12年と12日 その7 岩壁の見える窓
「いらっしゃい。疲れたでしょう」と黄泉(よみ)さんがいう。
「ほら、こんにちはっていいなさい」といっても、子供3人は例によって体をくねくねさせて親の陰に隠れている。自慢じゃないが、ウィーン少年合唱団風どころかごく普通のしつけもできていない。しつけなんてものを笑い飛ばしてきたぼくでもいささか困惑する場面である。
鳥取に戻って、ほとんど結婚と同時に就職したゲバラと黄泉さんのところに初めて遊びに来たのは1970年代の初めだった。当時の鳥取駅は平地駅でいかにも山陰本線の主要駅という雰囲気を漂わせていた。プラットフォームの柱は明治時代のレールを使っていたし、駅前には木造の不思議な雰囲気の建物がいくつもあった。雑然としていて、人の温かみを感じさせる市場も残っていた。駅はやがて鉄筋コンクリートの屋上駅になった。設計図を日本中で使い回ししたようなありふれてこぎれいなデザインの駅になったがついに電化はされなかった。日本中が使い回しの設計図で改造に忙しい時代のことである。
何年か、御弓町という古い町並みの古い実家に二人は父君と住んでいた。子供も生まれた。駅からの道は袋川の流れに沿って歩いた。鳥取の町は何度も洪水と大火に見舞われている。秀吉の鳥取城兵糧攻めの昔からよく洪水を起こしたので何度かつけかえられたという川筋には、日本の都市部ではすでに珍しくなりかけていた土の堤が残っており、河原にはアヒルが遊び、両側の町並みには近代化から取り残されたような独特の雰囲気があり、雑草にも季節の移り変わりが感じられ、そのあたりを歩くのは好きだった。やがて家族は新しい家に引っ越した。
「上がって」と黄泉さんにうながされ、生前、父君が日々を過ごしていた部屋に通され、荷物を置いてごろっと横になった。子供たちもバッグを置くとさっそく中身を広げ始めた。畳の肌触りを感じながら、ぼくが子供の頃、夏休みにレースのカーテンがひらめく自宅の板の間に寝転がって蝉の声を聞いたことを思い出していた。戦後10年少し過ぎたばかりのことで家具がほとんどなく、がらんとした板の間はひんやりして気持ちが良かった。ぼくの板の間は高層住宅を建てるために、家ごと解体されてしまった。
ゲバラは大学時代からサキソフォンを吹いていて、海と山に近い鳥取の町に帰ってからも地元のあちこちでいろんな人と演奏し、鳥取に来た有名なジャズミュージシャンとも演奏している。ぼくと同じように、組織というものになじめない性格だろうに、つい最近子供が手を離れるまで会社勤めを続けてきた。これだけはぼくなど逆立ちしてもかなわない。
ぼくは生来同じことの繰り返しというものがいやで、毎日同じ時刻に起きて同じように食事をして正確に学校や会社に行ってということがいやで死ぬほどいやで本当に死んでしまうと好きとかいやとか言ってられないから死なないぎりぎりのところで同じことを毎日繰り返しているがそれでも毎日ちょっと姿勢を変えたり、歩き方を変えたりして飽きないようにしているのである。
「人間、規則正しい生活が大切や」とアンマリーはいう。医者だってそういうし、なによりも学校で規則正しい生活をいうのはたいがい体育系のファシストのような教師たちだった。話は少し変わるが、昔、「月曜日には市場に出かけ、火曜日は川でお洗濯、トゥラルラルラルラルー…」という歌があった。今でもある。あの歌がどうしても分からなかった。言っていることは分かるが、なぜそんなことに意味があるのかが分からなかった。ところが結婚してから意外な事実を知らされた。アンマリーが子供の頃、母親はヨーロッパの習慣をしっかりと守って、軍隊のように規律正しい生活だったそうな。義母のようにタバコをパカパカ吸っていた人が規律も何もないだろうと思うが、タバコはオランダの大切な商品である。だいたいオランダが誇るチューリップ、チョコレート、タバコなどどれをとってもオランダ原産のものはない。