12年と12日 その6 湯の花と蟹のハサミ
「ここからは国道一本で行く。狭いけど風景は悪くない」
亀岡市内で燃料を補給し、ついでに冷えた飲み物の大瓶を買って車に戻ると、運転席にいる妻にそう言った。
それにしても、しばらく留守をしていた間にこのあたりもずいぶんこぎれいになったものだ。あすふぁるとは黒いし、白線は白い。そのこぎれいな町並みのすきまから真新しい施設が見える。「ガレリアかめおか」の案内標識があるから、きっとあれがそうなのだろう。いたりあ語の「画廊」のことなのか、いぎりす語の「屋内商店街」のことなのか、まさかあの建築で屋内商店街もないだろうから、画廊だろうか。あの大きさだからたぶん美術館だ。それにしても喫茶店や酒場なら昔から珍しくもないが、この12年の間にこういう何語か分からない名前の施設がずいぶん増えたような気がする。もちろん何語かはたいがい分かるから、「何語か分からない」というのは正しくない。しかし、どういう施設なのかはっきりしない名称がいかにもぽすともだにずむで好ましい。ぽすともだにずむだとなぜ好ましいのか分からないが好ましい。だいいちぽすともだにずむなど少しも分からないのに好ましい。
ふだんまったくお呼びでないくせに貯金額がある額を超えると突然届くようになる銀行とかくれじっとかーど会社からのだいれくとめーるや仕事で翻訳する企業のぱんふれっともぽすともだにすとが作文しているから、やさしい言葉で書かれているのに何を言いたいのかよく分からない。言語明瞭意味不明というものだ。それがいかにも好ましい。ぼくらは意味というやまいから自由になるべきだ。やまいから自由になるべきだ、というのは正しい日本語ではないな。やまいを治すべきだとか、やまいにかからないように予防注射をしなければいけないとかいくらでも由緒正しい日本語はある。しかし、やまいには、かかると治りたくなるやまいもあれば、やまいが立派に思えて治らなくなりたくなるやまいや、やまいにかかっていることに気づかなくて治りたくならないやまいもある。だから健康爽快な日本語の片仮名言葉は意味を分かりやすく伝えるためでもなければ正しく伝えるためでもない。そもそも初めから意味を伝えることなんか目的にしていない。それがいかにも好ましい。意味にこだわるから騙される。金にこだわるから詐欺にあうのと似ている。意味は誤解のもとである。
「ちゃんと道案内してや」というアンマリーの声でわれに返り、あわてて妄想を追い払った。アンマリーは、ぼくの考えごとをのらくら者の暇つぶしくらいにしか思っていないし、新聞や本を読むことさえぶつくさ言う。翻訳屋が新聞も本も読まないでどうするか、というのだが、「あんたは度が過ぎている」という。アンマリーにも度の過ぎていることはいくつもあるが傷つけたくないから黙っているだけだ。
勤め先で亭主持ち同士の会話になったそうだ。うちの宿六は食事中も新聞を読む。そんなん、ざらや。わたしとこのだんつくは手洗いで座って何時間でも本読む。そんなん、誰でもする。風呂につかりながら雑誌読む。それで驚いとったら甘いわ。
それで、とアンマリーが言った。あんたの勝ちや。何のこっちゃ? うちがな、最後のとどめ出したわけや。うちの役立たずは新聞読みながらシャワー浴びとるで。そしたらみんなが一斉に叫んだなあ。わあー、負けた。なんぼなんでもそこまでやらんわ。そうやってアンマリーの同僚の間で確実にぼくのイメージができあがっていく。考えるだにおぞましい。
「もうちょっと使い物になる奴やと思うとったのになあ。使い物になったのは子供を3人もつくった時だけや」とのたまう。アンマリーには、考え事をする時に頭に浮かんだことをいちいちつぶやく癖と、脈絡なしに突然話題を変える癖がある。
「この前買うてきた冷凍餃子はどこの店で買うたん? いつものより、あれの方がおいしかった。ピーターから電話があってなあ」 なんて言うから、こっちはてっきりピーターが遊びに来るから豚白菜の冷凍餃子を1袋買っておいてくれとかそういう話になると予想する。それにしてもどのピーターやろか。知り合いにはピーターもポールも何人かいる。メアリーだって、マリーやマリアやモーリャまで入れればやはり何人かいる。
「何の話してんのん。マチルダの父親のピーターやないの。屋根直したいからええ屋根職人おったら紹介してくれいわれたいう話してんのに、何寝ぼけたこと言うてんねん。ほんま役立たずやわ」 どこか理不尽である。
