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12年と12日 その1 オリンピック疎開

ピンクは、ぼくたちが日本で会ってから間もなく亡くなり、元シェリフのメンバーで、ぼくがツアーや、幻となったレコード録音でほぼ全面的に頼った青木しげひさも、この原稿を書いている途中でその訃報が届いた。二人ともぼくより若い人たちだった。
1969年以後の運動の敗退期に友人が何人も自殺や自殺同然の事故死で世を去った。当時のぼくは「生きづらい時代には生き抜くことも戦いだ」と思い定めた。その気持ちは今も変わっていない。
この話を二人への手向けにしたいと思う。

満員のシドニー発大阪行きの搭乗が落ち着いたところで機内を見回すと、ぼくたちと同じような家族連れか子連れの日本人の母親が多かった。オリンピックで騒がしくなるシドニーに居るよりは航空運賃半額セールを利用して日本に里帰りしようという人が多いのだろう。母親が多いのは父親たちはシドニーに残って仕事ということだろうか。シドニーの騒ぎを逃れて、と言ってもぼくの家族に関しては3人の子供がいっしょにいる限り騒ぎがついて回る。他の子の10人分くらい騒がしい。隣の窓際の席に座った夫婦は関空経由北極回りで息子の住んでいるイギリスに行くのだと言う。ぼくもたまに子供3人との戦いに疲れると、アラスカにでも行きたい気持ちになることがある。共稼ぎの妻のアンマリーなどは毎日そう思っていることだろう。
長男のアランは10か月の時にニュージーランドを旅行しただけだし、次男のドミニクと末っ子のモニカは飛行機は初めてで緊張しきっている。

オリンピック大会の前後には、航空路線の往路と復路に旅客数のアンバランスができるから、必ず運賃が安くなるはず。1年前からそう予想していた。そうなれば家族を連れて日本に行くとみんなに言って回っていた。ぼくにとっては12年ぶりの帰国である。日本がどれほど変わっているかを見てみたい気持ちもある。
昨年6月に入るとアメリカとヨーロッパの路線では割引航空券が発売されたと新聞が報道した。日本への路線については何も触れていない。ニューサウスウェールズ州政府は、9月のオリンピック大会期間の2週間、学校を特別休暇にすると決定している。午前と午後の2回、学童の登下校時間には親が運転する送り迎えの車で道路は混雑するし、電車も高校生で満員になる。オリンピック関係者や観客の移動と通学時間がぶつかって混乱することをおそれての措置だった。子供にとってはうれしいことだろうが、親にとっては頭の痛いことだ。2週間子供が家でごろごろすることになる。その間うるさくて仕事にならない。
「ぼくが子供の頃は、どこでも親は子供をほったらかしにして働いていたから、子供同士で遊んだもんやで」と言えば、
「うちのお父さんみたいなこと言わんといて。昔と今とは違うねん」 妻はオーストラリア弁の英語で、ぼくの弱みをついてくる。
同居の義父は、ぼくがアスパラガスを料理すると、
「オランダではアスパラガスは白色と決まってた。緑色のアスパラガスなんて市場に持っていっても誰も買わん。ところがオーストラリアに来たら、どうや、白いアスパラガスは缶詰でしか売ってない」と言う。
これだけなら、「へえ、なるほど」というところだが、問題はぼくがアスパラガスを食卓に出すたびに、きまってその昔話を持ち出すことである。
妻はぼくが義父の昔話と比較されることを嫌っているのを知っていてつついてくるのである。

