12年と12日 その3 白鷺のいた山
がら空きのまま空港駅を出た電車がぐううっとカーブして、コンクリートの柱の間に向かって行くと、一瞬方向感覚を失ってしまった。それも電車が海を渡り始め、水面の向こうに陸地が見えるとふと我を取り戻した。沖合いの人工島から長い橋が延びている光景を想像していたのだがそれほどでもない。これから百年もすれば埋め立てが進んでこの島もすっかり陸地に取り込まれてしまうのかもしれない。
わかめ色に揺れる水面を眺めながらとりとめもなくそう考えた。
長崎出島だってそうだし、明治時代、汽笛一声新橋を出た陸蒸気も東京湾の埋立て地を走ったが、今ではすっかり内陸になってしまっている。埋立ての馬力では日本もオランダには負けるが、オーストラリアはもちろん土地が掃いて捨てるほどあるので埋め立ててまで土地を造る必要がないようである。それでもシドニー空港のようにあたりに土地が足りない場合にはやはり海を埋め立てて滑走路を延長している。しかも進入路にあたる地域の住宅を騒音公害の補償ということで買収し、取り壊し、海と反対側に広大な空き地ができた。人間というのはつくづくわけの分からんことをするものだと思う。
日本の近郊電車の車内はサンルームにしたいくらい明るくて清潔で広々としている。シドニーの電車は無塗装のステンレス2階建てで天井が低く、何もかもゴツくできていて窓は着色ガラス入りだから昼間でも薄暗い。日本の電車のような日覆いを備えないからどうしたって明るくならないように造るしかない。それに手入れが悪くて汚い。居心地が悪いから人はさっさと乗ってさっさと目的地に行って、さっさと降りる。小さい駅は無人だし、駅員のいる駅でも手洗いまでは管理できないし、犯罪に使われるというので柵を付けて錠をかけてある。だいたい鉄道全体がいかにも斜陽産業という荒み具合である。いくらグリーンピースが「公共交通機関できれいな空気」の垂れ幕をハーバーブリッジに縛りつけても、シドニー市民はできれば公共交通機関などに乗りたくないのである。
母とドミニクとぼくが乗り込んだ電車もサンルーム電車だった。日本の電車の車内が明るいのは構造の理由だけではないように思える。いつもかすみのかかったような日本の空の下で日差しは柔らかく日陰にも光が回りこむ。光がそのあたり全体に漂っている。オーストラリアでもシドニーのような都会ではやはり空はかすみがちだが、大阪ほどではない。それでも百キロほど西のブルー・マウンテンの台地からシドニーの方角を眺めると足もとから広がるカンバーランド平野のかなた、シドニーのあるあたりの空に薄黄色の帯が浮かんでいるのが見える。市内から吐き出される排気ガスや水蒸気である。
シドニーの鉄道はとてもほめられたものではないけれど、一つだけどうしたってほめないわけにはいかないことがある。手洗いの清潔さである。1日に何度か、手洗い全体をほとんど丸ままジャブジャブと洗っている。柵で閉鎖した手洗いはもちろん汚れようがない。
「日本の駅はどんなに新しくて、立派な設計でも手洗いだけは臭くて汚いのはなんでやの? 汚ななかったら手洗いやないと思うてるのと違うか」とアンマリーはのたまう。
そのアンマリーによれば、シドニーでいちばん手洗いが汚い地区はチャイナタウンなんだそうだ。そういわれればそうかも知れんなあ、とは思う。
電車が橋を渡りきり、りんくうタウン駅に入ると大勢の人が乗り込んできた。日ごろ家で仕事をしているから、通勤通学風景と言うのは奇妙になつかしい。シドニーの通勤通学風景になれていても奇妙になつかしいかもしれない。窓の向こうにひと気のない遊園地が見える。
ドミニクは、歯医者の待合室で名前を呼ばれるのを待っている子供のように緊張しきっている。ついさっきまで3人でギャハハとやっていたのが嘘のようである。もっとも、こんなところで一人ギャハハとやるようだったら親としてはかなり深刻に案じなければならない。ドミニクは、乗客の顔をしばらく見つめ、納得したように次は吊り広告に見とれ、ちょっと動きがあると、ハッとそちらを振り返るという具合で、ことに吊り広告にはいたく関心をひかれたようである。