それなりの計略と勤勉がなければできることではない。それはともかくとして、義母は、家族5人の衣類の洗濯を毎週1回火曜日にすることになっていた。週末に着る物が足りなくなっても火曜日まで我慢させられたというほどの呆れた規律だったらしい。火曜日になると大きな銅の鍋、魔法使いのおばあさんがネズミの干物やベラドンナやガマガエルの毒液を煮込むあの鍋に洗濯ソーダと汚れ物を放り込み、グツグツ煮るのである。よく煮上がった衣類は木の棒2本に巻き付けてグリグリねじって絞るか、ちょっと金のある家ならローラー絞り器を使っていた。ヨーロッパのある社会ではそれが一般的だったのであり、だから「火曜日には川でお洗濯。トゥラルラルラルラルー…」ということになる。では話を戻そう。
規則正しい勤勉な生活を我慢したか我慢しなかったかという違いはあっても、無名性へのこだわりということではゲバラとぼくは意見が合う。学校で同級生や教師という世間になじめず鬱屈を抱えて過ごしていたぼくは、同時に世間で偉人とか有名人とかいわれた人たちがどうしても立派とは思えず、「尊敬する偉人は?」と聞かれて、野口英世とかシュバイツアーとかケネディと答える同級生に嘘くささを感じたものだった。年をとるにつれて、他人から見ればどうやらぼくも世間の一人らしいということは分かってきた。しかし、偉人や有名人といわれる人たちをたいして立派と思わないことだけは昔とまったく変わらない。むしろそれなりに肩書き社会であるオーストラリアに暮らしてますます強い信念になった。無名性というのは名前を知られていないということではない。自分の名前以外に何にも頼らないということである。
子供たちにはジュースを与え、ぼくらは凍らせたグラスからビールを飲みながらポツポツと話した。じたばたと生きている間に12年がすぎた。12年あればどんなことでも起きる。ぼくが日本を出る時にはまだ中学生だった息子のユキ君も今では東京の大学で髪を金茶に染めているそうだし、子供を持たないつもりだったぼくは、よりによって騒々しい子供を3人も引き連れて帰ってきた。
12年前と変わってないものもあった。アルベルト・コルダが撮影した有名なチェ・ゲバラの写真の模写とミック・ジャガーのポスターが昔のまま壁にかかっている。銃を抱えたミック・ジャガーのその写真が映画「ネッド・ケリー」の一場面だということには、オーストラリアに来てから気づいた。19世紀、オーストラリア植民地にはブッシュレンジャーと呼ばれる野盗が大勢現れた。当時ゴールド・ラッシュや牧羊で急に景気のよくなってきた開拓地には、政府が無償で提供する区画に応募して鍬を入れるセレクターと呼ばれる貧農たちと、イギリスから資本を持ってきて、勝手に好きな土地を占拠したので、居座る人という意味のスクォッターと呼ばれる富農たちという階級ができた。どこの社会でもそうだが、軍隊や警察はおおむね金持ちの味方だった。「ワルツィング・マチルダ」という民謡には、放浪者が子羊をくすねたところで、「サラブレッドに乗ったスクォッターが現れた。兵隊も現れた、一人、二人、三人」というくだりがある。貧乏人の中から自分たちで「富の再配分」をしようとする者が現れたのも当然のなりゆきだった。貧しいアイルランド系開拓民の家庭に生まれたネッド・ケリーことエドワード・ケリーもそんな一人だった。やや粗暴な不良少年は警官のいやがらせのおかげですぐに一人前の犯罪者に成長し、ブッシュレンジャーの頭領になった。5年間に19の罪状で起訴され、そのうち15件までが却下されたというところに警察のむちゃくちゃさが示されている。貧農の中にはジャガイモ飢饉を逃れてきたアイルランド人も多く、「新天地」で再びイギリス人富農と権力の差別を受けたたためにブッシュレンジャーに同情し、かくまったり、食事を与える人も多かった。ネッド・ケリーと彼の仲間は、ビクトリア州のグレンロワンという田舎町の宿にいるところを包囲され、銃撃戦の末に負傷、逮捕された。ネッド・ケリーは、1880年に弱冠25歳でメルボルン監獄において処刑されている。彼の同時代のブッシュレンジャーたちも、20世紀に入る頃には社会制度の確立や、鉄道や電信の発達で活動の場を失っていった。