どうせ仕事にならないなら遊びに行った方が気がきいている。ところが航空運賃を計算すると、大人2人子供3人で5,000ドルを超える。為替レートで換算すれば日本円で30万円そこそこ。日本から見れば安いと思えるかもしれないが、国民平均所得や消費者物価指数で調整すれば日本円で80万円くらいの価値になるはずである。決して安くない。
「小遣いがなんぼも残らんなあ」とぼやく。
「まあ、行けるだけでもええん違う? 金かけんように心がけたらええし」と妻が言う。
今を逃せば日本に行く機会は当分ないから、高くても無理して行こうか、そう相談しあって妻のアンマリーが町の旅行代理店に行った7月の日のその朝に日本の航空会社が半額近い料金を発表した。申し込むだけは申し込んだがすんなりと進んだわけではない。8月半ばになっても航空券が届かない。代理店をせかして航空券を取り寄せさせたら、便が申し込んだのは違う。申し込んだ便に変えてくれと航空会社に問い合わせさせたり、返事を待ったりでそのたびに2、3日かかる。結局、少しの追加料金を出せば帰りだけ定期便の席を売ってもいいと航空会社から返事があった。このあたりから話は夫婦ゲンカにまで発展し始めた。最初はぼくが腹を立てていたのに、追加料金が出てきたところで、ぼくの方は妥協してもいい気分になり、逆に妻の方が腹を立て始めたのである。
追加を払うから定期便の方に変えてくれと申し込んでからまた数日たった。どうなっているのかと問い合わせたら、航空会社の担当者が休暇を取っているので1週間ほどまったく手続きが進まないと言う。こういうことでガックリくるようならオーストラリアで生きていけない。航空券を手に握ったのはやっと出発1週間ほど前のことだった。

1985年から86年にかけてニュージーランドをバイクで旅行した。戻ってから友人のお情けで東京渋谷の小さな貿易会社に勤めながら、旅行記を書いたり、翻訳したりでわずかな稼ぎを得ていた。ギターは旅行の費用の足しにするために売っ払っていたし、気持ちとしても現実としても歌に戻るというのはありえないことだった。つまりはとりあえず生活はできるけれど、何をどうするというあてもないまま日を送るようになっていた。太宰治や森鴎外の墓のある三鷹下連雀の禅林寺近くに住んで、友部正人や佐久間順平の一家ともよく行き来したし、明るいうちから一人で飲み屋に行くと高田渡が先客で座っていることもあった。
そんな時にオーストラリア・ニュージーランド文学会のメンバーの一人から「オーストラリアのシドニーに仕事があるけれど、行く気はないか?」という話が舞い込んできた。腹をすかせた魚みたいに話に飛びついた。目先の変わることならなんでもする。
オーストラリアの人口の99%は移民かその末裔で、先住民族は約1%。ある社会学者がその移民パターンを研究して、移民というのはもともと楽天家が多いという観察をしている。そういわれてみればなるほど納得できる。いくら食いつめても、突然見ず知らずの土地に行けば食えるかもしれんという発想はめちゃくちゃ甘い。しかし、現実には往々にしてその甘さが勝利するというのも正しい。
そんなことで持ち物の大部分を整理して、ダンボール箱18箱をシドニーの新しい勤め先になる日系新聞社宛てに船荷で送り、現金30万円というわずかな現金を持って日本を脱出してすでに12年経つ。二つの新聞社を渡り歩いた後、独立した。二つの新聞社にいたのはわずか3年だった。とりあえずどこにも勤めたくなかったので翻訳業として独立し、それ以来里心も忘れるほどジタバタと生き延びてきた。ところが一昨年に、25年前の自主制作アルバムのCD復刻盤がシールズ・レコードから発売されることになり、昔の音楽仲間と記念ライブをやらないかという誘いがあった。一部ではもう記念ライブがあるという噂まで流れていたらしい。その夜、怖い夢を見た。

