12年と12日 その8 聖火台のキャシー
子供たちはいつものように朝早くから目を覚まし、はしゃぎ回っている。そのかたわらで親は浜に乗り上げたゴンドウクジラのような気分でのたうっている。いっそゴンドウクジラの方がもう少しやさしく扱ってもらえるというものだ。ゴンドウクジラなら、ガキどもが「起きろー」とおたけびを上げながら肝臓めがけてニードロップをかけてくることもない。それにしても、もう爽やかな朝なんて何十年もお目にかかっていない。そんなものあったのかなかったのかもはっきりしない幻の記憶になってしまった。義兄の一人は農業試験場の正業のかたわら趣味の農場を買って、たまに訪ねていくと、高血圧のせいかやたら朝早くから張り切って庭仕事とか薪割りとか水道修理とかしている。いい年して何が面白くてあんなに朝っぱらから元気なのか分からん。しかも、何ごとも規律正しくないと気が済まない性格だから、何かを植えるとか家畜を飼うという予定もなしに、長年ほったらかしになっていた農地のクロイチゴの藪を焼き払ったり、雑草を刈ってトラクターで耕したりしている。
「雑草も緑のうちちゃうん?」とかいうと、からかわれていると思うらしい。「おう」とかよう分からん返事が返ってくる。世間ではおおむね義兄のように朝から元気いっぱいで雑草を刈っている者がほめられるから、何をいってもこちらの立場が弱い。しかし、歴史の本を読むとナチスとかファシストなんていう物騒な連中も非常にマメで規律とユニフォームとスポーツと人殺しが大好きである。ぼくはマメも規律もユニフォームもスポーツも人殺しも大嫌いである。それでも世間はマメで規律好きな義兄のような者をほめるから何をいってもこちらの立場が弱い。それならやはり浜に乗り上げたゴンドウクジラでも演じておくかという気になる。そうではあっても何となく業腹だから、「案外、ああいうのがいきなりポックリいくんやで」とアンマリーにささやく。うちらはどうなん? とアンマリーがいう。そうやな、腰が痛いとか、肩がこるとか、低けっつぁつや、頭が起きてけーへんとか年中ぐずぐずいいながらけっこうしぶといんちゃうか、とぼくがいう。
はしゃいでいた子供たちが、そのうちに手か足が頭に当たったとか当たらなかったとか、蹴ったとか蹴らないとか三つ巴になって騒ぎ始めた。浜に打ち上げられてのたうっていた親もさすがにたまりかねて布団を片づけることにした。ドミニクが何か騒いでいる。
「どないしたん?」
「アランが破った」
「何のこっちゃ?」
「アランが窓破った」
「ぼくちゃうわ。ドミニクがぶつかってきたから破れた」
なるほど、窓の内側の障子が少し破れている。笑い事やない。これは謝っとかんとあかんわ。やっぱりウィーン少年合唱団風に育てた方が良かったなあ。今更どう考えようと後悔先に立たず先立つものにはいつも先立たれという暮らしやからなあ。子供のできが悪くても親としては誰に文句をいうこともできない。行く先々で物を壊すようでは相手も困るが、親も困る。年中叱っているものだからさっぱり効き目がないが、さりとて叱らないわけにもいかない。体罰は子供の根性をねじ曲げるだけだからやらない。そのことはぼく自身がよく知っている。ぼくの根性がねじ曲がったのは体罰のおかげである。いっとくが戦後日本の学校では体罰は禁止されている。あくまでも教師の「私的制裁」である。オーストラリアは先進民主主義国だから体罰はない、なんて思うなら甘い。妻に聞けば戦後もずっと体罰があったという。
「いつだったかもう忘れたが、/麦の見える教室で/ハンカチのようにぼくをはたき倒した先生/どよめく麦うっわらっているな/どっとあふれるくやしさで成長し振り返ると/先生は麦をガムのように噛みながら/山羊よりやさしく老いている敵ではない」と詠った詩人がいる。ぼくは詩人ではないからくやしさで成長する代わりに侮蔑を抱えて成長し、卒業と同時に制服を捨て、二度と振り返らなかった。オーストラリアは先進民主主義国だから学校に制服などないと思うなら甘い。特に私立高校の制服は、日本のプロシア歩兵風軍服のずっと昔をいくウェリントンがナポレオンと戦った天下分け目のワーテルロー風軍服だったりする。