ところで、ぼくの住み家は、オリンピック会場から数キロのところにあるが、オリンピックとは何の関わりもないごく月並みな世間である。月並みなオーストラリア人たちは、日本の観光ガイドあたりが描く「ブロンド、青い目、快活、フレンドリーで、スポーツが大好きなオージー」たちとはまったくかけ離れている。観光用オージーは、「フジヤマ・ゲイシャ」みたいなものである。フジヤマに登る人やゲイシャをあげる人よりは多いかもしれないがやはり誇張した世界であることにはかわりない。
シドニーに住み始めて間もなく、パディントンという町の古い町役場を改造した映画館にニュージーランド映画を見にいった。どの映画だったかはっきり思い出せない。もともと市場が小さいから政府の補助金なしでは映画制作は難しく、政府補助で作られる映画は市場性を無視した芸術映画になる傾向がある。映画館の前のバス停で、「コンニチハ」と日本語で話しかけてきた老人がいた。老人はエドワード・ハースコビッツと名乗った。エディと呼んでくれといった。エジプト生まれのハンガリー系フランス人だという。フランスでフィルム編集の仕事をした後、ユネスコの依頼で人形劇団と一緒にアジア各地を回った末、1966年に東京でアニメ会社を開いた。仕事は何年か順調に進んだが、1980年代に脳卒中で倒れ、療養生活が始まった。もうこれ以上療養を続けても症状は改善しないということで山梨の療養所を出て、会社に戻ってみると長年蓄えたフィルムも機材も消えていた。社員も消えていたそうだ。ドコニ消エタカ? 分カラナイネ。エディは、まるでとっておきの冗談を言ったかのように肩をすくめてクスッと笑った。日本人妻と離婚し、親戚を頼ってオーストラリアに来たのは1988年だと言っていた。ぼくより少し早く来たらしいが、知り合って間もなくオーストラリアでは何もできない。フランスで知り合いが事業パートナーに迎えてくれると言って再びフランスに戻ってしまった。
それ以来何年も過ぎた。
ぼくの家から半時間ほど郊外に走ったところにバブチャが住んでいる。3人の子供を連れて訪ねていくと、バブチャは、ぼくたちにはスープやお茶、子供たちにはビスケットとジュースを出してくれる。バブチャは洗濯小屋に銅の洗濯釜を持っていて、植木鉢代わりにしていた。そして、「子供は多い方がいい」という。オーストラリアも日本と同じように少子化が進んでいて、子供が3人いるというと、人からは「大変ね」といわれる。都会に住んでいるとなにごとにも金がかかるのだから大変には違いない。しかし、バブチャに向かって、親2人で子供3人を育てることが大変だとはいえない。
シドニーに着いてすぐに人の紹介で、金持ち地区ローズベイの庶民的なアパートに転がり込んだ。バーシャというポーランド系の女性が住んでおり、共同で借りていた相手が出たあとがまとしてぼくが入ったのである。アパートには時々バーシャの母親が訪ねてきた。その人がバブチャだった。バブチャは本名をローマ・ホドゥケビッチと言った。バブチャが昔話を聞かせてくれた。
1944年夏、まだ若いローマはワルシャワの町にいた。ぼくが英語風の「ウォーソウ」でなく、「ヴァルシャヴァ?」と発音すると、バブチャはしわ深い顔をほころばせた。その年の8月、ワルシャワ市民の反独軍蜂起が始まった。ソ連軍が川向こうまで来ていて、ワルシャワが立ち上がれば、ソ連軍が進撃してくると期待したのだった。市民の蜂起がイギリス亡命政権派に指導されていると判断したソ連軍は動かなかった。2か月持ちこたえた蜂起が壊滅するまでに20万人近い市民が倒れた。その2か月を描いたのが、アンジェ・ワイダの映画「地下水道(正しくは下水道)」だった。