12年と12日 その4 ゆだり損ねたいわし
夜も更け、家族5人は実家の狭い一室にオイル・サーディンのように重なり合って眠っていた。正しく言えば、眠っているのはアンマリーと子供3人で、よほどくたびれていたのだろう、このくそ暑いのにもめげずひしと眠りにしがみついている。ぼく一人が眠れないでいるのだった。オイル・サーディンの缶を開けたら、ゆだり損ねたいわしが一尾だけぱっちり眼を開いている姿を想像してしまった。食べる方にしても食べられる方にしてもさぞかし気まずい思いだろう。
もう9月ではないか、と考えた。子供はみんな秋生まれの9月。「たそがれの帝国」と呼ばれた9月。それともあれは4月か。いや4月は「残酷な月」だ。しかも、暑さとは何の関係もないが、今日はオリンピック開会式もあって、世界がしびれを切らして見つめる中、リフトの不調のおかげでキャシー・フリーマンが噴水のしぶきを浴び続けるのも見た。この国際的ポトラッチ大会の演出がどこまでエスカレートしていくのかまことに見ものではある。シドニーを発つ時は、忍び寄る秋の気配でも味わえるかと思っていたのにドカドカと無遠慮なこの真夏の夜の暑さだ。しかも地上20メートルのアパートの開け放った窓に風はそよとも吹かない。その窓を通してすぐ北を走る国道から調子の悪いラジオのように絶え間ない雑音が聞こえ、時折その単調さを破るようにけたたましい排気音が通り過ぎる。ごくたまにサイレンが近づき、遠ざかっていく。
国道とは反対側の目の下を東海道線の最終近い電車が場違いなほどさわやかな警笛を鳴らして通り過ぎる。12年前に日本を離れた時は、実家は戦後間もない時代に建てられた木造住宅だったが、今は10階建ての高層住宅になっている。何年ぶりかであった両親も老いのかげがさらに深くなっていた。時は丹念に積み重なっていく。寝返りをうったモニカがしがみついてきた。振りほどこうにも身動きできない。わが家では子供たちも自分たちの部屋を持っているのに、なぜかそれほど広くもない居間のテレビの前でごろ寝の好きな親といっしょにごろ寝するのが好きである。ほらあなの熊の家族みたいなものだ。
親になったばかりの時期に、「子供は親と別室で寝させ、泣いても無視して育てなさい」などという育児法を読んだ。正確に言えば読まされたのである。読めといわれたままほっておいたら、「どうせ子供のことなんか構ってないんでしょう、そうでしょう。そんな恥知らずだって分かってたわ」などと脅されたものだからいやいやながら読んだ。本当にそんな恥知らずだと分かっていたのかどうか怪しいものだとは思ったが、状況としては些細なことだったので何も言わなかった。
しかしなあ、と思う。パラパラとページをめくってみて、唐突に「日本では2歳か3歳くらいから英語や算数を詰め込むから、体内時計が狂い、近眼や読字障害、青少年の自殺率が高い」などという文章が眼に飛び込んでくると、それだけでもう育児書なんてものは焚書するのがよろしい、と思ってしまう。
「この説は間違いと思うか?」とわが脅迫者がいう。
「この説が正しいとしたら、それは間違った理由で正しいだけや」とぼく。
「なんかいつものわけの分からん言い方やなあ」と脅迫者。
とりあえずそうかもしれんと思うが些細なことだから何も言わなかった。
「インターネットで調べてみたら分かる。研究者が、『読字障害の研究はアメリカでは進んでますが、日本ではまだ実態がはっきりしません』と書いている。日本の研究者が、実態がはっきりせんと書いてることを・・・これどこの本や?