前にも書いたと思うが、自分で役立たずで結構と思っているから、一向に困らない。これまで一度だって生産性の高い生き方をしたことがないし、だいいち生産性が高いなんてずいぶんあこぎな人物のように聞こえる。オーストラリアの広い土地では森をつぶすのにチェーンソーで切り倒すなんてまだるっこしいことをしない。ブルドーザーで巨大な鎖を引っ張り、行く手にある物をすべてドドドドッとなぎ倒していく。「お木様、伐らしていただきます」という生き物に向かう畏敬の念もあらばこそドドドドッである。大層生産的に聞こえる。そうやってせっかく作った牧場はずいぶんな粗放酪農である。隣島のニュージーランドでは白人渡来以前には全土の3分の2が森林だった。それが4分の1になるのに百年ほどあれば十分だった。面積は日本の4分の3ほど、人口はその百年が終わる頃でも百万人以下、チェーンソーもブルドーザーもない時代である。その猛烈な生産性が分かる。それはともかくとして、隣に住むクロアチア人のアンナおばさんと芝刈りの話をしていた時のことだった。世間の人は庭の雑草を引き抜いてもともと雑草だった芝を植える。ほっとくと伸びすぎるので普通の芝刈り機で刈る。普通の芝刈り機では隅々がうまく刈れないので隅専用のエンジン付芝刈り機を使う。騒音と排気ガスをまき散らす。雨が降らないとさすがに元雑草の芝といえども枯れる。そこでスプリンクラーで日がな一日芝に水をまく。水がなければ地下水を汲み上げてまく。理不尽という気がしないでもない。でまた芝が伸びるから刈る。前に「日本人は水をやたらと使う」ということをオーストラリア人が言うのは間違いだと書いたが、シドニー地域で1人1日に420リットル強の水を使う。日本の関東地方で360リットル程度と言うことらしい。いずれも総量を人口で割るわけだから工場や商店も含めた量で、家庭消費量はその半分くらいだろう。
「芝が伸びたがってるんやから、伸ばさせといたったらええやないか」とぼく。
「うちのジョセフもそう言ってた」とアンナおばさん。
ジョセフはアンナおばさんの息子である。ぼくは小市民でジョセフはヒッピーだが話が合う。それにジョセフは環境保護派でもあるが、「アジア人は金儲けに熱心で環境問題に無関心だ」などとしたり顔でつまらない発言をする人種差別的環境保護派の仲間でないのがい。アンマリーが心配しているのは、ぼくがのらくらすることではない。「うちに二人はいらん」と言う。二人いらんというのは先年なくなった義母のことを指している。義母は戦後オランダからオーストラリアに移住し、そのまま田舎町に住み着いた。イギリス諸島出身の移民だけでできあがっている当時のねっとりとした雰囲気の田舎町にヨーロッパ大陸の旧中流階級社会から移住して来て、かなり苦労しただろうとアンマリーは言う。価値観や生活習慣の違いなら黙ってにこやかにしていればやり過ごせるのに、義母はそれをはっきりと言葉にする人でそのために周囲との間にずいぶん摩擦を引き起こしたらしい。時々「日本は画一主義だが、オーストラリアでは人は思い思いに生きている」などと鯛が門松をかついで来たようなおめでたいことを言う人がいる。オーストラリアで人は思い思いに生きているわけではないし、それなりに画一主義でさえある。それでも一定の掟さえ守っていればその他の部分ではわりあい自由だというのは日本と変わらない。社会通念に反したことを言ったりしたりして、いわば社会から村八分にされている人たちも大勢いる。これも日本とまったく変わらない。アンマリーは、ぼくが義母の二の舞になることを怖れているのである。ぼくが怖れているのはこのまま妻の理不尽な尻に敷かれることである。アンナおばさんは、「ジョセフの言うことは分かるけどなあ、ああいうことを言っているとこの世の中で不利になるしなあ。それだけが心配で」と言っていた。