蜂起に投じた若いローマもドイツ軍の捕虜になり、1945年に連合軍に解放されるまでいくつかの収容所を転々とした。戦後ロンドンに移ると、エンジニアリングを学び始めた夫を支えて絹ストッキングの繕いの仕事を始め、夫が卒業すると同時にオーストラリアに移民してきた。1950年代のオーストラリアでは復員兵士や欧州からの移民で人口が一気に増え、住宅ブームが始まっていた。まだ白豪主義が続いていて、アジアからの移民は制限されていたから、新しい移民は戦争で廃墟になった南欧や東欧の国の人たちで占められていた。バブチャは夫と共に公庫ローンで郊外の分譲区画と住宅キットを買い、自分たちで家を建てた。子供も増え、二人はローンの残りでモーリス・マイナーという自動車も買った。ここまでは新しい土地で生活を築いていく希望に燃えた移民の姿だった。
ある日、ポーランドに里帰りした夫がふるさとで出会った若い女性を連れて戻り、家を出ていってしまった。それ以来バブチャは、彼女と同じような移民に英語を教えて生計を立てながら4人の子供を一人で育て上げたのだった。
ぼくの住んでいたアパートの台所の窓からは、数メートル向こうの砂岩の壁しか見えなかった。壁はしみ出す水のためにいつも濡れており、シダや苔に覆われていた。崖の上には大きな邸宅があったがどんな人が住んでいるのか見たことがない。バブチャが来ると、その台所でお茶を飲みながら世間話をした。4人の子供はすべて成長して家を離れた。バブチャは健康を損ねており、いつも手が震えていたが、ぼくが作ったうどんを汁まで残さず平らげ、「おいしい」と言ってくれた。
アパートはバルフォア・ストリートという通りに面していた。日本の若い女性なら「ス・テ・キ」とため息つきそうな並木道には、ぼくなら「フ・テ・キ」とため息つきたくなるくらい犬の糞が落ちていた。シドニーの住宅地や公園や海岸の芝生などどこでもそんなものである。清らかな青空の朝、心朗らかに通りを歩いていて、唐突にブニュウといういやあな感触を足裏に感じたらおしまいである。清らかな青空も、朗らかな心も吹き飛んでしまう。やがてバラの香りなどとは決して間違えることのない「にほひ」が漂い昇ってきて嘔吐中枢をグリグリと刺激する。しかも、断じて言うが、オーストラリアで猛犬を飼っている人たちはおおむね飼い犬より獰猛である。こんな話をしたかったわけではない。
通りの名前はぼくの知り合いの間でもよく冗談のタネになった。イギリス政府の1915年の「マクマホン書簡」では、中東地域にアラブ人の国家を建てることを支持し、1916年の「サイクス・ピコ協定」では、中東地域をフランスとイギリスの間で分割領有することが約束され、1917年の「バルフォア宣言」では、中東地域にユダヤ人の国家を建てることを支持していた。これこそ現在のイスラエルとパレスチナの血みどろの戦いの原因になったイギリスの三枚舌外交である。イギリスとフランスは中東を自分たちの都合に合わせて線引きし、それ以後もことあるごとに介入し、第二次世界大戦後はアメリカも加わって中東に常に戦乱をもたらしてきたのである。
ある時、レバノン人が運転するタクシーに乗ったことがある。ぼくが日本人だと知ると、「日本が悪いことをすると40年間世界中が日本を批判する。ところがイギリスが900年悪いことをしても誰も何もいわない」といった。
彼がイギリスのアイルランド支配を言っているのは明らかだった。ぼくは日本が批判されるのは分かるが、イギリスが批判されないのは人種差別だと思うといった。
「パレスチナを知っているか?」と彼がいった。
「もちろん知っている。日本の友達にもパレスチナを支持している者は多い。ぼくはパレスチナ人のために運動しているわけではないが」
「いやいいんだ。パレスチナ人が世界中から忘れられていないということだけでいいんだ」と彼はいった。