場所は京都の拾得の酒樽ステージの上。背後にシェリフのメンバーがいる。あと5分ほどで始まりというのに実は自分の歌の歌詞もコード進行もまったく憶えていないのである。歌詞ノートも持っていない。どうしてそういうことになってしまったのかはまったく分からない。それが夢というものである。曲の取っかかりでもと思うが頭が完全に空白になっている。ギターをいじったり、調子を整えているふりをして時間稼ぎしてもどうなるものでもない。手のひらもひたいもじとっと冷や汗で湿ってくる。シェリフのメンバーはもうすっかり用意ができてぼくのキューを待っている。テリーさんがにこにこしながら、そろそろ始めましょうと合図している。とりあえず何かしゃべらなければと口を開いた。何をしゃべっているのか自分でもわからない。考えをまとめようとしてもその考えがアメンボのようにスイスイと軽やかに逃げていく。いつまでも話で持たせられない。いつもなら薄暗くても人の動きの分かる客席が底知れない暗闇に変わっている。シェリフのメンバーも「なんだか変だ」という顔つきになってきているのが分かる。ぼくの後にいるのだから見えないはずなのに分かるのが夢というものだ。
その夢の結末を思い出せない。「不思議の国のアリス」のチェシャー猫のように姿は消えても怖さだけが宙に漂っているのである。
あくる日早速電話して、何かわけのわからないいいわけで記念ライブを辞退したように思う。それも思い出せない。

昨年初めの夜中にピンクから電話があった。
「どうや、食えてるか?」
「うん、おかげさんでなんとかかつかつ食えてる」
「今何やってるんや?」
「翻訳の仕事」
「小説か?」
「いや、文学は面白いけど金にならへん。コンピュータ機器のマニュアルとか化学関係、企業文書やね。おもしろはないけど稼ぎになる」
「ふーん、そんなもんかいな。おもろいか?」
「子供の3人もおったら、仕事の選り好みはしてられへん。失業率9%の国やからなあ。それに日本におって日本語が書けても大した技能にはならへんけど、オーストラリアで英語が読めて日本語が書けたら特殊特技や。石ころもよその国に持っていったら珍しい石やいうて売れるいうことやなあ」
取りとめのない話を続ける。ヨーロッパに旅行したという。ヨーロッパで、言葉はなんとでも通じるもんやなあという。昔は面白かったなあという。やりたいことやったなあという。
昔というのはレコード作りとか、その前に豊中の喫茶店フリークを根城にしていた貧苦巣やその仲間10人以上が四国とか九州を回って沖縄まで行った珍道中のことだ。ハイエース1台に機材と人間を積んで巡業し、車からあふれた者は鉄道でハイエースを追いかけた。いろんなミュージシャンのマネージャをやっていた近本隆通称おちかとぼくは四国を回り、松山から別府までフェリーで渡り、他のメンバーと九州で落ち合ったように思う。ひょっとしたら四国は別のツアーだったかもしれない。もともと昔のことを振り返りたくない性格だから、25年前のこととなるとカットされた映画フィルムの切れっ端みたいに記憶がばらばらになっている。
八代から鹿児島に着いた時は沖縄行きのフェリーの出港時刻が迫っており、駅から2台のタクシーに分乗して港に駆けつけた。先に船に乗り込み、もう1台のタクシーを待ったが、後続が出航時間になっても到着しない。タラップの横でもやい綱を握っていた係員に「もう5人ほど来ますねん。ちょっと待ってもらえませんか?」と頼み込んで出港を遅らせてもらった。この船を逃すと2日ほど鹿児島で足止めになる。

「あんたほど無計画な人間知らんわ」と妻がよく言う。
「無計画な人間やったらようけ知ってるで」と言い返す。
「今までよう生きてこれたもんやな」と妻が言いつのる。
「現に生きてるいうことは生きられるということを証明しているのであって、しかも、計画的な女と無計画な男が同じ屋根の下で暮らすようになったいうことはどう生きても結局あんまり違いはないちゅうことやと思うなあ。そしたら、やたらと計画を建てて計画どおりに動くいうのも実は非常な無駄やないやろか」とぼく。