道を北へ西へ走るにつれてしだいに山が深く、間近に迫ってくるようになる。久しぶりに見る懐かしい風景だった。絵の具をてんご盛りにしたような草の明るい緑と樹木の濃い緑が重なり、あらゆる階調をたどって青く霞む遠景へと溶け込んでいく。オーストラリアで、日本の国土面積の70%近くが森林の山岳だということを知る人は少ない。全土が都会だろうくらいに思っている人も多い。それはかまわない。誰だって他国についての知識というのはそんなものだ。しかし、日本の森林面積を知っている人は「日本は自国の森林を保護して世界中の木を切り倒している」と非難する。日本の政府や企業がはたして日本の森林を保護しているのかという問題を別にして、日本(企業)が世界各地の原生林を伐採させて輸入していることは事実だし、批判されて当然だと思うが、今のところ、オーストラリアの環境保護意識は、金持ちが贅沢三昧しながら自分の庭はきれいにして、どぶどろの上で暮らしている貧乏人を蔑んだり同情したりするのとあまり変わらない。
やっぱり森の方が気分が落ち着くなあ。どこまで行っても牧草と土ばかりの丘がうねうねと続くオーストラリアの風景は退屈やで。そんなことないわ。どっち見ても同じような森ばっかりやないの。退屈やわ。アイルランドから来た絵葉書みたいに見渡す限り草地の山いうのがきれいやで。知ってるか?
イギリス諸島いうのは2000年前は日本列島みたいに森だらけやったいうこと。それを切り倒して、どこもかしこも草地にしてしもうたんやで。
さっき食べたばかりというのにまたまた子供たちは「おなかが空いた」と騒ぎ始めた。時計を見れば、確かに昼近い時刻になっている。
「このすぐ先には福知山いう町がある。そこで昼食にしよう」
「うちは知らんから、案内してや」 と言われても、道の様子が昔と違っている。「シドニーの道路と変わらんなあ」とぼく。
「それでも、日本の方がドライバーがおとなしいから楽やわ」とアンマリーは言う。大阪市内を走ってそれでもまだ意見が変わらないなら大したものだ。
地図もなしにどこに向かっているのかも分からないまま元城下町の市内をぐるぐると走り回った。シドニーの住宅街というのもよそ者を入れないようにするためか、わざと分かりにくい道をつけてある。すべての道がローマに通じているものならローマ観光の方がはるかに楽なはずだと思えるくらい分かりにくい。それでも日本より楽な点は住所が通り番地になっていることである。道路にはすべて名が付いている。これも日本と違うのは道路に人名を付けてもいいということだろうか。福知山の町は日射しの中でひっそりとしていた。車も走り、人も歩いているのに音が途絶えたような雰囲気である。表だけはモダンに改装されているが、全体に昔のたたずまいを残している。食事のできるような店もなく、車を停められるところもないので、子供に乗り物酔いの薬を買って、早々に町を出ることにした。薬局を見つけ、木の引き戸を開けた。上がり口が古めかしい木造の番台風になっていて、骨董品のような親爺が無愛想にいちじく浣腸の広告の下から小児用トラベルミンを出してきた。貼ってある値札もずいぶん色あせた感じだったが薬の有効期限は過ぎてなかったから、大昔にまとめて買った値札を物持ちよく使っているとみえる。日本の都会の雑然とした物のあふれようにうんざりしていたアンマリーもこの文化遺産的な町民生活にはいたく感動したようだった。
もと来た道をたどって国道に戻り、再び西を目指して走った。国道沿いに古い店、新しい店が並んでいる。オーストラリアにいてもそうだが、子供連れでマクドナルドやKFCのような店に入ってしまうのは当たりはずれがないからである。特に好みでなくても、味も設備も値段も分かっているから安心できる。個人営業だと最高かもしれないが最低かもしれない。子供連れだと手洗いが清潔かどうかも心配になる。結局ぼくたちは、豚のトンカツを食べさせるという真新しい店に入った。期待していたわけではないが、味も量も予想以上で、その上子供にはおもちゃセットまでついてきた。えらいサービスやな。退屈した子供に騒がれることを考えたら安いもんやで。それにしても子供ができてから、立派なレストランに行ったことがないなあ。行きにくいものなあ。結局アジア・レストランかファーストフードやもんなあ、子供連れでも歓迎してくれるのは。ちょっと気取ったレストランは最悪や。子供はじゃまもの扱いやもんなあ。リゾートでも子供お断りというところは結構あるらしいで。12年前の日本でも子供お断りいうアパートが問題になってたなあ。なんぼやった? 3,000円でおつりがきた。あれだけの量考えたら安いでえ。知ってるか? 日本のエンゲル係数は20%で、オーストラリアは16%やいうこと。オーストラリアの食費が安いから国民の半分が肥満になるんやろか?