案の定、吊り広告を指差して、
「なんて書いてあるの?」と聞く。
シドニーの電車には吊り広告も吊り革もないから、ドミニクにとっては初めて見る珍しさだし、それに電車の吊り広告というのは子供たちが学校で作ってくるコラージュと似た楽しさがある。大きな見出し文字の隣に幕の内弁当の写真の切り抜きがあったり、女装した男優や男装した女優の写真があったりする。意外性に満ちていて、子供にとっては面白いだろうと思う。その点ではオーストラリアの風景はきまじめで意外性がなくてどちらかといえば単調である。決して枠を踏み外さないようなところがある。屋外広告などたまに冒険しているものもあるが、古典的なセクシーものか、そうでなければどこか理屈倒れなところがある。テレビ・コマーシャルなど15秒ほどの間、自社の製品がどれほど優れているかを早口でしゃべるだけというものも結構ある。うーん、なあ。これでは学校の授業だわなあ、と苦痛に思う。
予想のつくことではあるがオーストラリア人識者に言わせれば、日本の風景は醜悪で町並みは騒々しいということになる。そうかもしれんとは思う。だからといって「欧米の都市は美しく整っています。それにひきかえ日本の都市は醜悪で騒々しい。これでは先進国の名が恥ずかしい」などというせりふはいまさら言うのも恥ずかしい。オーストラリアが欧米になるのかどうか知らないが、汚いところはとことん汚いし、イベントがあると翌日はゴミの山である。閑静な住宅街というのは退屈の別名だし、整った町並みというのは俗物の異名である。
「せやけど、きれいな町に住みたいと思わへんか?」とアンマリー。
「住民が自分でいちばん気に入った家を建てて、それで町並みが整ったいうんやったらそれも結構や。せやけど、町並みがちぐはぐになっても、それはそれで住民が望んだことやからそれでええ」
「その結果が今の日本の都会やろ」とアンマリー。
「せやからなあ。住民が気に入らんいうんやったら何ぼでも言うたらええと思う。広い住宅が欲しかったら要求したらええ。せやけどな、傍から、こんな小さい家はウサギ小屋で人間の住むとことは違いますとか、ああでなければいけないこうでなければいけない言うのは余計なお世話やと思う。そんな人は住民から石ぶつけられても文句言えん」とぼく。
義父や義叔父となるとアンマリーより過激である。義父と同居を始めた頃、庭で洗濯物を干していると、義父が「毎日庭に洗濯物を干すのは見苦しいから納屋に干しなさい」と言ったことがある。ぼくは毎日庭に洗濯物を干し続けた。義父は何度かぶつぶつ言い、それからは何も言わなくなった。
ある日、近所に住む義叔父が、
「隣の家は、毎日洗濯物を干すからうっとうしくてかなわん」と言う。ぼくは、「へっ」と叫んだ。
「どこに?」と聞いた。
「もちろん、自分ところの庭だよ」と義叔父が言う。
「そんなもの、隣人の勝手と違う? 義叔父がとやかく言えることやないやろ。いやなら、見なければいいではないの」と言った。
「見えるから仕方ない。見えるところに干すのが悪い」と義叔父が言う。
「いやなら、人里離れた土地に住むか、高い塀でも建てるしかないではないの」とぼく。
「毎日洗濯物を干さなければいい」と義叔父が言う。
なるほどな、と思う。こういう文化の食い違いというのはオーストラリアで何度も経験している。いつか欧米文化が、自分の文化を基準にして他の文化を分析することを一休みし、他の文化を基準にして自分の文化を分析してみるという方法を受け入れれば面白いことが分かるかもしれない。
そういう時代が来るかどうかは分からないが、その前に日本の吊り広告同様、「創作」の時間に子供たちが創った傑作コラージュもわが家ではゴミになる。
「将来まかり間違えてうちの子供が有名画家にでもなったら、この作品も値打ちが出るかもしれんで」とぼくが言う。