「遊び場に行こう」とモニカがいう。家の隣に公園があることをちゃんと見ていたらしい。モニカは兄弟二人のような物欲がない代わりに、歌ってくれとか、話をしてくれとか、遊んでくれとか、とかくサービスを要求する。
「ほな、行こか」とゴンドウクジラになった親がいう。破った障子のことは後で謝ればいい。
早朝の誰もいない公園でモニカは滑り台やシーソーを独り占めして楽しんでいる。ぼくはベンチに腰をおろし、空模様と同じようにどんよりした頭で娘の遊ぶ姿を眺めていた。
「桜星が待っているよ」とゲバラがいった。
桜星というのは、ずっと昔に尼崎あたりから鳥取のはずれの姫路という村に住み着いた人物で、横尾という立派な苗字がある。名前は忠則ではない。1970年代の半ばに桜星を誘って北海道までのドサまわりに付き合わせたことがある。5万円で買ったという、いつ壊れてもおかしくないポンコツ車に楽器を積み込んで延々と走った。今は京都木屋町でギターのリペアをやっている村島洋ちゃんとシェリフのメンバーだった青木しげひさの仲間連れで、猛烈な珍道中だった。あちこちで世話になり、ギャラは4人の飯代と車のガソリン代、青函連絡船の船賃にあらかた消えてしまった。桜星は大金を懐にして帰りつもりでいたらしい。面白かったといえば面白かったし、情けないといえば情けない。あれから、お互いにそれぞれの人生を歩んできたのだなときわめて月並みな感慨がわいてくるのも年のせいだ。
今日はその桜星が観光案内をしてくれることになっていて、自宅で待っているという。道すがら、大通りから入った路地に小さな店を見つけた。三畳ほどの土間の売台に3個か4個ずつ梨やトマトを積んだザル、駄菓子の箱を並べている。缶ジュースの冷蔵庫もあって、おばあさんが店番をしている。子供たちもアンマリーも珍しいものでも見るように立ち止まった。確かに珍しいに違いない。オーストラリアでこんなに小さなままごとのような店でおばあさん一人が店番しているのを見ることはない。いつものようにガキどもはあれが欲しいこれが欲しいと言い出した。それを羊飼いのように追い立てて歩いた。
桜星邸は、家族が出払っていて、桜星一人が留守番をしていた。まずいことにゲーム・マシンとゲームが山ほどある。ガキどもはめざとく見つけ、トリュフを見つけたフランス豚のように突進した。
「まずどこに行こう?」とハンドルを握った桜星。ゲームの山を眼の前にしてむりやり引きはがされた子供たちは不満そうである。桜星も不満そうである。ぼくは家族を連れて初めて日本に戻ってきたのだから、完全に観光引率気分である。
鳥取砂丘の駐車場から最初の砂の斜面を登る間にもうちのガキどもはいつものように泣き言をいい始める。砂の斜面を上がりきったところで、アンマリーが口をあんぐり開けた。
「なんでこんなところにラクダがおるん?」 オーストラリア人にラクダのことで文句をいわれることはない。オーストラリア内陸の砂漠あたりにも中東から持ち込まれたラクダがたくさんいて、観光名物にもなっているし、ラクダのパッチが地域の名産になっている、なんてことはないか。しかしなあ、砂丘→砂漠→ラクダというこの安易な連想がいかにもわびしい。
それでもいちおうこういう名所に来た時にはとってつけたように昔の人を真似て歌の一つも書いてみようかという気になるものである。
九月十五日、吾妹と子等を伴い因幡の国福部の砂山に差し掛かりし折に詠める歌
さばくだらくだだかなしいらくだだ
のればらくだがおちればつらい
にょうぼわめくしがきゃなきさけぶ
そのうち、歌の旅日記でも書こうかという気分にもなるのである。
「向こうの丘まで歩こうか?」 とはいったものの、期待はしていなかった。ここから見ても「馬の背」はいやになるほど遠くに屏風のようにそびえている。