アンマリーは道沿いの農家のたたずまいが気に入っているようである。家並は道路とは側溝とわずかな段差で隔てられているだけで塀も柵もない。庭はきれいに掃いてあり、軒下に竹竿が吊ってあったり、トラックが庭に停まっていたりする他は何一つ余計な物がない。オーストラリアでも牧場や農家の風景はこんなものである。
「何で都会の人がこんなふうに生きられへんのかなあ」という。
オーストラリアでも時折過密過疎が話題になる。郡部では町がさびれ、銀行が去り、店が閉じ、若者には仕事も娯楽もなく、都会の問題と思われていた麻薬と自殺が小都市にも広まっていることが分かり、一方で首都圏は過密になっていく。オーストラリア人の貯蓄率は極端に低い。貧乏人はもともと貯蓄する余裕もないが、中産階層以上の都市住民は株や住宅不動産に投資する。建物がレンガ造りだから、古くなっても建物の価値が下がることがなく、むしろ珍重されて価値がつく。また住所が高級地区だいうだけでまた値が上がる。通りを隔てた高級地区に編入してくれと住民が陳情したり、運動することも珍しくない。住所一つで10万ドルはポンと値上がりするのだから。その上、オーストラリアには贈与税も相続税もなく、さらに貸家などの不動産投資には優遇税制があるから、普通の勤め人でも銀行ローンで2軒目の家を買い、人に貸し、賃貸料でローンを返済しながら、税制優遇を利用して所得税をゼロにしている人たちがいる。そういう人は近所にアパートや区画分譲住宅ができることを好まない。景観が「汚れる」と、自分の資産が値下がりするからである。東京の大学で教えたことのあるハンフリー・マクィーンは、寺院の静寂と都会の喧噪が同居できる日本人の感覚が理解できない、と書いている。しかし、ぼくは寺院の静寂も都会の喧噪も同時に好きだし、都会がごみごみしていたり、車がいっぱいだったり、物価や家賃が高かったり、通りに人があふれていたり、犯罪が少し多くても、ましてや庭付きの一戸建ての代わりにアパートが立ち並んでいても少しも困らない。何よりも都会の利点は人が大勢集まっているからこそ生まれてくる。そして、何の解決策もあるわけがなく、都会は膨れ続ける。
長大な春来トンネルを過ぎて、もう一つ今度は短いトンネルを抜けると長い長い坂道を下り、湯村温泉に入る。この坂道はいつも湿った木立の匂いがする。それにいつ通っても曇り空のような気がする。昔レコードを作った時に手伝ってくれたジンさんの実家が浜坂からこの湯村温泉に抜ける途中の山中だった。湯村温泉はしゃれでなく兵庫県温泉町にある。そしてここには平地というものがほとんどない。
国道が谷底の川を渡るところまで下りて駐車場に入る。いやがる子供たちの尻を叩いて河原を歩いていった。
子供たちは鯉の群れを見つけてはしゃぎ始めた。ここでおよぎたい。魚に食われるからやめとき。考えてみたら、シドニーあたりでこんな量の水がこんなに勢いよく流れる川を見たことがないなあ。河原の両側は石垣と建物が空に向かってせり上がっている。対岸の空き地にカモと並んで大きな鳥がいる。あの鳥は何やろ。さぎかな。あおさぎらしく、人里で見かける鳥としては思いがけなく大きい。工事中の橋の下をくぐって町の中程に来ると、河原に大きなコンクリートの水槽があり、湯がぐつぐつと沸いている。上の土産物屋では生卵やトウモロコシを売っているが、平日の昼下がりとあって水槽は空で、底に湯の花のこびりついたエビやカニの残骸がある。ポツポツと雨が降ってきた。河原を上がったところにあるみやげ屋に入れば、客はほとんどいない。
アンマリーが日本の知人へのみやげに栃の実餅を買った。モニカは何を思ったか電気仕掛けの空飛ぶ円盤を欲しがった。