沖縄では新聞社の主催でまよなかしんやや知念良吉と共演したように思う。那覇の公園になぜかD51が飾ってあって、これが友部の「公園のD51」だというような話もした。那覇には市電が走っていたが第二次世界大戦末期の沖縄戦で完全に破壊された。2000円札のデザインになっている守礼門も首里城と共に破壊され、戦後に再建された。9万人を超える住民が自分の戦いではない戦争で日本軍と米軍の両方から殺された。沖縄はいまだにその歴史から解放されていないし、ぼくたちもいまだにその呪縛から解放されていない。
ある夜、波之上の飲み屋街の小さな店に何人かで出かけたらそこのおかみさんがやたらと歌がうまい。シングル盤をかけて、演奏に合わせて歌う。
誰かが誉めたら、そのレコードのカバーを見せてくれた。
「ええ、ああこれ、おばちゃんが歌うたはるんですか」 おばちゃんがニコッと笑ってうなずいた。
一行が泊まっていたのは野村君という人の家だったと思うが、その人のおじいさんも有名な歌手だそうだ。

ピンクと電話で話しながらそういう思い出がよみがえってきた。
「いっぺん帰ってけえへんか」という。もう何年も練習してないしなあ、とか言い訳した。
「1時間半、しゃべくりでもええからやれや」と言う。
気楽に言うあたりがいかにもピンクである。
「音楽やってへんのんか」と聞かれて、「やってるけどな、アイリッシュ・フィドルとかクローハンマー・バンジョーとかものすごー辺鄙な音楽やしなあ、フィドルの方は、松脂の粉がコンピュータに悪いからあんまり練習してないねん。ギターは15年前に売ったきり持ってないし」
「ギターやったらおれんとこになんぼでも転がってるでえ」
うちにごろごろ転がっているのはガキだけである。
電話の方はともかく逃げの一手だった。なにしろ夢の恐怖がよみがえってきて寒気がする。
向こう側でピンクのつれあいのトッちゃんが帰ってきた。少し話し、「機会があったら家族を連れて帰るからその時会おう」と受話器をおろした。

オリンピックが近づくにつれて国中がフェアゴー精神(公正精神。ただしあくまでも理想)だとか豪州魂の発揚だとかで自分たちの素晴らしさに酔いはじめた。美談嫌いのぼくのねじ曲がった根性にはちょっとたえられない。それにしても、日本であろうとオーストラリアであろうと国家規模で自分たちを美化して集団自己陶酔できる心理というものにだけは生涯なじめんやろなあと思う。知り合いには冗談に「オーストラリア人は自己称賛が上手やなあ」と言うけど、よう意味がわからんという顔をする。
世界各国から移民の集まっている国だからみんなが自己称賛が好きだとか上手だとかというわけでもないだろう。先年なくなったオランダ出身の義母は、子供の自慢をする親を「おろかな人」と批評していたから、そういうのが嫌いな人もいるはず。
それでも、ぼくが「豚児・愚妻」表現をすると、オーストラリア生まれの妻は血相変えて、「離婚させていただきます」だ。自分ではぼくのことを宿六扱いしているくせに。
それに「誰それさんが、うちのモニカを賢そうなお子さん言うて誉めてくれた」とうれしそうに言う。
「ただのおべんちゃらやないか」と相手にしないでおくと、ふてくされて、
「ほな、あんたはモニカがあほやと思うのか?」と極端である。
「聞くけどな、他人の子のことを、あなたのお子さんは家族の恥ずかしい話をよその人にベラベラしゃべって面白い子ですねえ、言うか? どない言うねん。賢そうなお子さんですねえ、くらいのことやろ」
妻の素朴さがよう分からん。よう分からんが、世間の雰囲気のおかげで里帰り気分にもますます弾みがつく。