「いやや、帰る」とドミニク。
「どこに帰るねん?」
「オーストラリアに帰る」 無鉄砲なことをいう。
なんのことはない、鳥取砂丘の片隅の砂山に登って、記念写真だけで早々に引き揚げることになってしまった。しかし、駐車場の土産物屋で子供に甘い桜星がガキどものために「梨ソフトクリーム」というのを買ってくれたので少し静かになった。
「温泉に行きたいいうてたな。この先に新しい温泉があるんやけど行くか? 湯はぬるいよ」と桜星。
鳥取は市内にも郊外にもいくらでも温泉がある土地。しかし、ぼくの家族もよくある猫舌猫肌。ぼくなら鼻唄の一つもでてきそうな湯なのに、子供たちときたら「熱い! やけどする。殺される!」と文字通り飛び上がる。するとアンマリーが飛んでくる。かくしてあたしゃ、ぐうたら、ぼんくら、ホーボー、能なしなどの上に、児童虐待の汚名まで着ることになるのである。
その新しい温泉は、草むらの中のいきなり新築町役場風の建物だった。福部村砂丘温泉ふれあい会館温水プールというのだそうだ。別にどうということはないのに、なんとなくここで書いておきたくなるような名前である。むしゃくしゃした時に「福部(ふくべ)村砂丘温泉ふれあい会館温水プール」と10回ほど繰り返してみるといい。不思議と心がふんにゃりしてくることうけあいである。水はぬるいが、やたらと冷房が効いている。まあまあの入りというプールは、お年寄りが何人も胸までつかって歩いている。
「ああ、あれな。新しい体操法なんやて。プールで歩くのがはやっているんや。それに年寄りは入場料が安いしな」と桜星がうらやましそうにいう。
ドミニクがプールから上がってきて、「うんこ」という。手洗いに連れて行って、外で待っているとすぐに飛び出してきた。
「どないしたん? 済んだんか?」
「ううん。怖い」
「何が怖いねん?」
「座るとこがあらへん」 水洗とはいえ、和式にまたがると落ちそうで怖いという。ぼくの長野時代の下宿は風流な旧家の外れで、くみ取り式の手洗いは裾花川と対岸の旭山を望む崖っぷちにあった。床の高さにある小さな窓から、冬などは葉を落とした雑木林にうっすらと雪が積もった墨絵のような風景を見下ろしながらお勤めしたものである。
「我慢できるか?」と聞くと、唇を紫色にして震えながら「うん」という。
その次が砂丘の反対側にある「こどもの国」だった。子供を持つとなにごとも子供中心になる。幼児の間は「自立心」なのに、学校に行くようになるとやたらと「親の参加」が要求される。親は休みには子供が退屈しないようにエンターテイナーになり、サッカーやクリケットのチームに送り迎えするお抱え運転手になり、しかもなにごとにも金がかかるからうんと稼がなければならない。どれ一つおろそかにしても、「家庭を大切にしない」ダメおやじと蔑まれる。ぼくは妻にどう蔑まれようと、「へへへっ」と笑っていられるようになった。ぼくの背中には苔むした亀の甲がはえてきているのである。
ところでこのこどもの国、どうせ子供だましの遊園地だろうと思っていたが、どうしてどうして、入場料を払った以上は意地でも童心に返るとそれなりに楽しめる。ずっと童心のままでいるのも悪くない。2階くらいの高さに大人がかろうじて這って進めるくらいの太さのプラスチックのチューブがうねうねしていて、狭い中を四つんばいで進んでいると向こうから来るモニカやドミニクに出会う。そういうのが子供には嬉しいらしい。向こうから来たアランが大笑いしている。チューブの中で「屁をした」といった。
「次はどこへ行こう?」
「賀露はどうやろ。魚も見たいしなあ」
12年見ないうちに鳥取の西もずいぶん変わったものである。古い町並みの多い東に比べて、西の方はもともとバイパス沿いのがさつな商工業開発という感じがあった。千代川土手を河口に向かって走ると広い駐車場と大きな建物が見えた。
「あれは新しくできたジャスコや。西日本一の大きさやて」と桜星がいう。