「こんなもん、大阪でも買えるやないか」といって店を出ようとすると、モニカが脚にしがみついて泣き出す。店員たちが、面白いことが始まった、という顔で見ている。
「モニカはあんまり欲しがらへんから、欲しがる時は買うたりいや」 とアンマリーが言う。兄弟二人はあれやこれやと欲しがるが、モニカはほとんど何も欲しがらない。欲しがるのは食べ物と飲み物だけである。1,500円払って、空飛ぶ円盤をモニカに渡した。
橋を渡ったところに暇そうな骨董屋を見つけた。古本屋と骨董屋はいつだって暇そうでなければならないらしい。小皿や大きな瓶、着物、家具、街角の骨董屋に並んでいそうなものが一通り揃っている。箱に積まれた小皿の上に1,500円の値札がある。「これ、全部で1,500円かな?」
こういう時、アンマリーは何よりも自分の都合のいい方に解釈する。もちろん、骨董品の小皿の山が1,500円のわけはなかった。
「どこから来られました?」 地元のインテリ風のあるじが尋ねた。
「はい、オーストラリアから」
「ハイ、おーすとらりあカラデス」とアンマリー。
「ああ、そうですか。ここでもちょっと前にオーストラリアから来られた先生がいましたね。何と言ったかな、あの先生」 と奥から出てきた父親らしい老人に話しかける。それから主がデビッドという名前を思い出した。どうやら、最近は英語圏から英語教師を招いているらしい。
「ご存じですか? デビッドという人」 オーストラリアの人口1,900万人のうち10分の1くらいはデビッドに違いないなどとは言わなかった。それではみもふたもなさすぎる。
「ご主人はどんなお仕事で?」 と骨董屋の主。
「翻訳業ですわ」とぼく。
「ああ、なるほど。それじゃあ、もう英語はバリバリ」
「いいえ。からっきし」
「はあ、なるほど」冗談か本気か測りかねるという顔であった。
結局何も買わなかった。余裕があれば買って帰りたいものもあったが、それだけのことだった。ぱらぱらと降っていた雨も上がっていた。
再び9号線を西に向かって走り出した。
「後どれくらい?」 ドミニクが聞く。
「一時間くらい」
バイクでこの道を走った時は、蒲生峠の長いトンネルを出るとそれまでの山の冷たい空気が急に潮の香るなま暖かい空気に変わり、寒さにかじかんでいた皮膚がふわっとゆるんでいくのを感じた。車ではそれも味わえないが、道がなだらかに開けた平野に入っていくことだけは感じられる。
ほら、この道の正面に海がある。なんで分かるの? センテニアル・パークからマクファーソン・ストリートに入ってしばらくすると、ああ、この先の丘を過ぎたら海が見えるいう予感があるやろ。あの気分やな。
鳥取への道もずいぶん変わっていた。砂丘のはずれを過ぎ、下り坂に入ると、日本を出る前にはまだ建設中だったバイパスができあがっていた。
ゲバラの住む町も、空き地に家が建ち、古い家が取り壊されて新しくなっていた。おかげで道がすっかり分からなくなり、ぐるぐると同じ町内を幾度も回ったあげく、見おぼえのある公園の遊具を目印にやっとたどり着くことができた。昔ぴかぴかだったその公園の遊具は曇り空の下でくたびれていた。迎えに出てきたゲバラもつれあいのヨミさんも少し年をとっていた。知り合って30年。日本を出てから12年。ぼくも同じだけ年をとっているのだ。昔緑色の蛙の絵の腰掛けで夕食を食べていた息子のユキ君は東京の大学に行っていて、休みにしか帰ってこない。同じ年代の若者と同じように髪を金に染めている。
荷物を下ろして一息ついたところに黄泉(よみ)さんが、「ももたにさんという人から電話があったわよ」と言った。ももたに(百谷)はピンクの本名である。
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