「アホな。それやったらこんなもん全部取っといたらあかん。数があったら値打ちが下がる。できのええのだけ残して屑は捨てた方がはるかに希少価値が出る。ええのだけ残しといたら、さすが双葉より芳しということになる」とアンマリーがのたまう。しかし、ぼくの知る限りほとんどすべての親が一度は自分の子供は絵の天才に違いないと思いこむのである。
「あれはなあ、デパートで日本国中の鉄道ランチ(駅弁)を展示販売します、と書いてあるねん」とドミニクに説明する。
食生活について言えば、オーストラリアの特徴は全国どこに行っても同じ物が食べられることである。たとえば海から400キロ離れた内陸の町コンドブリンで食べたフィッシュ・アンド・チップスもボンダイ・ビーチで海を眺めながら食べたフィッシュ・アンド・チップスも同じ姿だったし同じ味だった。そして鉄道のランチも国中どこで買ってもまったく同じである。全国の鉄道ランチを集めて売ることのどこが面白いのか、ドミニクには分かりにくいに違いない。
それにしても、と吊り広告を見ながら考えた。オーストラリアの新聞特派員ならさしずめ、「もう一つの日本の謎。なぜ初めから女装した女優や男装した男優が演技しないのだろうか?」程度のことは書きそうだ。連中、高校のくそまじめな優等生のなれの果てという印象があるからなあ。
電車は一駅一駅丹念に止まり、乗客を拾っては次の駅に向かう。まぶしい朝の日差しの中で通勤通学の乗客は不思議なほど静かに見える。練習を重ねた儀式のように最小限の動きである。
大和川を渡る時には、ドミニクが「川?」と聞いた。
電車はまだ眠気の漂う建て込んだ町並みを貫いて走り、風景は露出過剰なできそこないの写真のように白っぽく飛んでいる。町並みの片隅に六畳間ほどの田んぼや畑があり、どぶのような小川に沿って雑草の茂る空き地が残っていたりする。空き地にはもう草いきれのようなものが漂っている。住宅街の曲がりくねった道は昔のあぜ道そのままである。その狭い道に面した家々の庭にどうやって入れたのかと思うくらいの大きさの車がしまってある。角の家は人家かと思えば飲み屋や喫茶店の看板がかかっている。
時々、ドミニクが窓の外を指差して「あれは何?」と聞く。おもちゃ箱をひっくり返したような町並みの中にひときわ人目を引く原色の建物はパチンコ屋だったりスーパーマーケットだったりする。
「なぜあんなにいろんな色を使っているの?」と聞く。「分からん」と答える。あれほどの飾り付けだからきっと何か特別な建物に違いない、子供がそう思うのは無理もない。ぼくといえば正直なところ、後に飛びすさっていく風景を見ながら、「里帰りした」気分になっているのである。ぼくにとってふるさとはこの窓から見える雑然とした町並みである。
アンマリーのふるさとはクィーンズランド州との州境に近い町だった。大陸南部のユーカリの森というのは日本の山林のようにうっそうと茂るということはない。下草もほとんど生えず、地面は赤土の地肌が剥き出しで、空が見えるくらいまばらな林である。農村地帯の若者は、10代前半まではそういうユーカリの森の奥に滝や隠れ家を見つけて遊び、10代後半になると町でぶらぶらするか、誰かの家に集まってパーティをするか、自動車をすっ飛ばす。数年を無事生き延びた若者はさっさと結婚するか大都会に出て行くかする。戦前にオランダの都会で育ち、終戦後に移民してきたアンマリーの母親にとっては言葉のほとんど通じない粗暴な気風漂う田舎町の生活は耐え難かったらしい。ある日精神病院に放り込まれた。当時は警察官の一存で精神病院に入院させることができたそうだ。アンマリーも兄弟も結婚する代わりに大都会に出た。オーストラリアの農業地帯は若者の自殺と麻薬中毒が問題になっている。
「田舎町には若い者のためのものって何もないもんなあ」とアンマリーがいう。
新今宮で乗り換え、時計回りの環状線に乗る。電車は模型の鉄道のように狭い隙間を縫って大阪の町の屋根の上を走っていく。
ドミニクは時折「後どれくらい?」と聞く。
「後1時間ほど」と答えると、
「さっきも後1時間言うたやないか」と言い返してくる。実をいうと後どれくらいかかるのかぼくにもさっぱり分からない。
