探した。何度か見落として通り過ぎたところにそのホテルはあった。
「この格好では宿泊客やないことはまる分かりやなあ」
「ええねん、分かっても何にもいわれへん」といいつつも親はコーヒー、子供にはオレンジジュースを注文するあたりがいかにも小心者である。例によって子供たちがソファやカーペットの上をカタツムリのようにはい回り始める頃、笠原さんがやってきた。どこに行きましょう? 清水寺あたりはどうでしょう。ホテルの車寄せに入ってきたタクシーの運転手は「6人乗せると違反ですねん」とか口の中でモゴモゴいいつつそれでも降りろともいわずに発車した。「警察が見えたら隠れるんやで」とモニカに言い聞かせた。
清水寺はご本尊の33年ぶりのご開帳ということだったが、子供は真っ暗闇の「胎内めぐり」に圧倒されたようだった。いつもならしゃべりっぱなしの子供たちが一言も発しない。こちらも子供と一緒だと、33年ぶりでも百年ぶりでも仏像を鑑賞するいとまもない。
清水寺を出て下る参道で着物を着た若い白人女性が写真のモデルになっていた。
「コンピュータ雑誌の表紙か何かの撮影ちゃうか?」
「なんでコンピュータ雑誌やの?」
「分からん。なんとなくそんな気がした」
アンマリーがモデルに何か話しかけた。
「なんていうてた?」
「着物がきゅうくつで撮影に時間がかかってくたびれた、いうてた」
またまたタクシーで京都駅まで戻り、山崎まで電車に乗った。
笠原さんは裕福ながら金持ちぶらず、おっとりした人で、ぼくの回りの人たちとしては希有な人である。ぼくの回りには金持ちぶらない人やおっとりした人はいくらでもいるが、裕福な人はほとんどいない。金持ちぶらないのも現実に金持ちではないからである。
「私は日本におりますから、いつでもどこにでも行けます。アンマリーさんの行きたいところにお伴します」 ぼくの回りにはこんな話し方をする人は一人もいない。
駅を降り、待合所で待つほどもなく美術館行きの無料バスがやってきた。美術館は、江戸川乱歩の小説の舞台になりそうな洋館で、美術作品はそれなりに趣味がいい。
「ほら、あそこに川が見えるやろ。あれが淀川。こっちの山が天王山、向こうの山が男山。筒井康隆の東海道戦争ではこのあたりが戦場になった」
窓の外を指さして蘊蓄を披露しても誰も聞いてないのがつらい。アンマリーはモネの「睡蓮」や彫金作品の方に興味があるみたいだし、子供たちはなんとか飲み物にありつこうとしている。連作の「睡蓮」は、その複製が、ピーターシャムで時々利用した大衆中国料理店の壁紙になっていたから、「睡蓮」を見ると、大衆中国料理店の壁紙、という関連づけができあがっており、中華鍋で焦げるゴマ油の臭いまで漂ってくるのである。
淀川はこの少し上で桂川と木津川が合流する。小学生の頃、父に連れられてこちら側の大山崎から対岸の八幡まで渡しに乗ったことがある。実際のところ、父はこの渡しに乗ってみることだけのためにまる一日を使ったのである。背より高く萱の茂る河原の道を行くと、舟着き場に浅い舟がもやってあり、おじいさんが客を待っていた。自転車の人も乗ってきた。子供が5円、大人が10円くらいだったと思う。船頭は父に、隠居の身で働かなくてもいいのだがタバコ銭を稼ぐために渡しの船頭をしているのだといった。桂川の中州に着くと、船頭は客と一緒に砂地の萱原を抜けて木津川の岸まで歩く。そこにもう一そう浅い舟がもやってあった。ろこぎだか棹こぎだったか思い出せない。そうやって、八幡側に着くと、おじいさんはそこで客を待ち、父とぼくはまだバイパスができる前の国道1号線を渡って京阪八幡駅まで歩いた。
美術館からは下り坂を歩いた。途中の人家でガレージ・セールをやっていた。
「うーん、ガレージ・セールはどこでも同じやな。ゴミかオプショップの商品か分からんがな」
救世軍の経営するオプショップというリサイクルショップがある。人々が無料で寄付した品物を売って活動資金に充てている。アンマリーは旅行で通りがかった町のオプショップに入るのを趣味にしている。もっともそうやってオプショップで買ったものはたいがい次の機会に近所の救世軍の寄付箱に持っていくことになるのだが。
笠原さんは山崎から京都に戻り、東京行きの新幹線に乗るという。アンマリーはお礼にとバッグごと大皿を渡している。ぼくたちは改札口を入ってプラットフォームに向かった笠原さんを見送ってから駅前広場に出た。このあたりはまだ落ち着いた住宅地の趣が残っている。西に傾き始めた日差しの中、阪急大山崎駅に向かって西国街道を歩いた。
高架駅で電車を待っていると、塀の向こうの線路を、轟音と、その辺のゴミを吹き飛ばすような猛烈な風を巻き起こして新幹線の電車が走りすぎていく。小さくなっていく砲弾のような車両を見送って、子供たちが口々に「シンカンセン!」といった。子供たちのシンカンセン体験はそれだけだった。
何百回も乗ったに違いない阪急京都線は、沿線の住宅も工場も12年前とあまり変わっていなかった。長年住んだ土地にはたくさんの思い出がある。中学時代の友人は大学受験前の大晦日に電車に飛び込んだ。火葬場でカラカラと軽くなった肩の骨にバラスが食い込んだままだった。小学校に入る前の夏に台風が来た。隣町の川が切れたというので、父に連れられて見に行った。あたり一帯が水浸しで、天井川の堤の一部がごそっと消えていた。カステラの一部を切って取り除いたようになっている。小学校に入ると毎月一回くらい、父に連れられて高槻の映画館まで洋画を見に行った。5キロほどの道のりを行きも帰りも歩いた。その頃はなぜかよく歩いた。たぶん安上がりだったからだろう。小学校の向かいを流れる小川は水量豊かで、あぜ道ほどの堤にはグミやジュズダマも繁り、春にはタンポポやツクシが一面に広がり、魚やエビや貝が棲み、クロモが揺れていたのに、ほんの数年でひどい臭いのドブになってしまった。