ああ、イギリスか。何でイギリス人が断言できるのや。ぼくは近眼やが小学校に行くまで何の勉強もしてなかった。それ以後もあんまり勉強したとはいえんけどな。それに青少年の自殺率ならオーストラリアの方が高いけど、2歳から英語は詰め込んでるかもしれんけど算数を詰め込んでるいう話は聞いたことがない。そんないい加減なこと書いても、日本ということにすれば信じてしまうデマ心理の方が怖いのと違うか。思うけどな、こういうものを読んだりせえへん庶民の方がもうちょっとまともやで」
三鷹の婦人会にいた地中かよさんが、クィーンズランド州のパーマカルチャー農園の研修を終えて、ぼくの家族を尋ねてきたことがある。三鷹婦人会は友部のところの由美さんや元高田さんのふみ子さんたちの集まりだった。かよさんはなかなか面白い体験をしたらしかった。
「同じ部屋のイギリス人の女性がね、夜もチーズとクラッカーとリンゴしか食べなくてね、私が晩御飯食べていると、日本人は食べ過ぎだって言うのね」
「ああ、それまったくの間違いだ。ヨーロッパ系の国の人は軒並み日本人よりよく食べる」
「食後に食器を洗っていたらね、その女性がね、日本人は水を無駄遣いする、というのね」
「無駄遣いかどうかは別として、アメリカ人やニュージーランド人、それに都会のオーストラリア人は日本人よりたくさん水を使う」
「それでね、仙人みたいな人がいてね、いつも丘の上で瞑想しているんだけど、ある日私のところに来て、日本人は魂を失った。アイヌの人たちのところに行って教えてもらいなさい、というのよ」
「心配しなくていい。ヨーロッパ人の方がぼくらより先に魂を失った」
「それでね、ある日道を歩いていたら、向こうからトラックががたごと走ってきてね。よく見たらその仙人さんが運転していたのよ」
「うーん。そんなものだよ」という他なかった。
なんとなく没落貴族の底意地の悪さという感じの話である。しかも実によく間違ったことを知っているものだ。
ところで、知り合いにも子供が物心つく前から別室に寝かせたというのが何人もいるが、うちでは少し大きくなるまで親の隣に寝かせ、泣けば何時間でもあやした。なるべくしてなった熊家族ではある。それに、育児書なんてどうせ子供を持った親の不安につけ込んだ詐欺まがいの商売に違いないと決めつけている。晩飯をチーズとクラッカーとリンゴだけで済ませるような連中が書いているに違いない。そんなもので子供を育てれば栄養失調で体を壊すに決まっている。妻の話では、オーストラリアでも最近は、「子供は少し大きくなるまで親と一緒に寝かせる方が情緒的な発達のためにいい」という説がはやり始めているのだとか。
「そら見ろ。育児書なんか読まんでもぼくとこは流行の最先端家族いうことやないか」
「いいや、分かってる。それは口実でほんまは家族から逃避したいんや。男はみんなそんなもんや」とわが脅迫者がいう。
ところで、子供を親と別室で寝かせるのがいいかどうかだが、世界全体を考えれば、いいとか悪いとか言う以前にそんな余裕のある社会というのは少数派のようである。物心つかないうちから親と離して寝かせなければ自立心が育たないのであれば、おそらく人類の大半は自立心が育っていないということになる。それに、自立心というのがそんなに万能のなのかとも思う。映画「マイ・レフト・フット」の主人公は10人兄弟姉妹の家庭に育った。子供たちが重なり合うようにして眠る。体の不自由な幼いクリスティ・ブラウンが床に「おっかあ」と書く。驚いた親父が息子を担いで行った先は近所のパブだった。扉を開けて大声で言う。「モイ・ソン(オレの息子)は天才だ」 で、祝杯をあげる。
映画では主人公は成長して作家になり、身の回りの世話をしていた女性と結婚する。生きるのに必要なだけの自立心も依存心も身につけていたといえる。ぼくの息子や娘は天才の気配などまったくないが、生活にこと欠かない程度の自立心や依存心は備えているようである。
それにしても自分ひとりが暑さで眠れないというのも面白くない。
暑さにはひどい思い出がある。
1992年末近いある日、体中に赤い斑点が現れた。かゆい上に体の節々がだるく痛み始めた。
「悪い病気でも移されたんちゃうか」 わが妻は縄文のビーナスのような体をゆすって、もてもしない夫にとんでもないことを言う。
悪いかどうかは別として病気であることには間違いないようなので、オバディエ先生のところに行った。アンマリーによればオバディエ先生はアルジェリア出身のフランス人だという。それならカミュやファノンの後輩かとも思うがオバディエ先生はもう少し保守派なので、聞きそびれている。
オバディエ先生はぼくの赤い斑点を調べて、「面白い!」と言った。
「そんなに面白いんですか、先生?」とぼく。
「もう何十年もこんなものを見たことがない。どこかに行ってきたの?」と先生は感慨深げに言う。
「はい、コンドブリンという田舎町に。これ、何ですか?」
「南京虫」
「エエッ! 南京虫!」 危うく卒倒しそうになった。南京虫なんて1950年代以来、耳にしたことがない。それ以前だって話に聞くだけで実体験はなかった。
「パブのホテルに泊まって、夜中にやたらと蚊に刺されると思っていたんですが、あれ南京虫だったんですか?」
「そうでしょうね」とオバディエ先生。治療法は?