「もう年やからオーストラリアまで行くのはしんどい」という親父にせめてこの機会に孫の顔を見せてやりたいとか、3人の子供が子供料金で飛行機に乗れる間に日本を見せてやりたいなどと柄にもなく世間並みのことを考え始めたし、子供たちにも日本語で「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう」だけはみっちり仕込んだ。何かを買ってもらった時の用意である。
ぼくは、テレビ・ニュースを見ながら、
「しかし、オーストラリア・ドルが安いなあ」と思わずこぼした。
「今、なんぼやのん?」妻のアンマリーが聞く。
「1ドルが60円やて。12年前は115円、ポンドからドルに切り替えた30年前には400円やからなあ」
「7分の1かあ。いよいよバナナ共和国やなあ。子供の衣類もあんまり買われへんか」
も一つ意気が盛り上がらない。バナナ共和国というのは少し前の蔵相が、オーストラリアはこのままでは、バナナしか輸出する物がなくて通貨の弱い太平洋の小国のようになると言ったからで、蔵相はその後首相になったが、ドルの落ち目は止まらず、選挙で政権の座から追い出された。それでもドルのジリ貧は止まらない。

窓の外に赤い水平の光が広がり始めた。紀伊半島上空は一面に平らな低い雲が覆っている。飛行機がその下に出ると、光の輪郭がまだ夜の去らない港をかたどっている。やがて和歌山市の明かりが広がってきた。その先の広大な闇は和泉山脈のようである。泉南にかかると飛行機はかすみのかかったような下界の光に向かってぐんぐん沈んでいった。
関空の税関ゲートは「日本人」と「外国人」の二つしかない。アンマリーが「エリアンやて」という。なるほど外国人のところの英語が ALIEN になっている。ランダムハウスの英和辞典を引くと、外国人、異邦人、他の人種(民族、社会集団、土地)の人、よそ者、(公民権を得ていない)居留(在留)のけ者、門外漢、ある特権から締め出された人、 (SF で)宇宙人、異星人、エーリアンなどとなっている。確かにあんまり気持ちのいいニュアンスではない。ちなみにオーストラリアでは RESIDENTS(居住者)とNON-RESIDENTS(非居住者)という言葉を使っている。
とりあえず「宇宙人」の長い列の後に立った。
税関のある大きな部屋は構造物剥き出しの殺風景な内装だった。
「これは作業途中なんやろか、それとも意図的に旅行者が居心地悪いように造ったるんやろか。ひょっとするとふた昔以上前に流行ったコンクリート打ちっぱなし建築かもしれんなあ」などとアンマリーと会話を交わす。
3人の宇宙人の子供は走り回ったり、床に寝ころがったり、だんだん手に負えなくなる。やっとぼくたちの番が来た。税関係官というのがよく見れば非常に若い。はっと気づいた。自分が年をとったのだ。昔、検疫のゲートで簡単な持ち物検査の後突然「タイマ持ってませんか?」と聞かれたことがある。一瞬何のことか分からなかったが、ああ、そうか、大麻か、と気がついて、「おっちゃん引っかけうまいなあ。持ってへん。持ってますと答える人おるんか?」と返事したら、構ってられないという顔で通してくれた。そうやろな、答なんか期待してないんやろな。大麻持ってる奴の表情とか仕草とかそういうものの観察の訓練を受けとるんやろうなあ、と思う。
それやったらこっちも芝居の訓練して、検疫を通る時に自分が大麻を隠し持っているつもりになりきって、「タイマ持ってますか」と聞かれたらびくっとして、「いや、バックパックの左のポケットに隠してません」とか答えて、当然「こちらの部屋にどうぞ」と徹底的に調べられて、そこでバッグパックの左のポケットからキッチン・タイマーが転がり出るなんていうのはどうやろか、と考える。残念なことにいざ旅行という段になるとすっかり忘れているのである。ただ、今回の関空の若い係官はにこやかで子供に愛想まで言う。最近は接客訓練が行き届いているとみえる。

「モニカちゃん。いくつ? そう四つ。賢いね」
アンマリーが誇らしげな顔をしている。考えていることは分かる。「ほらな、誰でもモニカが賢いということは分かるんよね。あほやと思てるのはあんただけや」

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最終更新: 19-09-2005

 

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