オーストラリアでも大都市圏ならほとんど地区ごとに大型ショッピングセンターがある。3階建てくらいのビルにデパート一店、スーパーマーケットが二店か三店、専門店が何十店も入り、広い食堂街がある。ショッピングセンターによっては郵便局、陸運事務所、国民保険、銀行などの窓口もあり、映画館は小さめの劇場が3つも4つもあって、映画をいくつも同時に上映している。ぼくはショッピングセンターで買い物をすることはあまりないが、たまにぶらっと出かける。地区によって買い物客の民族、服装、雰囲気から体型、自動車のブランドや年式、店の種類や品揃えまできっぱり断固として違うから面白い。
アンマリーの出張に付き合って、家族揃ってキャンベラに出かけたことがある。アンマリーが先に車で行き、ぼくと子供たちは鉄道を利用した。キャンベラ駅は田舎の小駅というたたずまいで、駅のキオスクを除けば周囲には店一つない。驚いたことには車で2分も走ると突然官庁街に入った。連邦首都キャンベラはバーリー・グリフィンというアメリカ人が設計し、一世紀ほど前にできた人工計画都市で公園のすきますきまに官庁ビルが建っている。中之島と万博公園を芝生と木立で膨らませたような町と考えればそれほど外れていない。「美しくて好き」という知り合いもいるが、住民のほとんどが政治家や官僚や官庁職員、大学や研究機関関係者という町は、何度来てもぼくには退屈なチューサン階級の町でしかない。
結局ぼくの家族は博物館と美術館をいくつか回った他は、郊外から都心近くまで5か所のショッピングセンターをハシゴして過ごした。出費は子供たちの昼ご飯と親二人のコーヒー代だけだった。薄いコーヒーに貧相なミルクの泡と粉ココアを載せたカプチーノを飲みながら突然閃いた。皮肉なことにオーストラリアで貧乏人が金を使わずに一日中楽しめる場所はショッピングセンターの他にはそうざらにないのである。多分日本でもそうだろう。
「公園や砂浜でも金を使わずに一日中楽しめるじゃないか?」 と義理叔父がいう。
「明日も明後日も札束が転がり込んでくるいう保証があったら、そら一日中砂浜で何にもせんとボケーッと過ごしたり、公園で馬の貧乏揺すりみたいにジョギングするのも楽しいやろ。せやけど、そういう保証のない人間には公園でボケーッとするのは苦痛やで」
「その貧乏揺すりというのは何だ?」と義理叔父がいった。
漁師町賀露 (かろ) の河口にはたくさん漁船が並んでいる。大きな透明ガラスの電球をいくつもぶら下げたイカ漁の船もある。明治時代にはここからも北海道開拓に船出した人たちがいて、その石碑も建っている。川向こうはるかに鳥取砂丘の西端が見える。賀露港はすっかり様子が違っていた。
「どうなるんか知らんけど、大金かけてこんなもん作りよったんやわ」と桜星がいう。
岸壁を囲んだ広い敷地に真新しい倉庫のような建物が建っている。週末でもないのにまったく人の様子がない。ここには昔何度か漁の水揚げを見に来たことがある。大きな木造の魚市場のような建物があり、コンクリートの床はいつも濡れていた。岸壁でも漁船の上でも数人の漁師たちが忙しく動き回り、クレーンで吊り下げたモッコで、鱗をきらきら光らせる魚を船倉からトロ箱に移していた。近所の主婦たちが買い物かごを持って集まって来て、漁師が彼女たちの買い物かごに魚を放り込んでいた。鉄道の給水パイプのようなゴムの筒から氷のかけらがガラガラと音を立ててトロ箱に落ちていった。
桜星について金網のゲートを抜け、岸壁に行くと、あの製氷機も近代的な鉄製の機械になっていた。空っぽの岸壁は乾いてコンクリートの臭いがした。昔の建物は跡もとどめていなかったし、昔のように人が働いて暮らしているという雰囲気もなかった。無人の建物は不気味に静かだった。敷地を囲んでいる金網の外、古い町並みの片隅に木造の市場があり、駐車場に観光バスが停まっている。
「最近は大阪からも観光バスで魚を買いに来るらしいで」と桜星がいう。港から真っ直ぐに突き出した突堤の外側は地元の子供の水泳場になっていたが、それも新しい建物に占領されてしまっていた。