「かゆみがおさまるまでカラマイン・ローションでも塗ってなさい」
おかげで数日間ぼくは「地獄の黙示録」のあの白く塗りたくった人々のような姿になった。
その事件の少し前、シドニーからモナーク航空という零細航空会社の10人乗り小型飛行機で400キロほど内陸の町に飛んだ。長男がまだ乳飲み子で、やたらと心配性のアンマリーは不安いっぱいだったが、ぼくはうきうきしていた。飛行機はふわふわと浮かぶように飛び、地方都市はずれの滑走路にひらりと降り、1人か2人の客が乗り降りすると再びふわっと飛び上がっていった。飛行機から眺める風景はブリキ板のようにまったいらで、地平線はかすみの中に溶け込み、山一つ見えない。往復160ドルだから満員でも売り上げは片道800ドル程度。おそらく政府の補助がなければ経営も成り立たないような路線に違いない。
農業集散地になっている町は鉄道、国道、それに南側を流れる泥水の川の間に挟まれ、やたらと広い大通りが1本とそれに交差する短い何本かの通りでほぼすべてだった。町の周辺はそのまま雑草の空き地に吸い込まれていく。
早朝でもないが昼にはまだ間があるという時刻で、ロイヤル・ホテルというごくありふれた名前のパブに宿を取った。1泊20ドルという超安値だった。飛行場まで迎えに来てくれた旅行代理店の女性にもパブの女性にも異口同音に「あんた、本気?」とあきれたように聞き返されたので、次第に胃のあたりが重くなったが、ぼくにはまだ「あーら、ヤーダア、やっぱり考え直すわ」と無邪気にいえない虚栄心があるらしい。
2階の部屋は裏に面し、窓の外は広いベランダになっていた。ベランダの下では冷房のタワーがブーンと唸り、水が泡立っていた。ひさしの広いベランダは心地よい日陰を作っており、のんびり寝っころがって本でも読めそうだった。
荷物を部屋に置いてただ一本の大通りを歩いてみた。古い町役場のような建物にアボリジニ住宅委員会が入っていた。その先の道を隔てた側に農村保護局の事務所があった。事務所の壁には口蹄疫や炭疽病の写真入ポスターや企業のパンフレットが所狭しと貼ってある。壁の大きな地図にはコンドブリンを中心とした南北の地域に「ストックルート」と記入された曲がりくねった帯が描かれている。公有地や河岸、路肩などを結んで幅数十メートルの回廊がストックルートとして指定されている。このストックルートこそ今回の旅の目的だった。カウボーイたちのように羊を追って旅するドローバー(牛飼い)の家族がいるというので、ある航空会社の機内誌記事の取材のためにこの町に来たのである。事務所のスタッフは、マルカム・マッケンジー一家の名前を知っていたし、驚いたことにはぼくが来ることも知っていたらしい。ぼくの質問にも積極的に答えてくれた。
ロイヤル・ホテルに戻ると、おそろしく冷房を効かしたパブに昼前から客がいた。パブは真ん中に仕切りがあって、カウンターの中は双方に通じている。アボリジニの男たちはこちらの扉から入り、ビールを受け取ると、向こうの部屋に消えていく。差別があるわけではなくて、単に仲間といる方が居心地がいいというだけのことのようだった。冷蔵庫から出されたグラスはビールより冷めたく、白く霜がついている。
「もう会った?」と2階のホテルに案内してくれた女性が聞く。
どうやら日本人が一人で取材に来ることが町中に知れ渡っているらしい。
「いや、まだ」