田畑だった土地に一軒建ち、二軒建ち、あぜ道が自動車の通る道路になり、立て込んだ町並みになっていったこの半世紀近い歳月の変化を一日一コマくらいのコマ落としで見ればさぞかし面白いだろうと思う。食パンの青カビみたいに建物が猛烈に広がっていき、やがて地面を覆い尽くしてしまう12分半の映画。だからといって誰かを責める気にはなれない。自分もその一部なんだという気持ちがある。
京都線はまだ中途半端な時刻で十三まで空いていたが、乗り換えた宝塚線はすでに混み始めており、空いた座席はなかった。電車が曽根の高架を走るあたりで大阪空港に降りる飛行機が窓の外に大きく見えてきた。子供たちは、周囲の勤めや学校からの帰りの人たちを茫然と見ている。このあたりに来ると、なぜか電車が空高く走っている気がするのだった。
日本に来る何か月か前のこと。シドニーの自宅の玄関廊下に、前の住人が残していった姿見がある。気むずかしいドミニクがその姿見の前でひときわ気むずかしくしていたとアンマリーがいった。見られていると知らずに「なんでぼくはこんなんなんだ?」と叫んでいたという。その頃通っていたタバナーズヒル小学校の友達はほとんどが白人だった。白人は、親の髪は濃くても子供は金髪でシミ一つないピンク色の肌ということがある。ただし、やがて髪の色が濃くなり、肌はシミやそばかすが目立つようになる。どう見ても北アジア系という造作のドミニクは自分が友人たちと違っていることがいやだったらしい。
そのことがあったのと同じ頃、学校帰りにドミニクが、
「友達に、誕生日に招待してやらないといわれた」といった。
「どうして?」
「日本人は鯨を殺すからだって」
その時は、さすがにぼくもドミニクを連れて、校長のメアリー・オドワイヤー先生のところに苦情を持ち込んだ。アイルランド系のオドワイヤー先生は、オーストラリア人のナショナリズムをかき立てるアンザック・デーなどの行事が大嫌いだったし、1996年に保守政党が政権をとって以来軍国主義的なナショナリズム宣伝がますますひどくなっていた。進歩的と思われている環境運動も人種差別心情や排外主義と結びついていて、ぼくはエコレーシズムと呼んでいる。話を聞いてオドワイヤー先生はかなり困惑したようだった。誕生日に招待してやらないといった友達の母親も教師で、オドワイヤー先生から話を聞かされてかなり狼狽していたと後で聞かされた。直接の謝罪はなかったが、日本の朝礼にあたるアセンブリーの際にオドワイヤー先生が子供たちに訓話した。日本行が子供たちの世界理解に役立つことを願っていた。どこを向いても自分に似た人たちがいる土地があるということはドミニクにとって意外な発見だったようだ。
電車の中で近くに立っていた二人の女子高生が子供たちにキャラメルを与えようとしていた。子供たちはどうしていいものか、とまどっている。ぼくが「ありがとうといいなさい」というと、キャラメルを受け取っていいのだと理解して、小さな声で「サンキュー」といい、女子高生たちは「まあ、可愛い」とはしゃいでいた。こんなガキどもが可愛いのならいくらでもくれてやるが、そのガキどもは猫をかぶっているから誰もぼくの言葉を信じないに決まっている。
記憶にある川西能勢口は地上駅だった。能勢電の最終連絡まで、ピンクたちと石橋で飲むと、川西能勢口で阪急のプラットフォームから能勢電のプラットフォームまで酔っぱらいが必死に走ることになる。その能勢電は市街を外れるとすぐに郊外に出て、田畑や渓流や岩壁を縫って走り、駅ごとに乗客が減っていく。途中にかなり小さな曲線区間があるから車両は短い。外は真っ暗闇で窓ガラスには薄暗いぼくらの姿が映っていた。ごつごつした岩壁に反響する車輪のきしみを聞いているとまるで異境にさまよい込んだような気になるものだった。
石橋で飲むことも減り、それぞれが自分の生き方で忙しくなり始め、25年ほどが過ぎた。ピンクとは時折電話で話すことがあった。畑をやっているからたまには遊びに来いやと何度も誘われていたがその度に生返事で済ませていた。
能勢電はカラフルな電車になり、急な曲線も荒削りな岩壁もなくなり、代わりにウィークデーのテーマパークのような駅が増えていた。
「後どれくらい?」とドミニクが聞いた。
路線地図を見ながら「一時間ほど」と答えた。
「ええ、いちじかん?」と子供たちがいった。
「冗談。次の次」
常盤台駅は昔のままで、駅前に少し店が増えていた。迎えに来てくれた坂本洋さんの車で長い住宅地の坂道を上がっていくと、当時、気恥ずかしいほど真新しかった家並みも今は古びて、庭木が繁り、すっかり周囲に溶け込んでいる。ピンクの自宅はぼくの記憶のものとは違っていた。
「よう来たなあ。もうみんな集まってるで。まあ、坐れや」 昔と少しも変わっていないピンクがそういった。
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