「日本人は平和ボケ」という言い方がある。平和ボケで何が悪いものかと思う。危機管理ができていなくったっていい。中途半端な意識に目覚めたりせず、徹底的に平和ボケすればいいのである。ぼくの直観が正しければ、50年以上も戦乱を生きてきたパレスチナ人にとって共通の望みは、自分たちの土地でボケるほど平和に暮らすことのはずだ。パレスチナ人がそういう平和を手に入れることができれば、平和のもたらすものを味わい尽くすと思うのである。
「平和ボケ」という言い方は、子供に「食べ物を残したらあかんよ。アフリカの飢えた子供のことを考えなさい」とお説教するのに似ている。子供が食べ物を残さず食べたからといってアフリカの飢えた子供が助かるわけではない。たとえ食べ物を節約してもアフリカの飢えた子供が助かるわけではない。アフリカの飢えた子供が助かるためにはアフリカの飢えた子供が食べ物にありつくしかない。
アイルランド人の友人ビンセント・ウッドが「黒豚の小屋で」という脚本を書いて、その芝居をイギリス、ドイツ、カナダ、アメリカで上演し、シドニーでも演じた。北アイルランドの小さな村が舞台で、二人の青年が一人はイギリス王党派、一人はアイルランド共和国派に投じる。敵対する組織に入った二人は帰郷するたびにそれぞれの活動を吹聴する。その現在と交互して、キリスト教がまだ伝来しないドルイッド時代の村の習俗が展開される。藁束に包んだ死者たちがアイルランドの古謡を演奏する。やがて大団円がやってくる。二人の青年は拳銃を撃ち合い、一人が倒れる。しかし、村人がやってきて、生き残った青年をたたき出してしまう。この村で、人々は何世代も生きるために助け合ってきた。この村には、殺し合う者たちの居場所はない、というのである。
芝居の後でビンセントが1通の手紙を見せてくれた。ドイツに住むユダヤ人女性からのものだった。戦争中ドイツ国内でユダヤ人を救った大勢のドイツ人がいた。その人たちは政治家でも運動家でもなく、ごく普通の市民だったというのである。
夕食には黄泉が山ほどの魚料理を用意していてくれた。子供たちはいくつかの料理に少し手をつけただけで、魚は食べようとしなかった。これにはまたまた困った。挨拶できないのは「照れているのね。わあー、かわいい」で済むが、よそで食べ物の好き嫌いをいわれると、まるで家でまったくしつけをしていないみたいではないか。そんなことはないのである。夕食時は野菜や魚をめぐって脅したり、たぶらかしたり、買収したり、連日駆け引きが続くのである。しかしこちらも小さい時には好き嫌いがあったという良心の疼きがある。まして、「父さんの子供の頃は…」 なんていうと、アンマリーが「昔と今は違うんやから、そんなこというてると子供に馬鹿にされるで」と誰の味方だか分からないことをいい出す。
「ニンジンは好きか?」と聞く。
「大嫌いや」と子供たちが答える。
「そんなら、ニンジンが好きになるまで、毎日ニンジン食べさせたる」とぼく。
そこで、「ニンジン、ダーイ好き」と答えるのはアランかドミニクである。知恵が半分しかないのである。
「それは感心なことや。ニンジンが好きやったら毎晩でも食べさせたる」
計略では勝っても、結局3人とも腕を組み、口を閉じて抵抗する。
「アフリカの飢えている子供のことを考えなさい」といいたくなるのをぐっとこらえ、毎日、食器を洗い、子供たちを風呂に入れる頃には親はくたくたである。
そして、久しぶりの友人を訪ねていくと、子供たちに「魚は嫌い」とやられるのである。
子供を寝つかせるために早めに横になった。モニカが子守歌を歌ってくれとせがむ。
「お休み、何も言わないで。マネシツグミ(モッキングバード)を買ってあげよう。マネシツグミが鳴かないなら、ダイヤの指輪を買ってあげよう…」
眠っているものとばかり思っていたアンマリーが地獄の底から響くような声でいった。
「そんな金あるかいな!」
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