待ち合わせの時間よりちょっと早かったが、古めかしいすりガラスの扉を押して通りに出た。不用意に吸った空気が野火のように喉を焦がした。空気は焼けた金属のように硬質で、触ればはじき返されそうだった。
郵便局の階段に座り、通り過ぎる人々の好奇心を感じながら待つほどもなく、古い乗用車から女性が降りてきた。
「ケンジ? 私、ミーガン。こんにちは」
車は町はずれで川を渡り、人気のない競馬場に沿って走った。まばらなユーカリの林が続き、やがて羊の群れが見えてきた。林の向こうに小川が流れている。羊の群れは木陰に休んでいた。空き地にバスサイズのキャラバンが止まっていた。馬を運ぶトレーラーがキャラバンの隣に置いてある。
キャラバンに入ると思いのほか涼しい。車のエンジンをかけっぱなしで冷房を回しているのだった。子供の世話をしていた男性が振り返って、
「マルカム」と自己紹介した。「この子はジェンマ。赤ん坊はキンバリー。他に猫1匹、牧羊犬6頭、馬4頭。羊は今5,000頭預かっている」
「41度だよ」とマルカムがミーガンに言った。
当時の機内誌が手元にあるので、要約する。
マルカムは15歳の時から父親の仕事を手伝って羊を追う生活に入り、夏も冬も、嵐も、野原を焼き尽くすブッシュファイヤも、日でりも経験して33年間この仕事を続けてきた。父親は旅の途中に肺炎で亡くなったという。
「しばらくは人の下で働いたこともあるが、使われることにうんざりしてこの仕事に戻った。ドローバーの数は少なくなったが、みな青空の下で自由に生きるのが好きでこの仕事をしている」とマルカムがいった。
しかし、この自由は気ままさではなかった。5,000頭の羊は牧場主から委託された商品である。いくつもの法規に従い、運送の許可を取り、書類を整え、家畜の健康状態に注意し、苛酷な気象の変化に対処しなければならない。
「病気や事故で羊を失えばドローバーの責任だ。いい加減な仕事ぶりでこの世界にいられなくなった連中もいる」とマルカムがいう。
ストック・ルートはロング・パドック(長い牧草地)ともいわれる。牧場から競り市までまっすぐに行くわけではない。何か月もかけてゆっくりと育てながら、4月にはるか南のワガワガの町まで運び、そこでまず毛刈りを済ませ、その後に食肉として売る。その頃には涼しくなっているはずである。それまでずっと路上で暮らすのだという。
マッケンジーは、見る見るうちにかさを増してくる洪水から逃れているうちに気がつけば羊の群れもろとも高台に孤立していたこともあるし、そんな高台が周辺の牧場から避難してきた羊や牛でいっぱいになったこともあるという。日でりが続けば川も池も干上がり、水を求めてさまよう羊の悲痛な鳴き声に胸を締めつけられ思いをしたこともあるという。
熟練したいいドローバーだと何か月も先まで各地の牧場主から予約が入っているという。旅は時には2,000キロにもなるそうだ。
シドニーの都会で育ったミーガンはマルカムと結婚して以来8年間旅暮らしを続け、昼間はこうやって車で近くの町まで買い出しに行ったり、家事をしながら、二人の娘の世話をしているのだという。
いつか定着する気持ちがあるか、と尋ねてみた。
「とんでもない。動物たちを見ればね、人間の世界よりはるかに気持ちがいい。彼らと暮らしなれると愛着がわいて、とても足を洗う気にはなれない」とマルカム。
でも、子供が学校に行く年になれば?