運河を塞き止める閘門が見え、錆びた小さな貨物船が見える。家々の屋根よりひときわ高く古い倉庫ビルが見える。ドミニクが謎々のような社名や倉庫名を指差して、「何て書いてあるの?」と聞く。適当に訳して答えてやる。
「どういう意味」とドミニクは執拗である。
「実を言うとなあ、ぼくにも分からん」
線路の数が増え、高いビルがいくつも見え始めた。
「何? あの奇妙なビル」と母に聞く。
「いや、知らんねん。もうずっと前に建ったビルやで」と母が言う。
「うわー、あっちは竹馬高下駄みたいなビルやし、こっちには屋上に観覧車がある。シュールやなあ」
大阪駅のプラットフォームに降りた。わあ、と思った。12年前と変わってないわ、大阪駅の臭い。この臭い、昔のままである。
「川の上流で生まれたサケはなあ」とアンマリーに言ったことがある。「海に下って、3年くらい海で過ごして何千キロも旅した後で自分の生まれた川に上って産卵して、それで一生が終わりやねんな。何で自分の生まれた川が分かるかいうたらこれが臭いやそうや。一つ一つの川に独自の臭いがあるそうや。せやから、サケの鼻をつまむかゴム栓するかしたら元の川に帰れんようになるらしい」
「誰がサケの鼻つまむねんな」とアンマリーが突っ込んだ。こういう凡庸な真面目さなんとかならんかと思うが無理やろなあ。ぼくはすっかり啄木化して「ふるさとの臭いなつかし停車場の...」などと口ずさんでいる。
人ごみに乗って階段を降り、さらに降り、よく分からないがやたらと歩き回る。
「後どれくらい?」とドミニクが聞く。
「うーん、1時間くらいかな」と答える。
「もう4回目やで、後1時間言うのは」
子供は大してすることがないから実につまらないことをしっかりと憶えているものだ。単語の綴りや計算の要領を憶えてくれればありがたいのだが、ぼくは自分がやりもしなかったことを子供にやれと命令するほど破廉恥ではない。
階段を上がり、さらに上がりして高槻行きの各駅停車に乗り換えた。
「なんで、この電車は青いの?」とドミニクが聞く。うちのがきはよくきくがきだ。うちのがきはよくきくがきだ。うちのがきはよくきくがきだ。
「これはなあ、路線によって色を変えてあるんや。相当うっかりした人でも、どこそこ行きに乗ってなんて言わんでも青い電車に乗ってというたら分かるやろ。字は忘れやすいけど、色は忘れにくいからな。それでも逆方向に乗ってしまうことは防げんけど、そこまでは面倒みきれんわなあ」
電車が淀川を渡る時、ドミニクが、
「川?」と聞いた。中国山地がかすんでいる。大阪空港から飛行機が上がっていくのが見える。
「飛行機が見えるやろ。あそこにも空港がある」ドミニクはちらと見たきり、また黙ってしまった。東海道線に沿った風景は記憶とあまり変わっていない。吹田の貨物操車場がすっかり広々とした空き地になってしまっていることだけが時代を感じさせた。昔、一箇所線路が坂を上るところがある。機関車が何両かの貨物をバックで押し上げ、1両が坂の峰を越えたところで操車係が連結器を外す。貨車はしばらくためらった後、反対側の坂道を下り始める。操車係が貨車の手動ブレーキのある側のステップに飛び乗り、すでに何両かが並んでいる貨車に近づくと、手動ブレーキをかける。ガシャンとぶつかると、押された貨車が順繰りにガシャン、ガシャン、ガシャンと最後の貨車までゆすっていく。操車係は連結器をロックし、ブレーキホースをつなぐとまた小山に向かって歩いていった。
その風景はもう何十年も前のことになる。その頃は南側の機関車庫に蒸気機関車が止まっていたものだった。
安威川の鉄橋あたりから老の坂山地を見るともう山地の威厳は感じられない。地震観測所のある阿武山は頂上近くまで開発され尽くした丘陵になってしまっている。名神高速道路を走る自動車の震動さえ拾ってしまう地震計はもうまったく使い物にならないに違いない。中学校の頃、ほぼ週末ごとに友達と地震観測所まで歩いて登った。道を歩くことにあきると、林の中をまっすぐに突っ切っていったりした。松林の中で突然古い墳墓の石舞台に出くわすこともあった。麓の池のふちには大きな竹やぶがあり、何百羽という数の白鷺が住んでいた。白鷺は朝に南の淀川に向かい、夕方に帰ってきた。ぼくが日本を離れる前にはすでに一羽の白鷺もいなくなってしまっていた。蛍もいなくなってしまっていたし、田んぼに水を引き始める頃に現れる、ぼくらがカブトエビと呼んでいた生き物もいなくなっていた。