夜には結局オリンピック開会式を見ることになってしまった。オリンピックを逃れてきたのに、日本でわざわざ見るというのはやっぱり世間並みの野次馬ぶりである。長野の時もそうだったが、オリンピックの開会式なんていうのは真っ昼間にやるものだと思っていたのに実は夜始めるものらしい。しかもニューサウスウェールズ州ではオリンピックのために学校を2週間休みにしただけでなく、早めに夏時間に入ったから、シドニーは日本より2時間進んでおり、式を夜更けから始めたことになる。会場のあるホームブッシュはぼくたちの住んでいるところから直線距離にして5キロ程度のところにあって、オリンピックというものは市が主催することになっているそうだのに、そこは世界に知られたシドニー市ではなく世界に無名なオーバーン市の領土である。しかもオリンピック・ゲームからきらきらとこぼれ落ちる砂金はたいがいシドニーやその他の土地の企業や政治家やスポーツ・エリートたちの懐に入るだけで、地元住民は不便をこうむる以外ほとんど何の利益もない。おまけにオリンピックまでの何年かの間にオリンピック・エリートたちの身内びいきや関係者の内紛も暴露されたがほとんどがうやむやになり、いずれを見ても利権や特権に群がるもったいぶった連中の集まりという感じだった。ゲームを素直に楽しみたい庶民や、ひたすら馬のように走ったりカエルのように跳ねたりウナギのように泳いだりすることに人生を賭けている選手たちのことは悪くいわない。しかし権力者や政治家や王族が陣取るスタンドの前を選手団が行進する光景は昔ならナチ党大会、今でも軍隊の観閲式みたいなものだ。うるさいなああんた黙って見とれんか?と妻がいう。しかしその妻が見てあのユニフォームどん臭いわなどとのたまう。見れば日本選手団だったりする。
それにしてもぼくがどうしても好きになれないのは、スポーツ・アマチュアリズムとスポーツ・ナショナリズムだ。キャシー・フリーマンが400メートルを何秒で走ろうとそれはそれで結構だと思う。いい成績が出れば家族や友人も喜ぶというのは分かる。しかし彼女が「オーストラリアを代表して走る」ということになるとまったく分からない。キャシー・フリーマンは、ただ同じ国籍だと言うだけで、アボリジニに対して19世紀大英帝国史観丸出しのジョン・ハワード連邦首相のような人物をも代表しているということなのだろうか。ぼくならとてもそんな気にはなれない。
初めてのイギリス移民船がシドニーに上陸した1月26日を記念するオーストラリア・デーは、先住民族アボリジニにとっては侵略が始まった屈辱の日である。オリンピックの年の初め、トーレス海峡諸島出身の歌手クリスチーン・アヌーが、「オーストラリア・デーがすべてのオーストラリア人が祝える日になればいい。私たちは、過去の過ちを語ることのできない日本人とは違います」という主旨の発言をしていたのでまたかという気分になった、というのは、オーストラリア人がよくやることで、立派そうな顔をしてごくつまらないことをいうからである。つまらないことをいいたければ、ぼくのようにつまらない奴でいればいい。日本の戦争犯罪についていくらでも追及していいが、ではオーストラリアがどれほど立派なのか、ということも同じように問題にした方がいいのだ。クリスチーン・アヌーには気の毒ながら、ぼくにとっては予想通り、ジョン・ハワードはアボリジニと白人オーストラリアの民族和解も謝罪も拒否し、大英帝国史観派の人脈を動員して歴史を書き換え始めた。
オリンピック開会式は、キャシー・フリーマンが点火式で機械の故障で立ち往生し、こうやってテレビで見ている方も間の悪い思いをしながら、どうやら終わったが、ぼくは、あの高い点火台に立って、ドミニクが「うんこ」と叫ぶ情景を思い浮かべてしまった。
やれやれ。
(詩は清水昶の「長いのど」より)
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