「通信教育を受けさせるわ。都会でこせこせ暮らすよりこうやって自然の中で暮らしている方がよっぽどいいんじゃない?」
そうかもしれない。しかし、オーストラリアでもマッケンジーのような人たちが生きる世界はだんだん消えている。鉄道は廃止され、大通りは銀行も店も郵便局も次第に閉じ、「店舗貸します」の看板が並ぶようになる。オーストラリアはれっきとした学歴社会だし、マルカムのような技能は必要とされなくなってきている。いったんはみ出せば戻ることも難しい社会になりつつある。
ミーガンの車でコンドブリンの町に戻った。
ノートとフィルムを整理してからパブに下り、隅のテーブルでビール片手に本を読んでみたが、いつまでもいると日が暮れる前に酔っ払ってしまう。町に2軒ある中華料理店の1軒で夕食をとった。もう1軒の中華料理店は他でもないロイヤル・ホテルの食堂である。それから町外れを散歩したが小さな町のことだから、1時間もあればすべての通りを歩き尽くす。長く暑い午後が長く暑い夕暮れになり、さらに長く暑い夜になった。暗くなっても気温は少しも下がらない。窓を閉じると暑苦しく、開けると冷房と冷蔵庫のタワーの騒音がもろに入り込んでくる。その上に蚊の大群である。シャワーでも浴びよう、と廊下に出た。隣の部屋の扉が開けっ放しになっていて、戸口に壁型のクーラーが置いてある。機械の背中を廊下に向けてあるから熱風がブオワーンと吹き出してくる。クーラーの向こうにいかにもむさそうな男が横たわってテレビを見ていた。倒産した病院のような雰囲気のシャワールームではシャワーの水栓をひねっても出てくるのは赤錆びた水ばかりだった。シャワーから血のような赤い水がほとばしるなんてハリウッド製のつまらないスリラー映画である。
バスタオルを水に濡らして体にかけてみても、5分ほどでゆだってしまうし、1時間もあればすっかり乾いてしまう。結局一睡もできず、体中を虫に食われているうちに夜が明けた。荷物をまとめて窓からベランダ伝いに路地裏に出た。昼間歩き回った時、横丁にモーテルがあるのに眼をつけていた。事務所は閉まっていたが、ノックすると男が現れ、扉を開けてくれた。
「眠れたか?」と男は言う。
だんだん不愉快になってきた。どうしてこの町の者は誰も彼も単刀直入なんだろう。一挙一動が町中に知れ渡ることについては諦めてもいいが、話の仕方というものがあるだろうと思う。まるで友達同士の会話のように「眠れたか?」はない。
「いや、一晩中眠れなかった」 涼しいところで眠ることができればどんな不愉快さだって忘れてやってもいい。
「1泊50ドル。ゆっくり休めばいい」
昼前に眼を醒まし、ロイヤル・ホテルに歩いていった。今度は裏路地は使わず、表通りを行った。昨日の女性に、
「すまないが引っ越した」と言った。
「知ってるわ。1泊だけだから20ドル返すわね」と少しも驚く様子もなく言った。
取材を終えた最後の日の午後遅く、町の旅行代理店の女性が再び飛行場まで送ってくれた。
「パブに泊まっている人はどういう人なんだろう」と聞いてみた。
「ああ、あの人ね。パン職人なんだけれど、離婚してね、家が奥さんのものなので追い出されてパブに住み込んでいるのよ。朝2時頃に仕事に出かけて、6時頃に戻ってくるはずよ」と実に詳しい。幹線道路を外れて空港に向かう道が鉄道を渡るそばに何台か壊れた貨車が転がっていた。
「ちょっと前に貨車が脱線してね、積み荷が反応して有毒ガスが漏れ出したので大変だったわよ」と代理店の女性が言う。ずいぶんゴシップ好きな人のようだった。
それから数か月過ぎた1993年6月11日、ぼくの利用した飛行機がヤングの町の飛行場で着陸に失敗し、パイロット2名と乗客5名が死亡、モナーク航空会社も間もなくつぶれてしまった。
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