ぼくは初めて、変わってしまったふるさとにさびしさを感じた。あの山だけは山だったのに。
摂津富田で電車を降り、母に「歩いてみようか。弟には連絡せんでええやろ」と言った。
ドミニクが自動販売機を見つけた。オーストラリアでも売っている飲み物の名前を言う。「欲しいか」と聞けば、黙ってうなずく。昔はこのあたりにもまだ田んぼや畑が残っていた。今はすっかり住宅が立ち並んでいる。
突然、ドミニクが、
「ピカチュー」と叫んだ。道端の側溝の脇に通学安全の看板がある。ドミニクは手描きのピカチューをさも珍しいもののように触れる。
「これは何?」と聞く。何のためにこんなところにピカチューがあるのかが不思議なのである。
「子供がいっしょに学校に通う道やからな。車に気をつけて走るように注意しているのや」オーストラリアではほとんどの親が学校まで車で迎えに来る。そうでないと、危なくて仕方ない。交通も危ないが、人間はなおさら危ない。ドミニクは、今度は側溝を覗き込んでいる。昔は小川だった。ひと頃は汚れてどぶ特有の藻がびっしりとこびりついていたものだが、水はまた昔のようにきれいになっている。シドニーに住んでいると、町内を澄み切った水が流れているなどということはまったくありえない。小川はすべて土管やレンガのトンネルを沈めて、埋め立ててしまい、道路に降った雨水を川に流すようになっている。シドニーは沈降河口のほとりにあるから、入り江に続く谷筋には必ず川があるはずだが、もう谷川が空の下を流れていることはない。ドミニクは道に落ちている木切れや葉っぱを小川に落とし、流れ下っていくのをいつまでも見つめている。
「さあ、行こうか?」ドミニクは黙って歩き始める。
住宅は戦後の木造平屋の府営住宅を壊し、高層住宅になっている。住宅の下に千年以上前の屯倉の遺構があったために工事は延び延びになっていた。高志の国から突然やって来て王位についた謎の人物継体天皇の陵があるのもこのすぐ近くである。
新しい実家にたどり着けば、他の者はもう荷物を片付けて眠っていた。ぼくらが着く前にピンクから電話が入っていた。連絡しなければと思いつつ怠けている。
高層住宅の新しい部屋は昔に比べるとずいぶん狭くなっている。それに畳も昔に比べると縦も横も20%くらい小さくなっているように見える。6畳間も昔の4畳半くらいの広さしかない。部屋数が少ないのは家族が小さくなっていくことを見越したものらしい。
「見晴らしだけはええやんか」と弟に言う。高層住宅の7階からはすべてを見下ろすことができた。「なるほど、大阪城も見えるし、あの竹馬高下駄ビルも見える。空気が澄んでたら、和泉山脈も見えるやろなあ」と言った。
夕方、昔京都でベースを弾いていたジロー君が車を持ってきてくれた。日本では人気があるのに、オーストラリアではまったく見かけない箱型のバンである。アンマリーは、
「オーストラリアに持って帰りたい」と言う。
「言うのはただやから、なんぼでも言うとり」とぼく。
ジロー君は今は京都の瓦屋さんに勤めている。「しっかり社会に潜り込んで元気に生きていると知って安心々々」なんてことをぼくが言っても「寅さん」ギャグにしかならんわなあ。
夜になっても蒸し暑さはおさまらない。窓と玄関を開けっ放しにして電灯を消し、地上20メートルを吹き抜ける風を少しでも取り込もうともがいていると、ドミニクがむくっと起き上がって、言った。
「なあ、おとうちゃん」
「うん? 後1時間ほどや」
「そんなことやない。ヤスユキ、なんで駅まで迎えにきてくれへんかったんやろ?」
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